第224話 夕焼けの告白?
放課後。
陸上部の練習は、いつもどおり続いていた。県大会が近いこともあり、部員たちはそれぞれ自分の種目の練習に集中している。
恒一も何本か走り終え、呼吸を整えながらタイムを確認していた。
「巴」
「何だ?」
「次、もう一本いけるか?」
「ああ。問題ない」
巴がスタート位置へ向かう。
百九十センチ近い長身。道場育ちのまっすぐな背筋。走る前になると、普段以上に姿勢が引き締まって見える。
恒一はストップウォッチを構えた。
「準備いいか?」
「ああ」
「じゃあ、行くぞ」
巴が走り出した。長い脚が大きく前へ出て、地面を蹴るたびに速度が上がっていく。
恒一はゴール地点で時計を止めた。
「どうだ?」
「悪くない」
「本当か?」
「ああ。ただ、後半もう少し上げられると思う」
「そうか」
「もう一本やる?」
「いや」
巴は少し考えてから首を横に振った。
「今日はここまでにしておく」
「珍しいな」
「そうか?」
「巴なら、もう一本やるって言うと思った」
「やりすぎてもよくないだろう」
「まあ、それはそうだけど」
恒一はストップウォッチをしまい、周囲を見る。
少し前までたくさんいた部員も、かなり減っていた。練習を終えた者から、片づけや着替えに向かっている。
空も、少しずつ赤くなり始めていた。
「今日も終わりだな」
「ああ」
巴は空を見る。
そこで、動きが止まった。
夕日が校舎の向こうへ沈みかけ、空一面が赤く染まっている。雲にも夕日の色が映り、グラウンドまで薄く赤く見えた。
巴はしばらく何も言わなかった。
数日前、千夜に話したことを思い出す。
部活が終わったあと、人の少なくなったグラウンドで、夕焼けの中、恒一と二人きりになって告白する。
自分が考えた場面と、ほとんど同じだった。
けれど。
――それまでは、告白しない方がいいと思う。
千夜にそう言われた。自分も約束した。
待つ、と。
だから、今日は言わない。
巴はそう決めた。
「綺麗だな」
隣から恒一の声がした。
「……え?」
「夕焼け」
恒一も空を見上げていた。
「今日はかなり綺麗だな」
「……ああ」
巴は返事をする。
その時、別のことを思い出した。
千夜は言っていた。恒一は、あまり夕焼けが好きではないらしい、と。
巴は隣を見る。
恒一は普通に夕焼けを眺めている。嫌そうには見えない。
「恒一」
「何だ?」
「お前、夕焼けは嫌いだったんじゃないのか?」
「夕焼け?」
「ああ」
恒一は少し考えた。
「どうだったかな」
「覚えていないのか?」
「嫌いってほどじゃなかったと思うけどな」
恒一はもう一度、赤く染まった空を見る。
「少なくとも、今は嫌いじゃないよ」
「そうなのか?」
「ああ。こういうの、見てても飽きないしな」
「飽きない?」
「うん」
恒一はしばらく夕焼けを眺めていた。そして、ふと巴へ目を向けた。
「何か、巴みたいだな」
「……私?」
「ああ」
巴が目を瞬く。
「どういう意味だ?」
「巴が走ってるところも、見てて飽きないから」
「……」
「何本走ってても、ずっと見てられる」
巴の顔が一気に熱くなった。
「わ、私の走っているところをか?」
「ああ」
「そんなにか?」
「一生懸命やってるの見てると、俺も走りたくなるしな」
恒一は何でもないことのように答えた。
「だから、全然飽きないよ」
「……そうなのか」
巴はそれ以上、何も言えなくなった。
胸がうるさい。
恒一は再び夕焼けへ目を向ける。
赤く染まった空には、沈みかけた夕日が浮かんでいる。しばらく、二人とも何も言わなかった。
けれど巴の頭の中には、さっきの恒一の言葉が残ったままだった。
ずっと見ていられる。全然飽きない。
そんなことを、自分に言われたことなどなかった。
今なら。
そんな考えが頭をよぎった。
駄目だ。
千夜と約束した。まだ告白しない。タイミングが来たら、千夜が教えてくれる。
そういう話だった。
「巴?」
「……何だ?」
「さっきから静かだけど、疲れたか?」
「いや」
「ならいいけど」
恒一は再び夕焼けを見る。
グラウンドには、もうほとんど人が残っていない。少し離れたところで、片づけをしている部員が何人かいるだけだった。
赤い空。二人きりに近いグラウンド。そして、隣には恒一がいる。
巴は拳を軽く握った。
言わない。
言ってはいけない。
そう思っているのに。
「恒一」
名前を呼んでいた。
「何だ?」
恒一が振り向く。
巴は一瞬、言葉が出なかった。もう戻れない気がした。
「お前は……」
「うん?」
巴の顔が少し熱くなる。
「……好きなのか?」
「ああ」
恒一はすぐに頷いた。
「好きだよ」
巴の心臓が跳ねた。
頭の中が、一瞬真っ白になる。
「……そうか」
「ああ」
「私も」
「ん?」
「私も好きだ」
