第216話 名前で呼ぶのは難しい
■二年A組・教室
翌朝。
恒一は教室へ入ると、基樹と彩音のところへ向かった。
「基樹、彩音。ちょっと聞きたいことがある」
「何だ?」
「朝からどうしたの?」
「もしかして、女性って名字より名前で呼んだ方が礼儀正しいのか?」
「……は?」
基樹が眉を寄せた。
彩音も少し遅れて恒一を見る。
「何の話?」
「昨日、巴に言われたんだ」
「巴に?」
「ああ」
恒一は昨日のことを思い返した。
「真白のことは名前で呼んでるのに、自分はずっと真田だから、もう少し近い呼び方の方がいいって」
「……なるほど」
彩音の表情が少し変わった。
「それで?」
「巴って呼ぶことにした」
「へえ」
彩音が少し笑った。
「ちゃんと進んでるじゃない」
「何が?」
「何でもない」
恒一にはよく分からなかった。
「それで色々考えたんだけど」
「うん」
「もしかして俺、今まで女性に対して失礼な呼び方をしてたのか?」
「いや」
基樹がすぐに否定した。
「違うわよ」
彩音も続ける。
「女性だから名前で呼ばなきゃ失礼なんてことはないから」
「そうなのか?」
「ああ」
「じゃあ、何で巴は名前の方がいいって言ったんだ?」
「それは……」
彩音は少し考えた。
「距離の問題じゃない?」
「距離?」
「そう。親しいとか、大切な相手だから、名前で呼ぶことがあるってこと」
「大切な相手」
「うん」
恒一は少し考えた。
それなら理解できるような気がした。
だが、すぐに別の疑問が浮かぶ。
「でも、それならクラスのみんなだって大切だろ?」
「……え?」
「大切なクラスメイトなんだから、クラスの女子は全員名前で呼んでもいいんじゃないか?」
「いや、ちょっと待て!」
基樹が止めた。
「何だ?」
「同じ大切でも、距離が違うんだよ」
「同じ大切なのに?」
「そう」
「どう違うんだ?」
「それは……」
基樹が言葉に詰まった。
「……何か俺、お前とこういう話、何回もしてる気がするんだけど」
「こういう話?」
「恋愛とか、距離感とか、そういう話だよ」
「そうだったか?」
「しかも毎回、ろくなことになってない気がする」
「そうなのか?」
「覚えてないのかよ」
彩音が小さく息を吐いた。
「基樹、それはあとにして。今はこっち」
「……そうだな」
彩音が代わりに口を開く。
「だから、親しさの違いっていうか……」
「クラスメイトだって親しいだろ?」
「そうだけど」
「じゃあ名前でもいいんじゃないか?」
「ちょっと待って。恒一、何か間違ってる」
「どこが?」
「それを今説明してるの!」
「でも、大切なんだろ?」
「大切よ」
「なら名前だろ?」
「だから、そう単純じゃないの!」
恒一にはよく分からなかった。
「例えば、基樹も大切だ」
「ああ」
「彩音も大切だ」
「うん」
「真白も大切だし、巴も大切だ。千瀬だって大切な後輩だろ」
「まあ、それはそうだけど……」
「なら、みんな名前でいいんじゃないのか?」
基樹と彩音が顔を見合わせた。
「……これ、まずくないか?」
「かなりまずいと思う」
「何が?」
「このままだと、お前が女子を片っ端から名前で呼び始めるだろ」
「片っ端からじゃない。大切な人だけだ」
「その範囲が広すぎるんだよ」
「でも、みんな大切なんだから仕方ないだろ」
「そういう問題じゃないって」
彩音が困ったように額へ手を当てた。
「恒一、このままだと女好きだと思われるかもしれないわよ」
「何でだ?」
「女子を急に名前で呼び始めたら、軽い男だって思う人もいるでしょ」
「大切だから呼んでるだけなのに?」
「相手には、そこまで分からないの!」
恒一は少し考えた。
「じゃあ、大切だって言えばいいんだな」
「違う!」
彩音がすぐに声を上げた。
「何が?」
「何でそうなるの!」
「だって、相手には分からないんだろ?」
「そうだけど!」
「なら、名前で呼ぶ時に大切だって言えば分かるだろ」
「恒一」
基樹が真剣な顔で言った。
「それはやめろ」
「何でだ?」
「余計にまずくなる」
「そうなのか?」
「なる」
恒一には、ますます分からなかった。
ちょうどその時、教室の扉が開いた。
クラスメートの木村沙良と田代美佳が話しながら入ってくる。
恒一は二人を見た。
同じクラスで、毎日のように顔を合わせている。
もちろん、大切なクラスメイトだった。
「おはよう、沙良。美佳」
「……」
「……」
二人がそろって一瞬固まった。
沙良が何度か瞬きをする。
「……朝比奈君?」
美佳も驚いたようにこちらを見る。
「今、名前で呼んだ?」
「ああ」
やはり、急に名前で呼んだだけでは理由が分からないらしい。
「二人とも、自分にとって大切なんだ!」
「恒一!」
「ちょっと待って!」
言い終わったところで、基樹と彩音が同時に動いた。
「何だよ――」
