第217話 男らしくない
■真田家道場
真田家の道場は、今日も広かった。
床は磨かれ、壁には竹刀や木刀が整然と並んでいる。
朝比奈恒一は、何度来ても少し背筋が伸びる。
学校の部室とは違う。
陸上部のグラウンドとも違う。
空気そのものが硬い。
だからこそ、道場の隣にある休憩用の部屋から漂ってくる匂いは、少しだけ場違いだった。
「恒一、これはこのくらいか?」
「ああ。もう少し小さくてもいいけど、それくらいなら大丈夫だ」
「分かった」
巴が包丁を動かす。
「ちょっと待て」
「何だ?」
「力を入れすぎだ」
「そうか?」
「ああ。そんなに力を入れなくても切れる」
「……難しいな」
「慣れれば大丈夫だ」
今日は、道場での用事を終えたあと、そのまま巴に料理を教えることになっていた。
普段は恒一のところで教えることが多い。
だが今日は二人とも真田家にいたため、そのままここの台所を借りることになった。
その横では、前田千瀬が調理台の上を整えている。
千瀬が真田家にいるのは、別に不思議ではない。姉の千夜は巴と親しく、千瀬自身も以前から巴を「巴姉」と呼んでいる。
今日は千夜の用事のついでに真田家へ寄り、そのまま千瀬だけが少し残ったらしい。
料理部の千瀬も、二人の料理を手伝っていた。
「巴姉、そこは朝比奈先輩の言う通りですよ」
「やはり力を入れすぎか」
「巴姉の場合、料理でもいつもの感覚でやると危ないです」
「いつもの感覚とは何だ」
「力です」
「そんなに違うか?」
「違います」
千瀬は即答した。
恒一も頷く。
「包丁は力で切るものじゃないからな」
「……そうなのか」
「そうだ」
巴は少し真剣な顔で包丁を見た。
「では、もう一度やる」
「ああ。ゆっくりでいい」
「分かった」
今度は先ほどより慎重に包丁を動かす。
恒一はその手元を見ながら、切り方を確認した。
「そう。それでいい」
「今のはどうだ?」
「さっきよりかなりいい」
「そうか」
巴は少しだけ満足そうな顔をした。
それを見て、千瀬がにやりと笑う。
「巴姉、褒められて嬉しそうですね」
「別に嬉しくはない」
「じゃあ何ですか」
「上手くできたことを確認しただけだ」
「確認」
「そうだ」
「でも、ちょっと嬉しそうです」
「千瀬」
「はい」
「手を動かせ」
「動かしてます」
千瀬は笑いながら答えた。
恒一は次の材料を取り出す。
「巴、次はこれだ」
「何をすればいい?」
「こっちは切らなくていい。まず混ぜる」
「混ぜるだけか」
「ああ。ただ、ここでも力を入れすぎるなよ」
「……料理というのは、思ったより力を使わないんだな」
「使う時もあるけど、何でも力任せにはしない」
「なるほど」
「巴姉、それ覚えておいてくださいね」
「分かっている」
「本当ですか?」
「本当だ」
千瀬が少し疑わしそうな顔をする。
恒一は器を巴へ渡した。
「やってみろ」
「ああ」
巴が中身を混ぜ始める。
「もっとゆっくりでいい」
「こうか?」
「そう」
「恒一」
「何だ?」
「料理というのは難しいな」
「最初はそんなものだろ」
「お前は簡単そうにやるが」
「慣れてるからな」
「どれくらいやれば慣れる?」
「それは人によると思う」
「そうか」
「でも、前より上手くなってるぞ」
巴の手が一瞬止まった。
「……そうか?」
「ああ」
「前より?」
「前より」
「そうか」
巴はまた混ぜ始めた。
さっきより少しだけ機嫌がよくなったように見える。
千瀬がその横顔を見て、また笑いそうになった。
「巴姉」
「何だ」
「何でもないです」
「何だ、それは」
「本当に何でもないです」
千瀬はそう言いながら別の器を準備した。
「朝比奈先輩、こっちは使います?」
「ああ。それ取ってくれ」
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
恒一が器を受け取る。
巴はそれをじっと見ていた。
「恒一」
