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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第217話 男らしくない

■真田家道場


 真田家の道場は、今日も広かった。


 床は磨かれ、壁には竹刀や木刀が整然と並んでいる。


 朝比奈恒一は、何度来ても少し背筋が伸びる。


 学校の部室とは違う。


 陸上部のグラウンドとも違う。


 空気そのものが硬い。


 だからこそ、道場の隣にある休憩用の部屋から漂ってくる匂いは、少しだけ場違いだった。


「恒一、これはこのくらいか?」


「ああ。もう少し小さくてもいいけど、それくらいなら大丈夫だ」


「分かった」


 巴が包丁を動かす。


「ちょっと待て」


「何だ?」


「力を入れすぎだ」


「そうか?」


「ああ。そんなに力を入れなくても切れる」


「……難しいな」


「慣れれば大丈夫だ」


 今日は、道場での用事を終えたあと、そのまま巴に料理を教えることになっていた。


 普段は恒一のところで教えることが多い。


 だが今日は二人とも真田家にいたため、そのままここの台所を借りることになった。


 その横では、前田千瀬が調理台の上を整えている。


 千瀬が真田家にいるのは、別に不思議ではない。姉の千夜は巴と親しく、千瀬自身も以前から巴を「巴姉」と呼んでいる。


 今日は千夜の用事のついでに真田家へ寄り、そのまま千瀬だけが少し残ったらしい。


 料理部の千瀬も、二人の料理を手伝っていた。


「巴姉、そこは朝比奈先輩の言う通りですよ」


「やはり力を入れすぎか」


「巴姉の場合、料理でもいつもの感覚でやると危ないです」


「いつもの感覚とは何だ」


「力です」


「そんなに違うか?」


「違います」


 千瀬は即答した。


 恒一も頷く。


「包丁は力で切るものじゃないからな」


「……そうなのか」


「そうだ」


 巴は少し真剣な顔で包丁を見た。


「では、もう一度やる」


「ああ。ゆっくりでいい」


「分かった」


 今度は先ほどより慎重に包丁を動かす。


 恒一はその手元を見ながら、切り方を確認した。


「そう。それでいい」


「今のはどうだ?」


「さっきよりかなりいい」


「そうか」


 巴は少しだけ満足そうな顔をした。


 それを見て、千瀬がにやりと笑う。


「巴姉、褒められて嬉しそうですね」


「別に嬉しくはない」


「じゃあ何ですか」


「上手くできたことを確認しただけだ」


「確認」


「そうだ」


「でも、ちょっと嬉しそうです」


「千瀬」


「はい」


「手を動かせ」


「動かしてます」


 千瀬は笑いながら答えた。


 恒一は次の材料を取り出す。


「巴、次はこれだ」


「何をすればいい?」


「こっちは切らなくていい。まず混ぜる」


「混ぜるだけか」


「ああ。ただ、ここでも力を入れすぎるなよ」


「……料理というのは、思ったより力を使わないんだな」


「使う時もあるけど、何でも力任せにはしない」


「なるほど」


「巴姉、それ覚えておいてくださいね」


「分かっている」


「本当ですか?」


「本当だ」


 千瀬が少し疑わしそうな顔をする。


 恒一は器を巴へ渡した。


「やってみろ」


「ああ」


 巴が中身を混ぜ始める。


「もっとゆっくりでいい」


「こうか?」


「そう」


「恒一」


「何だ?」


「料理というのは難しいな」


「最初はそんなものだろ」


「お前は簡単そうにやるが」


「慣れてるからな」


「どれくらいやれば慣れる?」


「それは人によると思う」


「そうか」


「でも、前より上手くなってるぞ」


 巴の手が一瞬止まった。


「……そうか?」


「ああ」


「前より?」


「前より」


「そうか」


 巴はまた混ぜ始めた。


 さっきより少しだけ機嫌がよくなったように見える。


 千瀬がその横顔を見て、また笑いそうになった。


「巴姉」


「何だ」


「何でもないです」


「何だ、それは」


「本当に何でもないです」


 千瀬はそう言いながら別の器を準備した。


「朝比奈先輩、こっちは使います?」


「ああ。それ取ってくれ」


「はい」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 恒一が器を受け取る。


