第19話 噂と覚悟
放課後。
教室に残っていたのは、俺と彩音だけだった。
窓の外は、夕方の色になっている。グラウンドの方からは、部活動の声がかすかに聞こえていた。
俺は自分の席に座り、鞄を机の横に置いた。
「で?」
机に頬杖をつきながら、彩音がこちらを見る。
目が、明らかに興味津々だった。
「どうだったの、陸上部」
「……好きだな、そういう話」
「好きだよ」
即答だった。
「だって恒一が自分から動く話だし」
「珍しいか?」
「珍しくはないけど、今回は方向がちゃんとしてそうだから」
「方向」
「うん」
彩音は少し笑った。
「指輪よりは、だいぶ」
「それは言うな」
「言うよ」
俺は苦笑しながら、椅子に座り直した。
「テストを受けた」
「うん」
「基準タイムがあった」
「うん」
「少しだけ足りなかった」
「……え」
彩音の表情が少し変わる。
「でも、顧問には入っていいって言われた」
「じゃあ入ったの?」
「断った」
「……は?」
彩音の顔が固まった。
それから、椅子から少し身を乗り出す。
「なんで!?」
「タイムに届いてなかったから」
「いやいやいや」
彩音は信じられないものを見るような顔をした。
「そこは入るところでしょ?」
「そうなのか?」
「そうだよ。せっかく先生がいいって言ってくれたんでしょ?」
「ああ」
「なら入って、そこから頑張ればよかったじゃん」
彩音の言うことは分かる。
普通に考えれば、そうなのかもしれない。
仮入部でもいい。
まずは入って、練習しながら追いつく。
そういうやり方もある。
でも。
「違うと思った」
「違う?」
「ああ」
俺は少しだけ窓の外を見る。
夕方のグラウンド。
さっきまで自分が立っていた場所。
基準タイムに届かなかった場所。
そして、真田が見ていた場所。
「入れてもらうことはできた」
「うん」
「でも、約束した基準には届いてない」
「……」
「そこで入ったら、たぶん自分をごまかす」
彩音は黙った。
俺は続ける。
「ちゃんと届いてから入りたい」
言葉にすると、思ったよりはっきりしていた。
「そうじゃないと、俺があそこに行きたいと思った理由と、少し違う気がした」
「……そっか」
彩音は小さく呟いた。
さっきまでの驚いた顔ではなくなっている。少しだけ、納得したような顔だった。
「真っすぐで、今の恒一らしいね」
「そうか」
「うん」
彩音はふっと笑う。
「前だったら、絶対入ってたと思う」
「そうかもしれない」
「たぶん、巴に近づけるなら何でもいいって感じで」
「……否定できないな」
「でも今は違うんだね」
「たぶん」
「たぶんじゃないと思うよ」
彩音は、少しだけ優しい声で言った。
「ちゃんと考えてる」
そう言われると、少し落ち着かなかった。
褒められるのは、まだ慣れない。
「じゃあ、どうするの?」
「もう少し、自分でやる」
「トレーニング?」
「ああ」
「無理しすぎない範囲で?」
「……努力する」
「そこ、断言してほしいなぁ」
「無理しすぎない」
「よし」
彩音は満足そうに頷いた。
「ちゃんと届くようになってから、もう一回行く」
「それ、いいと思う」
「そうか」
「うん」
彩音は窓の外を見る。
「そういうの、巴は好きそうだし」
その言葉に、少しだけ口元が緩んだ。
「だろ?」
「うん」
「真田も、少し笑ってた」
「へえ」
彩音の目がすっと細くなる。
完全に興味を持った顔だった。
「どんな感じ?」
「ほんの少し」
「ああ」
「嬉しかった?」
「……まあ」
「ふーん」
彩音がにやっと笑う。
「よかったね」
「そうだな」
本当に。
あの微笑みだけで、今日は十分だった。
基準には届かなかった。
入部もできなかった。
でも、間違っていないと思えた。
それは、かなり大きかった。
彩音は、そのあと少しだけ表情を変えた。
「あのさ」
「なんだ」
「一個、言っとくね」
声が、少し落ちる。
さっきまでの軽さが消えた。
俺は姿勢を正した。
「今、ちょっとだけ」
「うん」
「噂、出てる」
嫌な予感がした。
最近、嫌な予感ばかり当たる。
「……何の?」
彩音は少し言いにくそうにした。
それでも、ちゃんと言った。
「恒一が」
「ああ」
「巴のストーカーじゃないかって」
思考が止まった。
「……は?」
間の抜けた声が出た。
彩音はすぐに手を振る。
「あ、まだ大きい話じゃないよ」
「……」
「一部の子が言ってるだけ。ほんとに一部」
「……」
「でも、ちょっとずつ広がりそうな感じはある」
言葉が、じわじわと染みていく。
ストーカー。
俺が、真田の。
(俺が、ストーカー……?)
