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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第223話 トラウマ


 日曜日。


 今日は珍しく、朝から真白が家に来ていた。


 最近は、真白も巴も、だいたい週に一度くらい朝比奈家へ来るようになっている。


 ただ、なるべく二人が同じ日にならないようにはしていた。


 今日来たのは真白だった。


 朝、真白が家に着いた時から、父と母は妙に機嫌がよかった。


「おはよう、真白ちゃん」


「おはようございます。本日もお邪魔いたします」


「そんなにかしこまらなくていいのよ」


「そうそう。もう何度も来てるんだから」


「ありがとうございます」


 父と母は、わざわざ二人そろって玄関まで出てきていた。


 恒一は少し離れたところから、その様子を見ていた。


 巴が来た時に、二人そろって玄関まで出迎えたことなどあっただろうか。


 たぶんない。


 少なくとも、恒一には記憶がなかった。


「恒一様、こちらはもう大丈夫です」


「分かった」


 台所では、真白が朝食を作っている。


 長い黒髪を邪魔にならないようまとめ、慣れた手つきで料理を進めていた。


 恒一が手を出す必要は、ほとんどない。


 もともと真白は料理が得意である。


 その間も、父と母は何度か台所の様子を見に来ていた。


「いい匂いだな」


「もうすぐできますので、少々お待ちください」


「ああ、楽しみにしてるよ」


 父は満面の笑みだった。


 恒一から見ると、もう顔が崩れっぱなしである。


 土砂崩れでも起きたのかと思うくらい、ずっと嬉しそうだった。


 しかも時々、なぜか恒一の背中まで叩いてくる。


「よかったな、恒一」


「何が?」


「いや、何となくだ」


「何なんだよ」


 以前は突然背中を叩かれるたびに驚いていたが、最近は恒一もだいぶ慣れてきた。


 ただし。


「痛いって」


「そんなに強く叩いてないだろ」


「父さんの普通が結構強いんだよ」


 加減には、まだ慣れていなかった。


 しばらくすると、食卓に朝食が並んだ。


「いただきます」


 父と母が箸を取る。


 真白は少し緊張した様子で二人を見ていた。


「お口に合えばいいのですけれど」


「うん。今日もおいしいよ」


 父がすぐに答えた。


「本当においしいわ」


 母も笑っている。


「ありがとうございます」


 真白の表情が柔らかくなる。


 父も母も、食べ始めてからずっと機嫌がよかった。


 料理を一口食べるたびに、父は満足そうに頷く。


 母も笑顔のままだ。


 皿に盛られた料理も、次々となくなっていく。


 真白が作ったものは、ほとんど残らない。


 それを見ている真白も嬉しそうだった。


 だが。


 恒一には、真白以上に父と母の方が喜んでいるように見えた。


 しばらくして。


「まだありますけれど、おかわりはいかがですか?」


「じゃあ、もらおうかな」


 父が茶碗を差し出した。


「私もお願いしていい?」


「はい」


 母も続く。


 真白が嬉しそうに立ち上がった。


 恒一は何となくその様子を見ていた。


 さらに少し経って。


「まだありますよ」


「じゃあ、もう一杯もらおうかな」


 父がまた茶碗を差し出す。


「父さん、よく食べるな」


「おいしいんだからいいだろ」


「別に悪いとは言ってないけど」


 真白は嬉しそうだった。


「たくさん召し上がっていただけてよかったです」


「毎週でも食べたいくらいだ」


「父さん」


「何だ?」


「それ、前にも言ってただろ」


「本当にそう思ってるからな」


 父は気にした様子もなく、また食べ始めた。


 母も楽しそうに笑っている。


 恒一はそれを見ながら、ふと何かが引っかかった。


 だが、その時は何も言わなかった。