 巴はそれをじっと見ていた。


「恒一」


「何だ?」


「楽しそうだな」


「そう見えるか」


「ああ」


「なら、楽しいのかもしれない」


「自分で分からないのか」


「料理を人に教えるのは嫌いじゃないからな」


「……そうか」


 巴は少しだけ視線をそらした。


 その表情を見て、千瀬がまた笑いそうになった。


 その時だった。


 道場側の入口から、低い声が聞こえた。


「……料理か」


 真田政志だった。


 巴の父である。


 背が高く、厳つい顔つきの男だ。


 巴と同じく姿勢がよく、道場に立っているだけなら非常に似合う。


 ただし、今の表情はあまり穏やかではなかった。


 政志の視線は、恒一たちへ向いている。


 巴に料理を教え、千瀬と一緒に台所へ立っている恒一。


 それを見て、政志は小さく眉を寄せた。


「料理なんて、男らしくない」


 ぼそりと。


 低く、そう言った。


 だが、その場にいた全員に聞こえた。


 空気が止まる。


 千瀬の手が止まった。


 巴の眉が、わずかに動いた。


 恒一だけが少し考えていた。


「男らしくない」


 恒一は復唱した。


「そうなのか」


「恒一、真に受けるな」


 巴が即座に言った。


 千瀬も、すぐに続く。


「そうですよ。今のは聞かなくていいやつです」


「そうなのか」


「そうです」


「だが、巴のお父さんが言った」


「父が常に正しいわけではない」


 巴は迷いなく言った。


 政志の眉がさらに寄る。


「巴」


「何ですか」


「父に向かってその言い方は何だ」


「今の発言を聞いたからです」


「私は事実を言っただけだ」


「料理が男らしくないというのが事実ですか」


「男なら、もっと鍛えるべきだろう」


「恒一は陸上部の部長です」


「……」


「そして今日は道場にも来ました」


「それはそれだ」


「では何が問題なんですか」


「男が女に混じって料理をして楽しそうにしているのが問題だ」


 政志は、そこで少しだけ声を大きくした。


「男らしくないと言っている」


 今度は、はっきりと。


 休憩室に響いた。


 千瀬が、そっと菜箸を置いた。


 巴が父を見る。


 恒一は少しだけ嫌な予感がした。


 これは、自分が何かを言うべきなのだろうか。


 いや、たぶん違う。


 すでに、女性陣の空気が変わっていた。


「真田のおじさん」


 千瀬が口を開いた。


 声は明るい。


 だが、笑ってはいなかった。


「料理ができる男の人って、普通に格好いいと思いますよ」


「格好いい?」


「はい。自分のことを自分でできるし、人のためにも動けるってことですから」


「それは」


「それに、朝比奈先輩は料理を教えるのも上手です。ちゃんと相手に合わせて教えてくれますし」


「……」


「それを男らしくないって言うのは、ちょっと違うと思います」


 政志が言葉に詰まる。


 巴も続いた。


「父上」


「何だ」


「恒一とは関わらないでください」


「おい」


「今の父上は、少々見苦しいです」


「見苦しいだと?」


「はい」


「私は真田家の父としてだな」


「ただの嫉妬ではないですか」


 巴は言い切った。


 政志の顔が固まる。


「嫉妬?」


「はい」


「私が?」


「そうです」


「誰に」


「恒一に」


「なぜ私が朝比奈に嫉妬する」


「恒一が女性陣に囲まれて楽しそうだからではないですか」


「違う!」


 政志は即座に否定した。


 だが、その否定が早すぎた。


 千瀬が「あ」と言った。


 巴は無言で父を見る。


 その沈黙が痛かった。


「違うと言っているだろう!」


「では、何が気に入らないのですか?」


「男らしくないと言っている」


「それしか言っていません」


「だから、それが問題で」


「父上は、前にもそれで巴を泣かせましたよね」


 別の声がした。


 入口の方からである。


 巴の兄だった。


 その後ろには、巴の祖父もいる。


 騒ぎを聞きつけて来たのだろう。


 政志は、兄の姿を見て眉をひそめた。


「お前まで来たのか」


「来ますよ。道場の隣で大声を出していたら」


 兄はため息をついた。


「父上。また朝比奈くんに絡んでいるんですか」


「絡んでなどいない」


