第220話 上機嫌の理由
■真田家
最近の巴は、妙に機嫌がよかった。
それは学校だけではない。
家にいる時もそうだった。
朝から機嫌がよく、以前より笑うことも増えた。
食事をしている時も、道場から戻ってきた時も、どこか楽しそうにしている。
当然、家族も気づいていた。
「最近、巴は機嫌がいいな」
兄がそう言うと、真紀子も頷いた。
「そうですね。私もそう思っていました」
「何かいいことでもあったのか?」
祖父も首を傾げる。
祖母は少し考えてから口を開いた。
「朝比奈君と何かあったんじゃないですか?」
「ああ」
兄が納得したように頷いた。
「それなら分かる気がします」
「そうなのか?」
「最近、前より仲がいいみたいですから」
「朝比奈君なら、私は別に構いませんよ」
真紀子が穏やかに言った。
「真面目な方ですし、巴のことも大切にしてくださっていますから」
「儂も、朝比奈なら悪くないと思うがな」
祖父も続ける。
「逃げ腰ではあるが」
「そこはまだ言うんですね」
兄が苦笑した。
「事実だからな」
そんな中。
政志だけは黙っていた。
家族の視線が集まる。
「……何だ」
政志が眉を寄せた。
「何でもないです」
兄が答える。
「何ですか、その目は」
「何も言ってませんよ」
「言っていなくても分かる」
政志は少し不満そうだった。
ただ、それ以上は何も言わなかった。
前回、恒一に「料理なんて男らしくない」と言って騒ぎになり、祖母から道場への出入りを禁じられたばかりである。
今は下手なことを言わない方がいい。
それくらいは、政志にも分かっていた。
■真田家、その日の午後。
千瀬は真田家に来ていた。
しばらく巴と一緒に料理をしていたのだが、終わったあと、廊下を歩いているところで政志と顔を合わせた。
「千瀬ちゃん」
「はい?」
「少しいいか」
「何ですか?」
政志は周囲を一度確認した。
「最近の巴は、どうだ」
「巴姉ですか?」
「ああ」
「どうしたって?」
「ずっと機嫌がいいだろう」
「ああ……」
千瀬はすぐに納得した。
「やっぱり家でもそうなんですね」
「お前も気づいていたのか」
「気づきますよ」
千瀬は少しだけ顔をしかめた。
「というか、最近ちょっと怖いです」
「怖い?」
「さっきも一緒に料理してたんですけど」
「ああ」
「巴姉が急に私のことを『千瀬ちゃん』って呼んだんですよ」
「……何?」
政志が目を瞬いた。
「『千瀬ちゃん、そこの調味料を取ってもらえますか?』って」
「……巴が?」
「巴姉がです」
「千瀬ちゃん、と?」
「はい」
千瀬は自分の腕をさすった。
「しかも、すごい笑顔で」
「……」
「私、ぞわってしました」
「そこまでか?」
「だって巴姉ですよ?」
「巴だな」
「いつもなら『千瀬、それを取ってくれ』とかじゃないですか」
「まあ、そうだな」
「それが『千瀬ちゃん』ですよ。しかも、変に丁寧なんですよ」
思い出したのか、千瀬の肩が小さく震える。
「本当に怖かったです」
「本人には言わなかったのか?」
「言えるわけないじゃないですか」
「なぜだ」
「ものすごく嬉しそうに笑ってたんですよ」
「……」
「そんな巴姉に『気持ち悪いです』なんて言えませんよ」
「それは言わない方がいいな」
「でしょう?」
千瀬は大きく頷いた。
「だから、今ずっとそんな感じなんですよ」
「理由を知っているのか?」
「一応」
そこで千瀬は政志を見る。
少し迷った。
「……これ、お姉ちゃんから聞いた話なんですけど」
「千夜から?」
「はい」
千瀬はさらに少し考える。
「でも、その前に確認していいですか?」
「何だ」
「話しても大丈夫ですか?」
「何がだ」
「また朝比奈先輩に何かしません?」
「しない」
即答だった。
「本当に?」
「しないと言っている」
「今、まだ道場出入り禁止ですよね?」
「……そうだ」
政志の声が少し小さくなる。
「次に何かやったら、今度は道場どころか家から追い出されるんじゃないですか?」
「ここは私の家なんだが」
「でも、お祖母ちゃんに逆らえないですよね?」
「……」
「ですよね?」
「……そういうことだ」
政志は渋々認めた。
「じゃあ話しますけど、本当に何もしないでくださいね」
「ああ」
千瀬は声を少し落とした。
「巴姉、朝比奈先輩と名前で呼び合うようになったんです」
「……何?」
政志の眉が動いた。
「ほら!」
「何だ」
「今、顔変わりましたよ!」
「変わっていない」
「絶対変わりました!」
「名前で呼び合っていると聞いただけだろう」