そんなつもりはない。
でも、他人から見ればどうだ。
真田を見ている。
グラウンドへ行っている。
名前を覚えてもらおうと手紙を渡した。
近づこうとしている。
陸上部にも入りたいと言った。
失敗して、また挑戦するつもりでいる。
俺の中では、全部つながっている。
逃げずに。
正面から。
少しずつ。
でも、外から見たら。
ただ、真田巴を追いかけている男子に見えるのかもしれない。
「……まじか」
小さく呟いた。
「うん」
彩音は、少しだけ心配そうな顔をする。
「気をつけた方がいいと思う」
「ああ」
「恒一の気持ちがどうとかじゃなくて」
「うん」
「見え方の問題」
「見え方」
「そう」
彩音は机に置いた指先を、少しだけ動かした。
「恒一は、正面から行ってるつもりなんだと思う」
「ああ」
「それは分かるよ。私も見てるし」
「……」
「でも、見てない人には、そう見えないこともある」
苦かった。
自分では正しいつもりだった。
逃げずにいるつもりだった。
真田に対して、ちゃんと向き合っているつもりだった。
でも、見方が変われば、違って見える。
そのことを、俺はあまり考えていなかった。
「俺は」
言いかけて、止まる。
違う、と言いたかった。
ストーカーじゃない。
真田を困らせたいわけじゃない。
ただ、近づきたい。
認められたい。
でも、それを言ったところで、見え方が変わるわけではない。
「……気をつける」
俺はそう言った。
彩音は小さく頷いた。
「うん」
「教えてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
彩音は少しだけ笑った。
それから、真面目な顔のまま続ける。
「でもさ」
「ああ」
「私は違うと思ってるから」
俺は顔を上げた。
「ちゃんとやってるの、見てるし」
「……」
「不器用で、ズレてて、たまに重いけど」
「そこまで言うか」
「言うよ」
彩音は、少しだけ口元を緩める。
「でも、悪いことをしようとしてるわけじゃないのは知ってる」
その言葉に、少しだけ救われた。
「ありがと」
「うん」
教室が静かになる。
外から、部活の声が聞こえる。
俺は机の上で、軽く拳を握った。
(変えないとだな)
気持ちは変えない。
やることも、大きくは変わらない。
真田に近づきたい。
認められたい。
同じ場所に立ちたい。
そのために走る。
それは変わらない。
(でも、やり方は考える)
誤解されない形で。
真田を困らせない形で。
周りに変な不安を持たせない形で。
ちゃんと近づく。
それはたぶん、思っていたより難しい。
でも、必要なことだった。
「彩音」
「なに?」
「俺、やっぱり陸上部には入る」
「うん」
「でも、ちゃんと届いてから入る」
「うん」
「それと、真田に迷惑がかからないようにする」
「それ、大事」
「ああ」
「できそう?」
「……努力する」
「そこも断言してほしいけど」
「考える」
「まあ、恒一にしては進歩かな」
「そうか」
「うん」
彩音は立ち上がり、鞄を持った。
「帰ろっか」
「ああ」
俺も鞄を手に取る。
教室を出る前に、もう一度窓の外を見る。
グラウンドでは、誰かが走っていた。
真田かどうかは分からない。
でも、その場所を見て、また少し胸が熱くなる。
届かなかった一歩。
小さな噂。
考えなければいけないやり方。
全部、重い。
けど、前に進む理由にはなっても、止まる理由にはならなかった。
俺は教室の電気を消し、彩音と一緒に廊下へ出た。
誤解されない形で、ちゃんと近づく。
その難しさを、ようやく少しだけ知った日だった。




