第20話 歪められる視線
昼休みの廊下。
俺は、グラウンドへ向かう途中で足を止めかけた。
「ねえ、あの人でしょ」
「うん。“告一”」
ひそひそとした声。
けれど、聞こえる。
聞こえるくらいの声で、言っている。
「また見てたらしいよ」
「巴様のこと?」
「そうそう」
「キモ……」
足を止めるな。
そう思った。
止めたら、そこに反応したことになる。
だから、歩く。
廊下をまっすぐ。
いつも通りに。
(……来たな)
彩音に言われた噂は、思っていたより早く広がり始めていた。
最初は、小さな話だったはずだ。
一部の生徒が言っているだけ。
まだ大きくはない。
そう聞いていた。
でも、噂というものは、思っているより足が速い。しかも、少しずつ形を変える。
「巴様を追いかけてるんでしょ?」
「陸上部もそれで入ろうとしたらしいよ」
「やばくない?」
「教室からずっと見てるって」
「しかも、なんか……そういう目で」
「うわ、最悪」
そこまで聞こえたところで、胸の奥が少しだけ冷えた。
(……それは違うだろ)
でも、口には出さない。
言ったところで、今この場で何かが変わるわけではない。むしろ、反応したことで余計に面白がられるだけかもしれない。
俺は、巴を見ていた。
それは事実だ。
グラウンドで走る姿を見ていた。
綺麗だと思った。
すごいと思った。
近づきたいと思った。
認められたいと思った。
陸上部に入ろうとしたのも、真田がいる場所に近づきたいと思ったからだ。
そこだけを切り取れば、噂は完全な嘘ではないのかもしれない。
だからこそ、余計に嫌だった。
全部が嘘なら、まだ怒れる。
でも、そこに少しだけ事実が混ざっている。
その事実を、嫌な形に曲げられている。
それが、思ったよりきつかった。
階段の踊り場に、人だまりができていた。
中心にいるのは、西園寺さつき。
真田巴ファンクラブの中心人物。
周りには、何人かの女子がいる。
俺が近づくと、何人かがこちらを見た。
視線が刺さる。
「だから言ったじゃん」
西園寺が腕を組んだまま言う。
「あの人、ちょっとおかしいって」
「“告一”だしね」
「週一で告白してたって本当?」
「さあ。でもそういう噂あるよね」
くすくすと笑いが広がる。
俺は黙って通り過ぎようとした。
だが、その時。
「巴様も迷惑でしょ」
その言葉だけは、少し深く刺さった。
迷惑。
考えたことがないわけではない。
何度も考えた。
俺が近づくことで、真田に迷惑をかけていないか。
グラウンドに行くことで、余計な噂を生んでいないか。
名前を覚えてほしいと思ったことも。
陸上部に入ろうとしたことも。
全部、自分勝手だったのではないか。
そういう考えは、何度も浮かんだ。
(違う。逃げてないだけだ)
俺は前を見た。
逃げない。
正面から行く。
誤魔化さない。
そのつもりだった。
それでも、周りからどう見えるかは別だ。
そこを、俺は軽く考えすぎていたのかもしれない。
西園寺の視線を感じる。
でも、振り向かなかった。
歩く。
グラウンドへ向かう。
今日も走るために。
基準タイムに届くために。
ちゃんと陸上部に入るために。
「恒一!」
その時、後ろから声がした。
振り向くと、基樹と純也がいた。
二人とも、少しだけ険しい顔をしている。
「……聞いたぞ」
基樹が言った。
「噂」
純也が、軽くため息をつく。
「派手にやられてるな」
「……まあな」
俺は軽く返した。
軽く返したつもりだった。
でも、たぶんあまり軽くは聞こえなかったと思う。
基樹が眉を寄せる。
「気にしてないのかよ」
「気にはする」
正直に言った。
「でも、やめる理由にはならない」
二人が、少しだけ黙った。
廊下のざわめきだけが残る。
基樹は、呆れたように息を吐いた。
「……ほんと」
「なんだ」
「変わんねえな、今のお前は」
「前は?」
「前はもっと変だった」
「ひどいな」
「今も変だけど、方向は前よりまし」
「褒めてるのか」
「半分」
基樹らしい言い方だった。
純也も横で笑う。
「でも、まあ、恒一らしいよな」
「そうか?」
「うん。噂が出たくらいでやめるなら、最初からここまで来てないだろ」
「それはそうだな」
自分でもそう思う。