「そうなのか」
「ああ」
言った。
とうとう言ってしまった。
千夜には待つと約束した。それなのに。
だが、もう止められなかった。
「私は……」
巴は顔を上げる。
「できるなら、ずっとこうしていたい」
恒一が少しだけ首を傾げた。
「ずっとは無理だろ」
巴の表情が止まった。
「……え?」
「いつかはいなくなるもんだ」
胸の奥が冷たくなる。
「……いなくなる?」
「ああ」
「どうしてだ?」
「ずっと同じままってわけにはいかないだろ」
巴は何も言えなくなった。
「今はこうして一緒にいられるけど、いつかは終わる」
「……そうなのか」
「ああ」
巴は俯いた。
恒一は好きだと言った。自分も好きだと言った。それなのに、ずっとこうしてはいられないという。
いつかいなくなる。
いつかは終わる。
どういうことなのか、分からなかった。
「恒一」
「何だ?」
「お前は……一緒にいたくないのか?」
「いや」
恒一はすぐに首を横に振った。
「できるなら、ずっと見ていたいと思うよ」
巴の胸がまた大きく鳴った。
「……本当か?」
「ああ」
恒一は少し笑った。
「俺は好きだからな」
「……」
好き。
その言葉だけなら、嬉しかった。ずっと聞きたかった言葉だった。
だが。
「だから、今こうしていられる時間は大事にしたいけどな」
「……」
恒一の表情が少しだけ寂しそうになった。
巴は、その顔を見た。
嘘を言っているようには見えない。
自分と一緒にいたい。好きだ。でも、いつかいなくなる。
そして恒一自身も、それを寂しいと思っているように見えた。
巴の中で、話がつながり始めた。
――千夜。
ふと、千夜の顔が浮かんだ。
告白するなと言った。まだ早いと言った。夕焼けもやめた方がいいと言った。
もしかして、千夜は知っていたのではないか。
恒一が、いつかいなくなることを。
だから自分を止めたのではないか。告白してしまえば、自分が傷つくと分かっていたから。
それなのに、自分は約束を破った。
待つと言ったのに、夕焼けが綺麗だったから。恒一と二人きりだったから。
我慢できなかった。
――私が悪い。
巴は唇を噛んだ。
告白そのものは、成功したようにも思える。恒一は好きだと言ってくれた。一緒にいたいとも言ってくれた。
なら、成功したのかもしれない。
けれど、ずっと一緒にはいられない。いつかいなくなる。
それなら、ほとんど失敗したのと同じではないか。
「巴?」
恒一の声が聞こえた。
「どうした?」
「……」
巴は返事をしなかった。
目の奥が熱くなり、視界が少しだけ滲む。泣くつもりはなかった。それでも、目元にわずかに涙が浮かんだ。
「巴?」
「……すまない」
「え?」
巴は顔を背けた。
恒一に見られたくなかった。
「今日は、もう帰る」
「今から?」
「ああ」
「でも、まだ片づけが――」
「すまない」
巴はそれだけ言うと、走り出した。
「巴!」
恒一が呼ぶ。
だが、巴は止まらなかった。
グラウンドを抜ける。
いつもの練習とは違う。速さを意識して走っているわけでもない。
ただ、その場から離れたかった。
「真田?」
途中で佐藤の声がした。
佐藤は片づけを終え、部室へ向かうところだった。巴の様子を見て、足を止める。
「おい、どうした?」
「……何でもない」
「何でもないって、お前――」
巴は止まらない。佐藤の横をそのまま通り過ぎる。
「真田!」
もう返事はなかった。
佐藤は巴の後ろ姿を見る。いつもの巴とは明らかに違う。
目元が少し赤かったようにも見えた。
「……何があったんだ?」
佐藤はグラウンドの方を見る。
そこには恒一が立っていた。
恒一も、状況が分からない顔をしている。
◇ ◇ ◇
女子更衣室で、巴はほとんど誰とも話さなかった。
急いで着替え、声をかけられても短く返すだけだった。
頭の中では、さっきの言葉が何度も繰り返されている。
好きだ。一緒にいたい。
でも、ずっとは無理だ。
いつかいなくなる。いつかは終わる。
意味が分からない。
けれど、恒一が嘘をついているようには見えなかった。だから余計に分からなかった。
――千夜の言うことを聞けばよかった。
巴は鞄を持つ。
今日はもう誰とも話したくなかった。
特に恒一とは。
今顔を見れば、本当に泣いてしまうかもしれない。
巴はそのまま学校を出た。
◇ ◇ ◇
恒一はまだ夕焼けを見ていた。
さっきまで隣に巴がいた。
好きだと言っていた。ずっとこうしていたいとも言っていた。
それなのに、急に涙ぐんで、走って帰ってしまった。
「……何だったんだ?」
恒一は首を傾げる。
空を見る。
夕日は、もうかなり低くなっていた。さっきより赤みも薄くなっている。
「綺麗だったと思うんだけどな」
恒一には、巴がなぜ泣いたのか、まったく分からなかった。