「料理をしているだけの高校生に、男らしくないと言うのは絡んでいるという事ですよ」


「お前までそんなことを言うのか」


「言います」


「お前は真田家の男だろう」


「だから何ですか」


「男なら、分かるだろう」


 政志は少しだけ勢いを取り戻したように言った。


「女性陣は味方かもしれん。だが、うちの男たちは誰も朝比奈を認めていない」


 部屋が、また静かになった。


 兄が瞬きをする。


 声を聞いて来た、祖父が眉を上げる。


 巴が、非常に冷たい目で父を見た。


 恒一は、器を持ったまま固まった。


 千瀬は小声で「言っちゃった」と呟いた。


 最初に口を開いたのは、兄だった。


「いや、俺は認めていますけど」


「何?」


「朝比奈くん、普通にいい子じゃないですか」


「……」


「礼儀もあるし、巴に雑なことをしないし、真面目だし。少なくとも、父上より話は通じます」


「おい」


「それに、料理を教えられるなら尚いいです」


 兄はあっさりと言った。


 続いて祖父が口を開く。


「儂も、別に認めておらんとは言っておらんぞ」


「父上」


「朝比奈は稽古にも来る。逃げ腰ではあるが、根は悪くない」


「逃げ腰」


 恒一が少し反応した。


 祖父は恒一を見る。


「逃げ腰だろう」


「否定はできません」


「うむ。そこは正直でよろしい」


「ありがとうございます」


「褒めておらん」


「はい」


 祖父は小さく笑った。


 その横で、政志の顔が引きつっていく。


「待て。では、認めていないのは」


「父上だけですね」


 兄が即答した。


「儂はそこまで否定しておらん」


 祖父も続いた。


「私はもちろん認めています」


 千瀬が言った。


 巴も、迷いなく言う。


「私もだ」


 全員の視線が政志に集まった。


 政志は、完全に孤立した。


「……いや、違う。私は真田家の父として」


「父上」


 兄が政志に近づき、静かに言った。


「これ以上はまずいです」


「何がだ」


「空気です」


「空気など」


「読んでください」


「お前が言うのか」


「言います。今は本当にまずいです」


「母さんや、お祖母様が来たら……」


 兄はそう言うと、一歩下がった。


「では、俺は少し用事を思い出しました」


「待て」


「父上。ご武運を」


「逃げるな!」


「逃げます」


 兄は迷いなく退避した。


 その潔さに、千瀬が少し笑いそうになっていた。


 だが、入れ替わるように別の足音が近づいてきた。


「何をそんなに騒いでいるんですか」


 真田真紀子だった。


 部屋へ入ると、まず恒一たちを見る。


 それから、政志へ視線を向けた。


「……あなた」


「真紀子」


「また何か言いましたね?」


「またとは何だ」


 千瀬が、これまでの事情を簡単に説明した。


 真紀子は黙って聞いていたが、話が終わるころには政志を見る目が少し冷たくなっていた。


「朝比奈君」


「はい」


 真紀子は恒一へ向き直る。


「申し訳ありません」


 そのまま丁寧に頭を下げた。


「主人が失礼なことを言ったようで」


「いえ、俺は別に」


「あとで私から、きちんと言っておきますので」


「そこまでしなくても大丈夫です」


「いえ」


 真紀子は微笑んだ。


 そして政志を見る。


「きちんと、言っておきます」


「真紀子、私はただ――」


「あなたは少し黙っていてください」


「……はい」


 巴が小さく笑った。


 千瀬も口元を押さえる。


「お前たち、笑うところでは――」


「政志」


 さらに声がした。


 政志の体が止まった。


 祖父もそちらを見る。


 そこに立っていたのは、政志の母――巴の祖母だった。


「……母さん」


 祖母はゆっくり部屋へ入ってくる。


 恒一たちを見る。


 真紀子を見る。


 そして最後に、政志を上から下まで眺めた。


「大の大人が、みっともない」


「……」


 一言だった。


 政志が完全に黙った。


 巴が吹き出した。


「ふっ……」


「巴!」


「すみません」


 そう言いながら、まったく申し訳なさそうではない。


 真紀子も口元に手を当てている。


「あなたのお母様の言う通りですよ」


「真紀子まで……」


 祖母は政志を見る。


「聞きましたよ」


「何をですか」