「何だ?」
「楽しそうだな」
「そう見えるか」
「ああ」
「なら、楽しいのかもしれない」
「自分で分からないのか」
「料理を人に教えるのは嫌いじゃないからな」
「……そうか」
巴は少しだけ視線をそらした。
その表情を見て、千瀬がまた笑いそうになった。
その時だった。
道場側の入口から、低い声が聞こえた。
「……料理か」
真田政志だった。
巴の父である。
背が高く、厳つい顔つきの男だ。
巴と同じく姿勢がよく、道場に立っているだけなら非常に似合う。
ただし、今の表情はあまり穏やかではなかった。
政志の視線は、恒一たちへ向いている。
巴に料理を教え、千瀬と一緒に台所へ立っている恒一。
それを見て、政志は小さく眉を寄せた。
「料理なんて、男らしくない」
ぼそりと。
低く、そう言った。
だが、その場にいた全員に聞こえた。
空気が止まる。
千瀬の手が止まった。
巴の眉が、わずかに動いた。
恒一だけが少し考えていた。
「男らしくない」
恒一は復唱した。
「そうなのか」
「恒一、真に受けるな」
巴が即座に言った。
千瀬も、すぐに続く。
「そうですよ。今のは聞かなくていいやつです」
「そうなのか」
「そうです」
「だが、巴のお父さんが言った」
「父が常に正しいわけではない」
巴は迷いなく言った。
政志の眉がさらに寄る。
「巴」
「何ですか」
「父に向かってその言い方は何だ」
「今の発言を聞いたからです」
「私は事実を言っただけだ」
「料理が男らしくないというのが事実ですか」
「男なら、もっと鍛えるべきだろう」
「恒一は陸上部の部長です」
「……」
「そして今日は道場にも来ました」
「それはそれだ」
「では何が問題なんですか」
「男が女に混じって料理をして楽しそうにしているのが問題だ」
政志は、そこで少しだけ声を大きくした。
「男らしくないと言っている」
今度は、はっきりと。
休憩室に響いた。
千瀬が、そっと菜箸を置いた。
巴が父を見る。
恒一は少しだけ嫌な予感がした。
これは、自分が何かを言うべきなのだろうか。
いや、たぶん違う。
すでに、女性陣の空気が変わっていた。
「真田のおじさん」
千瀬が口を開いた。
声は明るい。
だが、笑ってはいなかった。
「料理ができる男の人って、普通に格好いいと思いますよ」
「格好いい?」
「はい。自分のことを自分でできるし、人のためにも動けるってことですから」
「それは」
「それに、朝比奈先輩は料理を教えるのも上手です。ちゃんと相手に合わせて教えてくれますし」
「……」
「それを男らしくないって言うのは、ちょっと違うと思います」
政志が言葉に詰まる。
巴も続いた。
「父上」
「何だ」
「恒一とは関わらないでください」
「おい」
「今の父上は、少々見苦しいです」
「見苦しいだと?」
「はい」
「私は真田家の父としてだな」
「ただの嫉妬ではないですか」
巴は言い切った。
政志の顔が固まる。
「嫉妬?」
「はい」
「私が?」
「そうです」
「誰に」
「恒一に」
「なぜ私が朝比奈に嫉妬する」
「恒一が女性陣に囲まれて楽しそうだからではないですか」
「違う!」
政志は即座に否定した。
だが、その否定が早すぎた。
千瀬が「あ」と言った。
巴は無言で父を見る。
その沈黙が痛かった。
「違うと言っているだろう!」
「では、何が気に入らないのですか?」
「男らしくないと言っている」
「それしか言っていません」
「だから、それが問題で」
「父上は、前にもそれで巴を泣かせましたよね」
別の声がした。
入口の方からである。
巴の兄だった。
その後ろには、巴の祖父もいる。
騒ぎを聞きつけて来たのだろう。
政志は、兄の姿を見て眉をひそめた。
「お前まで来たのか」
「来ますよ。道場の隣で大声を出していたら」
兄はため息をついた。
「父上。また朝比奈くんに絡んでいるんですか」
「絡んでなどいない」
「料理をしているだけの高校生に、男らしくないと言うのは絡んでいるという事ですよ」