 朝食が終わる頃には、料理はほとんど残っていなかった。


 父と母は最後まで上機嫌だった。


 朝食が終わったあとも、真白はしばらく家にいた。


 昼近くになり、ようやく帰ることになった。


「それでは、今日はこれで失礼します」


「もう帰るの?」


「はい。あまり長くお邪魔するのも申し訳ありませんので」


「別に気にしなくてもいいのに」


「ありがとうございます」


 真白が丁寧に頭を下げる。


「今日はごちそうさま」


 母が言った。


「また作ってくれよ」


 父も笑っている。


「はい。よろしければ、また作らせてください」


 真白は嬉しそうに答えた。


「じゃあ、気をつけて帰れよ、真白」


「はい、恒一様」


 恒一が玄関まで行くと、なぜか父と母もついてきた。


「真白ちゃん、気をつけてね」


「はい。ありがとうございます」


「また来てくれよ」


「はい」


 父は最後まで笑顔だった。


 母も真白が外へ出るまで玄関に立っていた。


 真白も嬉しそうに何度か頭を下げている。


 玄関の扉が閉まった。


 ◇ ◇ ◇


 恒一はしばらくその扉を見ていた。


 それから、父と母を見る。


 二人ともまだ機嫌がよさそうだった。


 恒一はますます引っかかった。


 巴が来た時と、明らかに違う。


 出迎えから違う。


 食事中の表情も違う。


 おかわりの回数も違う。


 料理もほとんど残さない。


 帰る時には、二人そろって玄関まで見送りに来る。


 巴の時に、こんなことをしていただろうか。


 居間へ戻る。


 父と母は、のんびりとお茶を飲み始めた。


「父さん、母さん」


「何だ?」


「ちょっといい?」


「どうしたの?」


 恒一は二人の向かいに座った。


「前から少し気になってたんだけど」


「何がだ?」


「真白が来た時と、巴が来た時で、二人とも態度が違わないか?」


「……」


「……」


 二人とも黙った。


「やっぱり違うんだな」


「いや」


 父がすぐに否定する。


「そんなに違わないだろう」


「全然違うよ」


「そうか?」


「今日だって、真白が来た時から二人ともずっとニコニコしてただろ」


「普通だろ」


「玄関まで二人で出迎えてた」


「それくらいするだろ」


「巴の時はしてないよ」


「……」


「帰る時も二人で見送ってたし」


 父と母が顔を見合わせる。


「食事中だって全然違う」


「どこがだ?」


「まず、ずっと笑ってる」


「笑ったら悪いのか?」


「そうじゃないよ」


 恒一は父を見る。


「今日、父さん何回おかわりした?」


「……二回くらいか?」


「三回」


「そんなに食べたか?」


「食べたよ」


 恒一は母を見る。


「母さんも二回しただろ」


「まあ……したわね」


「それに、真白が作ったものほとんど残ってなかっただろ」


「おいしかったからな」


「巴が来た時は?」


「……」


「二人とも、おかわりしたことほとんどないよな」


 父と母がまた顔を見合わせた。


「別に、巴さんの料理がおいしくないからじゃないぞ」


 父が言った。


「それは分かってる」


「今はかなり上手くなった」


「うん」


「お前が一緒に作ってるし、前みたいなことにならないのも分かってる」


「じゃあ、何で?」


「……」


 父が少し言葉に詰まった。


「それに、巴が『おかわりはいかがですか?』って聞くと、父さん毎回ちょっと止まるだろ」


「止まってない」


「止まってるよ」


「少し考えているだけだ」


「何を?」


「……腹の具合を」


「真白の時は考えてなかっただろ」


「……」


 父が目をそらした。


 恒一は母を見る。


「母さんもだよ」


「私?」


「巴が料理を出すと、最初ちょっとだけ顔が固くなる」


「そんなことないわよ」


「あるって」


「普通に笑ってるでしょう?」


