第17話 決める理由
廊下の窓の前で、俺は立ち止まっていた。
グラウンドへ行く。
陸上部に入りたいと伝える。
言葉にすれば、それだけだ。
それだけなのに、足が動かない。
(……二年からって、ありなのか)
考え始めると、次々に余計なことが浮かんでくる。
今さら入部したいと言って、迷惑ではないのか。
部の雰囲気を乱さないか。
真田に、変な目で見られないか。
そもそも、真田に近づきたいから入るなんて、動機として不純ではないのか。
「……」
窓に映る自分の顔は、やけに情けなかった。
走ると決めた時より、ずっと弱い顔をしている。
バイト終わりに公園で腕立てしていた時の方が、まだ迷いがなかった。
なのに今は、たった一歩を踏み出すだけで止まっている。
「……はぁ」
小さく息を吐いて、窓の外を見た。
グラウンド。
そこに、真田巴がいた。
練習前なのか、軽く体を動かしている。
風が吹いた。
高い位置で結ばれたポニーテールが、ふわりと揺れる。
しなやかに。
弾むように。
でも、姿勢は崩れない。
軸がある。
芯がある。
立っているだけで、そこに一本の線が通っているようだった。
真田が、ゆっくりとスタート位置に立つ。
低く構える。
一瞬、空気が締まる。
そして、走り出した。
速い。
何度見ても、そう思う。
地面を蹴る音。
前へ進む体。
無駄のない腕の振り。
迷いのない足運び。
ただ速いだけじゃない。
ちゃんと、自分のやるべきことをやっている走りだった。
(……すげえな)
思わず、そう思う。
でも、それだけではなかった。
真田の走りを見ていると、胸の奥が少し痛くなる。
あの人は、逃げていない。やるべきことから目を逸らさず、まっすぐ前へ進んでいる。
強いから走っているのではない。走っているから、強く見えるのだと思った。
(俺は?)
自分に問いかける。
俺は何をしている?
悩んでいる。
立ち止まっている。
迷惑かもしれない。
浮くかもしれない。
断られるかもしれない。
そんなことばかり考えて、まだ何もしていない。
断られてから悩め。
純也の言葉が、頭の中に戻ってくる。
そうだ。
まだ、断られてもいない。
俺はまだ、何も言っていない。
「……違うだろ」
小さく呟いた。
何のために走り始めたのか。
何のために名前を覚えてもらいたかったのか。
何のために、少しでも変わろうとしたのか。
真田に近づきたい。
真田に認められたい。
その気持ちは、たぶん不純なだけではない。少なくとも、今の俺は、真田をただ遠くから見ていたいわけではなかった。
同じ場所に立ちたい。
同じグラウンドで、ちゃんと走りたい。
逃げずに、自分の足で前へ進みたい。
それだけだった。
もう一度、真田を見る。
走り終えた真田は、膝に手をつくこともなく、軽く息を整えていた。
風の中で、まっすぐに立っている。
その姿を見て、ようやく分かった。
(あそこに行きたい)
理由は、それで十分だった。
二年からでもいい。
迷惑かどうかは、聞いてから考えればいい。
浮くかどうかは、入ってから努力すればいい。
真田にどう思われるかは、俺がちゃんとやるかどうかで決まる。
今ここで立ち止まっている方が、ずっと情けない。
「……よし」
足が動いた。
今度は、迷わなかった。
廊下を歩き出す。
階段を降りる。
昇降口へ向かう。
外の空気が近づくにつれて、胸の奥が少し熱くなる。
怖さはある。
不安もある。
でも、もう止まる理由にはならない。
向かう先は、グラウンド。
そこにいるのは、真田巴。
そして、これから自分が踏み込もうとしている場所。
もう、立ち止まる理由はなかった。
ただし、入部届より先に、心臓の方が全力疾走を始めていた。