噂はきつい。
嫌な形に曲げられるのは、かなり苦い。
でも、それでやめるなら、そもそも真田に名前を覚えてもらおうとはしなかった。
手紙も渡さなかった。
陸上部に入ろうともしなかった。
基準に届かなかったあと、もう一度挑戦しようとも思わなかった。
「でもさ」
基樹が、少し真面目な顔になる。
「やり方は気をつけろよ」
「ああ」
「誤解されてるのも事実だ」
「分かってる」
俺はうなずいた。
それは、昨日からずっと考えている。
彩音にも言われた。
気持ちがどうかではなく、見え方の問題。
自分では正面から行っているつもりでも、周りにはそう見えないことがある。
巴を困らせるつもりがなくても、結果的に巴へ噂が向かうこともある。
俺は、その部分を考えないといけない。
「変えるべきは、そこだと思ってる」
「そこ?」
純也が聞く。
「やることは変えない」
俺は言った。
「走る。基準に届かせる。ちゃんと陸上部に入る」
「ああ」
「でも、見せ方は変える」
言葉にして、少し整理される。
「誤解されないようにする」
「具体的には?」
基樹が聞く。
「まず、一人で真田を見続けるみたいなことはしない」
「それは大事だな」
「グラウンドへ行く時も、練習目的だと分かるようにする」
「うん」
「誰かに見てもらうなら、顧問か部員の前でやる」
純也が小さく笑った。
「お、だいぶ現実的」
「そうか」
「うん。前のお前なら、気合いで何とかなると思ってそう」
「否定できない」
基樹が少しだけ安心したように息を吐く。
「それならいいと思う」
「いいのか」
「少なくとも、何も考えずに突っ込むよりは」
「それはそうだな」
「あと、真田にも迷惑かけないようにしろよ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
基樹はまだ少し疑っている顔だった。
その顔を見ると、俺が今までどれだけ信用のないことをしてきたのか、少し分かる。
たぶん、かなりある。
「まあ、ここからどうするかだな」
純也が肩をすくめる。
「噂は勝手に広がるし、勝手に歪む」
「ああ」
「でも、ちゃんと行動してりゃ、見てるやつは見てる」
その言葉に、少しだけ胸が軽くなった。
「……そうだな」
「それにさ」
純也は、階段の方を見る。
「噂してる側って、だいたい細かいところ見てないから」
「細かいところ?」
「お前が基準タイムに届かなくて、一回入部を断ったこととか」
「ああ」
「そういうのを見たやつは、少しずつ変わると思うぞ」
基樹も頷いた。
「少なくとも、俺はそう思う」
「……ありがとな」
「礼を言う前に、ちゃんとやれ」
「ああ」
「無理はするな」
「そこも分かってる」
「怪しい」
「怪しいな」
純也が笑う。
俺も少しだけ笑った。
でも、状況は変わらない。
廊下ではまだ、俺を見る視線がある。
ひそひそとした声も消えていない。
歪められた視線は、すぐには戻らない。
それでも。
(やめない)
足は止めない。
ただし、前と同じでは駄目だ。
正面から行くことと、周りを見ないことは違う。
誠実でいることと、自分のやり方だけを押し通すことも違う。
たぶん、俺はそこを間違えかけていた。
「行く」
俺は言った。
「グラウンド?」
「ああ」
「今日は走るだけか?」
「走るだけだ」
「真田を見に行くんじゃなく?」
「走りに行く」
はっきり言った。
基樹が、少しだけ笑う。
「ならいい」
純也も軽く手を振った。
「行ってこい。噂より速くなれよ」
「なんだそれ」
「なんかいい感じのこと言ったつもり」
「半分くらいな」
「半分か」
俺は二人と別れ、グラウンドへ向かった。
背中にまだ視線はある。
声もある。
でも、足は止まらない。
歪められる視線があるなら、歪められにくい行動を積むしかない。
それも、たぶん積み重ねだ。
グラウンドへ出る。
夕方の風が、少しだけ冷たかった。
俺は鞄を置き、靴ひもを結び直す。
今日は誰かを見るためではなく。
ちゃんと走るために来た。
そのことだけは、自分に嘘をつかずにいられた。
噂は、まだ消えない。
それでも、俺は走る。
止まらないためではなく。
今度こそ、正しく前に進むために。