「笑ってるけど、ちょっと引きつってる」


「……」


「巴、気づいてないと思うけど」


 母も少し困った顔になった。


 恒一は二人を交互に見る。


「巴だって頑張ってるんだから、もう少し同じようにしてやってよ」


「それは分かってるんだ」


 父が言った。


「父さんだって、巴さんが悪いなんて思ってない」


「じゃあ」


「でもな」


 父は少し遠い目をした。


「あの日のことを、まだ体が覚えてるんだよ」


「あの日?」


「忘れたのか?」


「何を?」


「三倍GIGAMAXだ」


「ああ……」


 恒一にもすぐ分かった。


 巴が初めて朝比奈家で朝食を作った日。


 一人一個の三倍GIGAMAXカップラーメン。


 大量のトッピング。


 牛肉、豚肉、鶏肉が入った味噌汁。


 山盛りのもやし。


 あの日の朝食である。


「でも、あれはもう前の話だろ」


「前と言っても、そんなに昔じゃない」


「今は全然違うよ」


「分かってる」


「だったら」


「頭では分かってるんだ!」


 父が少し強めに言った。


「今の巴さんなら大丈夫だ。お前が一緒に作ってる。量も普通だ。味も普通だ。それは全部分かってる」


「うん」


「でも、『おかわりはいかがですか?』って笑顔で聞かれるとな……」


 父が腹のあたりに手を置いた。


「一瞬、あの日を思い出すんだ」


「そこまで?」


「そこまでだ」


 即答だった。


「お前、あの日の父さんがどうなったか覚えてるだろ」


「会社休んだな」


「それだけじゃない」


「そうなの?」


「玄関で倒れてから、しばらく起き上がれなかったんだぞ」


「それは見てないな」


「お前は学校へ行ったからな」


 父は真剣だった。


「腹がいっぱいとか、そんな程度じゃなかった」


「どうだったんだよ」


「胃の中に大きな石でも入ってるみたいに重かった」


「石?」


「横になっても苦しい。座っても苦しい。立ったらもっと苦しい」


「……」


「昼になっても全然腹が減らない」


「まあ、あれだけ食べたからな」


「夕方になっても食べ物なんか見たくなかった」


「夕飯、全員いらないって言ってたな」


「ああ」


 母も頷く。


「私も途中でやめたから、お父さんほどではなかったけど、それでもずっとお腹が重かったわ」


「母さん、途中で逃げたもんな」


「逃げたんじゃないわよ。体調が悪くなったの」


「同じじゃないか?」


「違います」


 母は少しだけ頬を膨らませた。


 父が続ける。


「夜になっても、まだ腹の中に三倍GIGAMAXがいるような気がした」


「いるわけないだろ」


「気分の問題だ!」


「分かってるよ」


「しかも次の日、会社に行ったら聞かれるんだぞ」


「何を?」


「昨日どうしたんですかって」


「普通に体調不良でいいじゃないか」


「そう言った」


「じゃあいいだろ」


「一回ならな」


 父の顔が真剣になる。


「問題は、もしまた同じことになった時だ」


「もうならないよ」


「分かってる」


「じゃあ何が問題なんだ?」


「もし、だ」


「もし?」


「もしまた体調を崩して会社を休んでみろ」


 父は恒一をじっと見る。


「今度は絶対に聞かれるぞ」


「何を?」


「また体調不良ですか。今度は何があったんですかって」


「体調不良でいいじゃないか」


「二回目はもう少し詳しく聞かれるかもしれないだろ!」


「考えすぎじゃないか?」


「考えるんだよ!」


 父は頭を抱えた。


「その時、父さんは何て言えばいいんだ」


「普通に胃の調子が悪かったって」


「本当の理由はどうする」


「言わなくていいだろ」


「言えるわけないだろ!」


 恒一は首を傾げた。


「何で?」


「『息子の同級生の女子高生が朝六時に家へ来て、三倍GIGAMAXを一人一個と肉三種類入りの味噌汁を作ってくれて、全部食べたら動けなくなりました』なんて会社で言えるか!」