「お前までそんなことを言うのか」
「言います」
「お前は真田家の男だろう」
「だから何ですか」
「男なら、分かるだろう」
政志は少しだけ勢いを取り戻したように言った。
「女性陣は味方かもしれん。だが、うちの男たちは誰も朝比奈を認めていない」
部屋が、また静かになった。
兄が瞬きをする。
声を聞いて来た、祖父が眉を上げる。
巴が、非常に冷たい目で父を見た。
恒一は、器を持ったまま固まった。
千瀬は小声で「言っちゃった」と呟いた。
最初に口を開いたのは、兄だった。
「いや、俺は認めていますけど」
「何?」
「朝比奈くん、普通にいい子じゃないですか」
「……」
「礼儀もあるし、巴に雑なことをしないし、真面目だし。少なくとも、父上より話は通じます」
「おい」
「それに、料理を教えられるなら尚いいです」
兄はあっさりと言った。
続いて祖父が口を開く。
「儂も、別に認めておらんとは言っておらんぞ」
「父上」
「朝比奈は稽古にも来る。逃げ腰ではあるが、根は悪くない」
「逃げ腰」
恒一が少し反応した。
祖父は恒一を見る。
「逃げ腰だろう」
「否定はできません」
「うむ。そこは正直でよろしい」
「ありがとうございます」
「褒めておらん」
「はい」
祖父は小さく笑った。
その横で、政志の顔が引きつっていく。
「待て。では、認めていないのは」
「父上だけですね」
兄が即答した。
「儂はそこまで否定しておらん」
祖父も続いた。
「私はもちろん認めています」
千瀬が言った。
巴も、迷いなく言う。
「私もだ」
全員の視線が政志に集まった。
政志は、完全に孤立した。
「……いや、違う。私は真田家の父として」
「父上」
兄が政志に近づき、静かに言った。
「これ以上はまずいです」
「何がだ」
「空気です」
「空気など」
「読んでください」
「お前が言うのか」
「言います。今は本当にまずいです」
「母さんや、お祖母様が来たら……」
兄はそう言うと、一歩下がった。
「では、俺は少し用事を思い出しました」
「待て」
「父上。ご武運を」
「逃げるな!」
「逃げます」
兄は迷いなく退避した。
その潔さに、千瀬が少し笑いそうになっていた。
だが、入れ替わるように別の足音が近づいてきた。
「何をそんなに騒いでいるんですか」
真田真紀子だった。
部屋へ入ると、まず恒一たちを見る。
それから、政志へ視線を向けた。
「……あなた」
「真紀子」
「また何か言いましたね?」
「またとは何だ」
千瀬が、これまでの事情を簡単に説明した。
真紀子は黙って聞いていたが、話が終わるころには政志を見る目が少し冷たくなっていた。
「朝比奈君」
「はい」
真紀子は恒一へ向き直る。
「申し訳ありません」
そのまま丁寧に頭を下げた。
「主人が失礼なことを言ったようで」
「いえ、俺は別に」
「あとで私から、きちんと言っておきますので」
「そこまでしなくても大丈夫です」
「いえ」
真紀子は微笑んだ。
そして政志を見る。
「きちんと、言っておきます」
「真紀子、私はただ――」
「あなたは少し黙っていてください」
「……はい」
巴が小さく笑った。
千瀬も口元を押さえる。
「お前たち、笑うところでは――」
「政志」
さらに声がした。
政志の体が止まった。
祖父もそちらを見る。
そこに立っていたのは、政志の母――巴の祖母だった。
「……母さん」
祖母はゆっくり部屋へ入ってくる。
恒一たちを見る。
真紀子を見る。
そして最後に、政志を上から下まで眺めた。
「大の大人が、みっともない」
「……」
一言だった。
政志が完全に黙った。
巴が吹き出した。
「ふっ……」
「巴!」
「すみません」
そう言いながら、まったく申し訳なさそうではない。
真紀子も口元に手を当てている。
「あなたのお母様の言う通りですよ」
「真紀子まで……」
祖母は政志を見る。
「聞きましたよ」
「何をですか」
