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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
すれ違い編

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第18話 届かなかった一歩

 グラウンド。


 夕方の風が、少しだけ土の匂いを運んでいた。


 陸上部の練習が始まる前。

 俺は、顧問の先生の前に立っていた。


「二年から入部希望か」


「はい」


 顧問の先生は、俺を上から下まで見る。


 横には何人かの部員がいた。


 少し離れたところに、真田巴もいる。


 その視線が、少しだけ気になった。


 でも、今はそこを見すぎると駄目だ。


 俺は、先生を見る。


「本気でやるつもりはあるんだな」


「あります」


「じゃあ、一回走ってみろ」


 顧問はそう言って、ストップウォッチを手にした。


「基準タイムを超えたら、正式に入部を考える」


「はい」


 基準タイム。


 事前に聞いた数字は、簡単ではなかった。


 でも、不可能だとも思わなかった。


 最近の自分なら、届くかもしれない。

 そう思えるくらいには、走ってきた。


 俺はスタートラインに立つ。


 足元の土を見る。

 呼吸を整える。


(ここだ)


 真田に近づきたい。


 名前を覚えてもらいたい。

 認められたい。


 その気持ちで走り始めた。


 でも、今ここに立っているのは、それだけじゃない。


 ちゃんと走りたい。


 この場所に入るなら、誤魔化さずに入りたい。


 胸の奥で、心臓が強く鳴っている。


「位置について」


 顧問の声が聞こえる。


 体を低くする。


 指先が土に触れる。


「よーい」


 音が遠くなる。


 真田の視線も。


 部員たちのざわめきも。


 全部、遠くなる。


 今は、前だけを見る。


「ドン!」


 走った。


 全力で。


 一歩目。

 二歩目。

 三歩目。


 足が前に出る。


 腕を振る。


 息がすぐに熱くなる。


(いける)


 前より軽い。

 前より動く。


 地面を押せている。


 そう感じた。


 でも、同時に分かる。


 まだ粗い。

 まだ足りない。


 体のどこかが、ほんの少し遅れている。


 それでも、止まらない。


 ゴールラインを越える。


「……っ、はぁ……!」


 膝に手をついた。


 呼吸が整わない。


 肺が熱い。


 足も重い。


 でも、全部出した。


 今の自分で出せるものは、出した。


 顧問がストップウォッチを見る。


 部員たちも、黙って結果を待っていた。


 一瞬の間が、やけに長かった。


「……惜しいな」


 その一言で、分かった。


 届かなかった。


「基準に、ほんの少し足りない」


「……そうですか」


 自分でも意外なくらい、静かな声だった。


 悔しさが、じわっと広がる。


 あと少し。


 本当に、あと少しだったのだろう。

 でも、そのあと少しが届かなかった。


(届かなかった)


 それだけだ。


 言い訳はない。


 顧問は腕を組み、俺を見る。


「まあ」


「はい」


「ここまで走れるなら、悪くはない」


「……」


「仮入部扱いでいいなら、入ってもいい」


 周囲が少しざわついた。


 俺は顔を上げる。


「……いいんですか?」


「二年からだしな。やる気があるなら、様子を見る形でもいい」


 顧問の言葉はありがたかった。


 普通なら、そこで頷くべきなのかもしれない。


 仮入部でもいい。


 まず入って、そこから頑張ればいい。


 そういう考えもある。


 でも、その時、視線が合った。


 真田巴。


 少し離れたところで、彼女がこちらを見ていた。


 眉が、ほんの少し寄っている。


 怒っているわけではない。

 呆れているわけでもない。


 ただ、不満そうだった。


(……あ)


 分かった。


 言葉にされなくても、分かった。


 それは違う。


 そんな顔だった。


 甘い。


 今のまま入るのは、違う。


 基準に届いていないのに、形だけ入っても意味がない。


 俺が見たい真田は、そういう場所に立っていない。


 真田に見てもらいたい俺も、そういう入り方をしたいわけじゃない。


 胸の奥が、すっと静かになった。


「……すみません」


 俺は顧問に向き直る。


「やっぱり、今回はやめます」


「……は?」


 顧問が少し驚いた顔をした。


 部員たちも静かになる。


「約束のタイムに届いていないので」


 はっきり言った。


「だから、今は入れません」


「仮入部でもいいと言ってるんだぞ」


「ありがとうございます」


 俺は頭を下げる。


「でも、基準に届いてから入りたいです」


 周囲が黙った。


 風の音だけが聞こえる。


「また、テストを受けさせてください」


 顧問は、しばらく俺を見ていた。


「……本気か?」


「はい」


 迷いはなかった。


 さっきまでの不安が嘘みたいに、そこだけははっきりしていた。


「ここで入ってしまったら、たぶん俺は自分をごまかします」


「……」


「だから、届いてから入りたいです」


 顧問は何も言わなかった。


 少しだけ、真田の方を見る。


 それから、また俺を見る。


「……いいだろう」


「ありがとうございます」


「次は、ちゃんと届かせろ」


「はい」


 俺はもう一度、頭を下げた。


 そして、そのままグラウンドを離れた。


 背中に、いくつかの視線を感じる。


 驚き。

 困惑。

 少しだけ感心。


 いろいろ混ざっていたと思う。


 でも、今は振り返らなかった。


(悔しいな)


 かなり悔しい。


 あと少しだった。


 手を伸ばせば届きそうだった。


 それでも、届かなかった。


(でも、これでいい)


 誤魔化して入るのは違う。


 甘えて入るのも違う。


 ちゃんと、届いてから入る。


 それが、今の俺のやり方だ。


 そう思いながら歩いていると、ふと気配を感じた。


 振り返る。


 真田巴が立っていた。


 夕方の光の中で、こちらを見ている。


 そして、ほんの少しだけ、笑っていた。


 いや、微笑んでいた。


 ほんの少し。


 でも、確かに。


「……」


 胸の奥が、軽くなった。


 それでいい。

 そう言われた気がした。


 今日の結果は負けだ。


 基準には届かなかった。


 入部もできなかった。


 それでも。


(間違ってない)


 そう思えた。


 真田が何も言わずに見せた、ほんの少しの笑み。


 それだけで、十分だった。


 俺は前を向き直る。


 次は届かせる。


 そう決めて、もう一度歩き出した。


 届かなかった一歩は、無駄ではなかった。


 ただ、次の一歩を少しだけ重くした。

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