「全部説明する必要ないだろ」


「だから体調不良で通したんだ!」


「なら次もそうすればいいじゃないか」


「次があったら困るんだよ!」


 父は本気だった。


 恒一は少し呆れた。


「もうないって」


「父さんだって、そう思ってる」


「じゃあ」


「思っていても、体がな」


 父はまた腹を押さえる。


「巴さんに『まだありますけど、いかがですか?』って言われると、一瞬ためらうんだ」


「今は普通の量だろ」


「ああ」


「俺も一緒に作ってる」


「ああ」


「変なものも入れてない」


「ああ」


「じゃあ食べればいいじゃないか」


「胃袋は頭ほど物分かりがよくないんだよ!」


「そんなものなのか?」


「そんなものだ!」


 母が横で小さく笑った。


「あなた、そこまでだったの?」


「お前だって少し固まってるだろ」


「私はあなたほどじゃありません」


「でも巴さんがおかわりを聞くと、一瞬考えるじゃないか」


「それは……」


 母も少し視線をそらした。


「ほら」


「だって、思い出すのよ」


「何を?」


 恒一が聞く。


「巴さんが、すごく嬉しそうに『今度はもっとすごいものを食べてもらえるようにします』って言った時のこと」


「ああ」


「あの時のお父さんの顔も」


 父が顔をしかめた。


「思い出させるな」


「あなた、本当に泣きそうだったものね」


「泣きそうだったんじゃない。もうほとんど泣いてた」


「自分で認めるんだ」


「それくらいだったんだよ」


 恒一は二人を見た。


「でも、巴は悪気があってやったわけじゃないだろ」


「分かってる」


 父はすぐに答えた。


「むしろ、一生懸命だったのも分かってる」


「うん」


「朝早くから来て、父さんたちのために作ってくれた。それも分かってる」


「だったら」


「だから余計に断りにくかったんだよ」


「ああ」


「笑顔で『おかわりはいかがですか?』って聞かれて、あんなに嬉しそうにされたら、嫌だとも言いにくいだろ」


「今は普通に断っていいよ」


「分かってる」


 父はため息をついた。


「でも、まだ少し身構えるんだ」


「母さんも?」


「少しだけね」


「二人とも、そんなに?」


「強烈だったのよ」


 母が苦笑する。


「あなたはよく大丈夫だったわね」


「俺だってあの日は早退したよ」


「でも、そのあと巴さんに料理を教えて、今も一緒に作ってるでしょう?」


「悪気があったわけじゃないからな」


 父が首を横に振った。


「そこなんだよ」


「何が?」


「お前は父さんより精神も胃袋も丈夫なんだ」


「精神と胃袋を一緒にするなよ」


「両方だ」


「俺も普通だと思うけど」


「少なくとも父さんよりは丈夫だ」


「そうかな」


「そうだ」


 父は断言した。


 恒一は少し考えた。


 父と母が巴を嫌っているわけではない。


 今の料理が危険だと思っているわけでもない。


 ただ、あの日の記憶が強烈すぎた。


 だから、まだ完全には抜けていない。


「じゃあ、少しずつでいいから慣れてよ」


「ああ」


「巴も頑張ってるんだから」


「それは分かっている」


「真白の時みたいに普通に食べて」


 父が黙った。


「何だよ」


「それは、まだ少し無理だ」


「即答するなよ」


「無理なものは無理だ」


「真白には三回おかわりしたくせに」


「真白ちゃんは安心して食べられる」


「巴だって今は安心だよ」


「頭では分かってる」


「またそれか」


「だから少しずつ慣れると言ってるだろ」


 母も頷いた。


「私も気をつけるわ」


「本当?」


「ええ。なるべく顔に出さないようにする」


「今までも出してないつもりだったけどな」


「父さんは出てるよ」


「そんなにか?」


「巴がおかわり聞くと、一瞬固まる」


「……」


「今も思い出しただけで固まっただろ」


「仕方ないだろう」


 恒一はため息をついた。


「まあ、少しずつでいいよ」


「ああ」


「ただ、巴に気づかれないようにしてやって」


「分かってる」


「私も気をつけるわ」


 二人とも素直に頷いた。


 恒一も、それ以上は言わなかった。


 すぐに全部忘れろという方が無理なのかもしれない。


 あの朝は、それだけ強烈だったのだ。


 ただ。


 次に巴が来た時。


 父が「おかわりはいかがですか?」の一言で固まらない程度には、少しずつ慣れてもらいたい。


 恒一はそう思った。



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