「その顔で朝比奈先輩のところに行かないでくださいよ」
「行かん」
「本当に?」
「行かんと言っているだろう」
千瀬はまだ疑わしそうだった。
「それで、お姉ちゃんから聞いたんですけど」
「ああ」
「巴姉、自分と朝比奈先輩は両思いになったと思ってるみたいです」
「……両思い?」
「はい」
「そうなのか?」
「そこなんですけど」
千瀬は少し困ったような顔になった。
「巴姉がそう思ってるだけかもしれません」
「どういうことだ?」
「私も最初は、本当にそうなのかなって思ってたんですよ」
千瀬は少し考える。
「でも、この前、朝比奈先輩と話した感じだと……なんか、ちょっと勘違いしてるような気がしてきたんです」
「勘違い?」
「はい」
「では、朝比奈は巴のことを何とも――」
政志の顔が険しくなった。
「駄目ですよ」
千瀬がすぐに止めた。
「何がだ」
「今、怒りましたよね?」
「怒ってなどいない」
「怒ってます」
「父親として気になるだけだ」
「そのまま朝比奈先輩のところへ行くのは禁止です」
「まだ行くとは言っていない」
「顔が行きそうなんですよ」
「どんな顔だ」
「この前と同じような顔です」
「……」
政志が黙った。
「朝比奈先輩が巴姉のことをどう思ってるのかは、私にも分かりません」
「ああ」
「だから、勝手に決めつけて怒らないでください」
「……分かっている」
「本当に?」
「ああ」
「今度やったら、本当に家から追い出されますよ」
「それはもう分かった」
「それと」
「まだあるのか」
「私から聞いたって絶対に言わないでくださいよ」
「言わん」
「巴姉にも」
「ああ」
「お姉ちゃんにも」
「分かった」
「朝比奈先輩にも」
「分かっている」
「自分から聞いたみたいな顔もしないでくださいね」
「そこまで言うのか」
「私のせいにされたら困るんです」
「お前の名前は出さん」
「約束ですよ?」
「約束する」
政志ははっきりと答えた。
千瀬はようやく安心したように息を吐く。
「ならいいです」
「しかし」
「何ですか?」
「もし本当に巴の勘違いだったら、どうするんだ」
「それが怖いんですよ」
千瀬の表情が少し曇った。
「今の巴姉、本当にすごく嬉しそうじゃないですか」
「ああ」
「あんな態度で、あんな笑顔で」
千瀬は先ほどの料理中の巴を思い出した。
「それが全部勘違いだったって分かったら、どうなるか分からないですよ」
「……」
「今のあの笑顔が、いつ鬼みたいな顔になるのかと思うと……」
「お前は巴を何だと思っているんだ」
「小さい頃から何度かげんこつをもらってる相手です」
「……」
「だから怖いんです」
政志は少し黙った。
「まあ……何もなければいいが」
「本当にそうですよ」
千瀬は大きく頷いた。
「だから政志さんも余計なことしないでくださいね」
「ああ」
「朝比奈先輩に何も言わない」
「言わん」
「何もしない」
「しない」
「私の名前も出さない」
「出さない」
「約束ですよ」
「約束しただろう」
「なら大丈夫ですね」
千瀬はようやく笑った。
今度こそ安心した。
少なくとも政志が余計なことをしなければ、これ以上ややこしくなることはないだろう。
そう思いながら、千瀬が廊下へ出た時だった。
がちゃり。
近くの扉が開く。
巴の部屋だった。
「千瀬?」
「……お姉ちゃん?」
出てきたのは千夜だった。
「まだいたんだ」
「う、うん」
「私も今帰るところ。一緒に帰る?」
「うん」
千夜の後ろから、巴が顔を出す。
「千瀬、帰るのか?」
「うん。帰る」
「気をつけてな」
「……うん」
巴は今日も機嫌がよかった。
笑顔だった。
それを見て、千瀬は少しだけ頬を引きつらせた。
■帰り道
千瀬は千夜と並んで歩いていた。
「千瀬」
「何?」
「さっきから何か変じゃない?」
「そう?」
「うん」
「何でもないよ」
「本当に?」
「本当」
千夜は少し不思議そうに千瀬を見る。
千瀬は前を向いた。
政志は約束してくれた。
誰にも言わない。
何もしない。
自分の名前も出さない。
だから大丈夫。
たぶん。
千瀬は隣を歩く姉をちらりと見た。
あの話は、千夜から聞いたものだった。
その話を、自分は勝手に政志へ話してしまった。
「……お姉ちゃん」
「何?」
「……何でもない」
「さっきもそれ言ってなかった?」
「気のせいだよ」
「そう?」
「うん」
千瀬はもう一度前を向いた。
――あんなこと、話してよかったのかな。
今さらになって、少しだけ不安になっていた。