「料理をしている朝比奈君に、男らしくないと言ったそうですね」


「それは……」


「家の男たちは朝比奈君を認めていないとも」


「……」


「母さん、私は家のことを考えて――」


「世間様に恥ずかしい」


 祖母はぴしゃりと言った。


「政志。あんたはしばらく道場には出なくていいです」


「……はい?」


「出入り禁止にします」


「ちょっと待ってください!」


 政志が勢いよく立ち上がった。


「あそこは私の道場、私の職場のはずですよ!」


「何か言いましたか?」


「いや、だから俺の――」


 ぺしん。


 祖母の手が政志の肩を叩いた。


 大きな音ではない。


 だが、政志はぴたりと口を閉じた。


「……」


「今、何か言いましたか?」


「……何もありません」


 巴が肩を震わせている。


 真紀子も、とうとう少し笑っていた。


「父上」


 政志が祖父へ助けを求める。


「何とか言ってください」


「儂か?」


「はい」


 祖父は祖母を見る。


 祖母は腕を組んでいる。


 その顔から怒りは消えていない。


 祖父は少し考えた。


「……政志」


「はい」


「もういい」


「何がですか」


「しばらく儂が道場を見る」


「いや、ちょっと待ってください。俺が――」


 祖父は政志へ近づいた。


 そして、声を落とす。


「今は黙っておけ」


「父上」


「母さんの怒りが収まるまでは、道場に来るな」


「……」


「儂でも止められん」


「……父上まで」


「諦めろ」


 政志は祖母を見る。


 祖母も政志を見る。


「……分かりました」


「返事が小さい」


「分かりました!」


「道場まで聞こえる声を出さなくていい」


「……はい」


 政志はすっかり勢いを失った。


 だが、祖母はまだ終わっていなかった。


「それから」


「……何ですか」


「朝比奈君に謝りなさい」


「……」


 政志が恒一を見る。


 恒一も政志を見る。


「いや、俺は別に気にしてませんので」


「朝比奈君」


「はい」


「そういう問題ではありません」


「……はい」


 恒一も黙った。


 政志はしばらく動かなかった。


 やがて、ゆっくり恒一の方を向く。


「朝比奈」


「はい」


「……悪かった」


「いえ」


「料理をしていることについて、ああいう言い方をしたのは……私が悪かった」


「分かりました」


「それと」


 政志は少し言いにくそうに視線をそらす。


「お前を認めていないと言ったのも……少し言いすぎた」


「少し?」


 祖母が聞き返した。


「……かなり言いすぎました」


「そうでしょう」


「はい」


 政志が小さく頭を下げた。


「すまなかった」


「はい」


 恒一も頭を下げ返す。


「俺は本当に気にしてませんから」


「……そうか」


「はい」


 政志が少しだけ顔を上げた。


 これで終わった。


 そう思ったらしい。


 政志が出口へ向かう。


「では、私は少し――」


「政志」


「……はい」


 祖母が呼び止めた。


 政志が振り返る。


 ぺしん。


 今度は背中を叩かれた。


「……何ですか」


「反省しなさい」


「……しています」


「まだ足りません」


「……はい」


「しばらく大人しくしていなさい」


「はい」


「道場にも来ない」


「はい」


「余計なことも言わない」


「はい」


「分かったなら行きなさい」


「……はい」


 政志は肩を落とした。


 そのまま廊下へ出る。


 少し歩いたところで、祖父が声をかけた。


「政志」


 政志が振り返る。


 祖父はまた小さな声で言った。


「自分の部屋にいた方がいいぞ」


「……そこまでですか」


「今はな」


 祖父が祖母をちらりと見る。


「今回はお前が悪い。母さんの怒りが収まるまでは、出てこない方がいい」


「……分かりました」


 政志はそれ以上何も言わなかった。


 そのまま廊下の奥へ消えていく。


 やがて。


 少し離れた場所から、扉が閉まる音が聞こえた。


「……本当に部屋に行ったな」


「行きましたね」


 祖父は廊下の奥を見ながら、小さく息を吐いた。


「まあ、しばらくは出てこんだろう」


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