「料理をしている朝比奈君に、男らしくないと言ったそうですね」
「それは……」
「家の男たちは朝比奈君を認めていないとも」
「……」
「母さん、私は家のことを考えて――」
「世間様に恥ずかしい」
祖母はぴしゃりと言った。
「政志。あんたはしばらく道場には出なくていいです」
「……はい?」
「出入り禁止にします」
「ちょっと待ってください!」
政志が勢いよく立ち上がった。
「あそこは私の道場、私の職場のはずですよ!」
「何か言いましたか?」
「いや、だから俺の――」
ぺしん。
祖母の手が政志の肩を叩いた。
大きな音ではない。
だが、政志はぴたりと口を閉じた。
「……」
「今、何か言いましたか?」
「……何もありません」
巴が肩を震わせている。
真紀子も、とうとう少し笑っていた。
「父上」
政志が祖父へ助けを求める。
「何とか言ってください」
「儂か?」
「はい」
祖父は祖母を見る。
祖母は腕を組んでいる。
その顔から怒りは消えていない。
祖父は少し考えた。
「……政志」
「はい」
「もういい」
「何がですか」
「しばらく儂が道場を見る」
「いや、ちょっと待ってください。俺が――」
祖父は政志へ近づいた。
そして、声を落とす。
「今は黙っておけ」
「父上」
「母さんの怒りが収まるまでは、道場に来るな」
「……」
「儂でも止められん」
「……父上まで」
「諦めろ」
政志は祖母を見る。
祖母も政志を見る。
「……分かりました」
「返事が小さい」
「分かりました!」
「道場まで聞こえる声を出さなくていい」
「……はい」
政志はすっかり勢いを失った。
だが、祖母はまだ終わっていなかった。
「それから」
「……何ですか」
「朝比奈君に謝りなさい」
「……」
政志が恒一を見る。
恒一も政志を見る。
「いや、俺は別に気にしてませんので」
「朝比奈君」
「はい」
「そういう問題ではありません」
「……はい」
恒一も黙った。
政志はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくり恒一の方を向く。
「朝比奈」
「はい」
「……悪かった」
「いえ」
「料理をしていることについて、ああいう言い方をしたのは……私が悪かった」
「分かりました」
「それと」
政志は少し言いにくそうに視線をそらす。
「お前を認めていないと言ったのも……少し言いすぎた」
「少し?」
祖母が聞き返した。
「……かなり言いすぎました」
「そうでしょう」
「はい」
政志が小さく頭を下げた。
「すまなかった」
「はい」
恒一も頭を下げ返す。
「俺は本当に気にしてませんから」
「……そうか」
「はい」
政志が少しだけ顔を上げた。
これで終わった。
そう思ったらしい。
政志が出口へ向かう。
「では、私は少し――」
「政志」
「……はい」
祖母が呼び止めた。
政志が振り返る。
ぺしん。
今度は背中を叩かれた。
「……何ですか」
「反省しなさい」
「……しています」
「まだ足りません」
「……はい」
「しばらく大人しくしていなさい」
「はい」
「道場にも来ない」
「はい」
「余計なことも言わない」
「はい」
「分かったなら行きなさい」
「……はい」
政志は肩を落とした。
そのまま廊下へ出る。
少し歩いたところで、祖父が声をかけた。
「政志」
政志が振り返る。
祖父はまた小さな声で言った。
「自分の部屋にいた方がいいぞ」
「……そこまでですか」
「今はな」
祖父が祖母をちらりと見る。
「今回はお前が悪い。母さんの怒りが収まるまでは、出てこない方がいい」
「……分かりました」
政志はそれ以上何も言わなかった。
そのまま廊下の奥へ消えていく。
やがて。
少し離れた場所から、扉が閉まる音が聞こえた。
「……本当に部屋に行ったな」
「行きましたね」
祖父は廊下の奥を見ながら、小さく息を吐いた。
「まあ、しばらくは出てこんだろう」




