第219話 放課後
■学校・グラウンド
放課後のグラウンドでは、県大会へ向けた練習が続いていた。
「巴、次もう一本いけるか?」
「ああ。問題ない」
「じゃあ、少し休んでからな」
「分かった」
恒一がそう言うと、巴は素直に頷いた。
そのやり取りを、少し離れたところにいた一年生たちが見ている。
「……今、部長、真田副部長のこと名前で呼んだよね?」
「呼んだ」
「前まで真田って呼んでなかった?」
「うん」
小さな声だった。
だが、近くにいた佐藤には聞こえていた。
「まあ、いいんじゃないか」
恒一が振り返る。
「何が?」
「いや、こっちの話だ」
「そうか」
恒一は特に気にせず、記録へ目を戻した。
佐藤はそんな恒一を見て、小さく息を吐く。
「真田があれだけ落ち着いてくれたなら、俺はもうそれでいい」
「何の話だ?」
「お前は知らなくていい」
「そうか?」
「ああ」
佐藤としては、それで十分だった。
以前の巴は、今よりずっと感情が表に出やすかった。
そして、なぜかその被害を受けるのは佐藤であることが多かった。
殴られたことだってある。
それに比べれば、最近の巴はずいぶん機嫌がいい。
恒一に名前で呼ばれるくらいで平和になるのなら、佐藤としては何の文句もなかった。
「佐藤、次いくぞ」
「分かってる」
佐藤はそう答えて、練習へ戻った。
■帰り道
練習を終えたあと。
恒一は真白と千瀬と一緒に帰っていた。
「そういえば、朝比奈先輩」
「何だ?」
千瀬が恒一を見る。
「巴姉のこと、名前で呼ぶようになったんですね」
「ああ」
恒一は普通に頷いた。
「巴がそう呼んでほしいって言ったからな」
「そうだったんですか」
「うん。呼んだら、すごく喜んでくれた」
その横で、真白が静かに微笑む。
「巴さん、最近とても機嫌がよろしいですものね」
「そうなのか?」
「はい。以前よりずっと」
恒一は少し考えた。
「新人戦の結果が良かったからじゃないか?」
「……新人戦ですか?」
「ああ」
恒一の顔が少し明るくなる。
「地区予選、かなり良かったからな。巴も県大会に進んだし、部全体でも思ってたより結果が良かった」
「そうですね」
「佐藤も三位だったしな。あいつ、まだ喜んでるぞ」
「朝比奈先輩」
「何だ?」
「巴姉が機嫌いいの、本当にそれだと思ってるんですか?」
「他に何かあるのか?」
「……」
千瀬が黙った。
真白も恒一を見る。
恒一は本気で分かっていないようだった。
「真白姉」
千瀬が少し声を落とした。
「はい」
「朝比奈先輩って、巴姉のことどう思ってるんでしょう」
「それは……私にも分かりません」
「ですよね」
「恒一様ご本人に聞いてみてはいかがですか?」
「本人にですか?」
「はい」
千瀬は少し考えてから、首を横に振った。
「それは無理です」
「どうしてですか?」
「だって、巴姉にも聞いてないのに、私が朝比奈先輩にそんなこと聞いたって知られたら……たぶん殴られます」
真白が思わず小さく笑った。
「ふふっ」
「真白姉は笑ってますけど、巴姉のげんこつ、すごく痛いんですよ」
「そうなのですか?」
「痛いです」
千瀬は真顔で答えた。
真白はもう一度、小さく笑う。
「そういえば千瀬さん、以前、巴さんに睨まれただけですぐ謝っていましたね」
「ああ、あれですか」
「何もしていなかったように見えましたけれど」
「小さい頃から何度か殴られたことがあるんで、もう癖になってるんです」
「癖?」
「巴姉に睨まれたら、とりあえず謝ることにしてます」
「そうなのですか……」
「最近は何もしてなくても、睨まれたら先に謝ります」
真白は少し困ったように微笑んだ。
「あと、お姉ちゃんにもなるべく逆らわないようにしてます」
「千夜さんにもですか?」
「はい。お姉ちゃんは暴力は振るわないんですけど」
千瀬は少し遠い目をした。
「そのあと、口でいろいろ言われるんで」
「……なるほど」
「だから私は、二人にはなるべく逆らわないようにしてます」
「大変なのですね」
「小さい頃からなんで、もう慣れました」
「二人で何を話してるんだ?」
少し前を歩いていた恒一が振り返った。
「何でもないです」
千瀬は即答した。
「そうか?」
「はい」
恒一は少し首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
「それより、県大会なんだけどな」
「まだその話なんですね」
「大事だろ」
恒一は当然のように言った。
「地区予選より相手も強くなるし、ここからどう調整するかも考えないといけない。それに巴だけじゃなくて、県大会に行く部員全員のこともあるしな」
「……そうですね」
「今回かなり結果が良かったから、この流れは大事にしたいんだ」
そう話す恒一は、いつもと何も変わらない。
千瀬と真白は顔を見合わせた。
巴が最近あれほど機嫌がいい理由を。
本当に新人戦の結果だけだと思っているのだろうか。
二人ともそう思ったが。
結局、そのことは何も言わなかった。