「もう、お前は喋るな!」
基樹が恒一を後ろへ引っ張る。
彩音は、さらに何か言おうとした恒一の口を慌てて塞いだ。
「むぐっ」
「お願いだから、今は黙って!」
「……」
「……」
沙良と美佳は完全に固まっていた。
基樹は二人へ向き直る。
「悪い」
そのまま頭を下げた。
彩音も恒一の口を塞いだまま、二人へ頭を下げる。
「ごめん。今のは気にしないで」
「むぐっ」
「恒一は黙ってて」
沙良と美佳は顔を見合わせた。
何が起きているのか、まったく分かっていないようだった。
「……行こうか」
「うん」
二人はそのまま自分たちの席へ向かっていった。
「今の何だったんだろ」
「分かんない」
小声でそんなことを話しながら離れていく二人を、基樹と彩音は何とも言えない顔で見送った。
彩音がようやく恒一の口から手を離す。
「何するんだよ」
「こっちの台詞!」
「相手には分からないって言ったから、大切だって説明しただけだろ」
「だから、それを言ったら余計にまずいの!」
「何でだ?」
「……基樹」
「俺に聞くな。もう俺にも分からない」
その時、教室の入口に千夜が姿を見せた。
こちらを探すように教室の中を見回している。
やがて恒一を見つけると、足を止めた。
「朝比奈君」
「おはよう、千夜」
「……」
千夜が固まった。
そのまま数秒、何も言わない。
やがて、ゆっくりと後ろを振り返った。
廊下には何人か生徒がいる。
千夜は少しだけ周囲を見たあと、もう一度恒一へ顔を向けた。
それから、自分を指差す。
「……私?」
「ああ」
「……」
また黙った。
何か言おうとして口を開いたが、そのまま閉じる。
「そうだ」
恒一はさっきまでの話を思い出した。
「今日から千夜って呼んでもいいか?」
「……」
千夜の目が少し大きくなった。
「千夜も自分にとって大切だから――」
「恒一!」
「そこまで!」
基樹と彩音が同時に動いた。
「何だよ」
「もう喋るな!」
基樹が恒一の肩をつかむ。
「何で――」
さらに話そうとした恒一の口を、彩音が慌てて塞いだ。
「むぐっ」
「お願いだから今は黙って!」
千夜は三人を順番に見た。
それから、しばらく黙ったまま立っていた。
「前田さん」
基樹が真剣な顔で言う。
「今のこと、真田さんには絶対に言わないでくれ」
「……分かった」
千夜はすぐに答えた。
「え?」
基樹が少し驚いた顔をする。
「いいのか?」
「うん」
千夜はもう一度恒一を見た。
さっきまで驚いていた顔が、今度は何とも言えないものに変わっている。
恒一には、その理由が分からなかった。
「朝比奈君にちょっと用事があったんだけど」
「むぐ?」
「……もういい」
千夜が小さく息を吐いた。
「聞かなくても、だいたい分かったから」
彩音がようやく恒一の口から手を離した。
「何が分かったんだ?」
「……それはいい」
「何でだ?」
「いいの」
「?」
「じゃあ、私戻るね」
「ああ」
「前田さん」
基樹がもう一度呼び止める。
「本当に真田さんには――」
「言わないから大丈夫」
「頼む」
「うん」
千夜はそのまま教室を出ていった。
恒一はその背中を見送る。
「……何だったんだ?」
「お前は気にしなくていい」
基樹が答えた。
「何で?」
「いいから」
「そうか?」
「ああ」
恒一には、やはり何のことか分からなかった。
「それより」
彩音が疲れたように言う。
「これ、どうする?」
「俺に聞くな」
「だって全然分かってないじゃない」
「お前が説明しても分かってなかっただろ」
二人はそろって恒一を見る。
「何だ?」
「……」
「……」
「だから何なんだよ」
「このままだと本当にまずいわよ」
「何が?」
「また最初から説明するの?」
彩音が困り果てたように言った。
「大切な人なら名前で呼ぶんだろ?」
「だから、その大切にも距離があるって言っただろ」
「でも大切なことに変わりはないだろ?」
「……もう駄目だ」
基樹が小さく呟いた。
「どうすればいいのよ」
「俺に聞くな」
「じゃあ誰に聞けば――」
彩音が言いかけたところで、近くから声がした。
「何かお困りなのですか?」
三人が振り返る。
真白だった。
「真白ちゃん」
彩音がすぐに真白の方を向いた。
「ちょうどよかった。助けて」
「私が、ですか?」
「うん」
基樹と彩音は、ここまでの事情を真白に説明した。
昨日から恒一が巴を名前で呼ぶようになったこと。
その理由を聞いた恒一が、女性は名前で呼ぶ方が礼儀なのではないかと考え始めたこと。
それを訂正して、大切な相手だから名前で呼ぶ場合があると説明したところ、今度は大切だと思っている相手をみんな名前で呼ぼうとし始めたこと。
真白は静かに話を聞いていた。
「なるほど」
「真白ちゃん、どうすればいいと思う?」
「このままだと恒一、本当にいろんな人を名前で呼び始めそうなんだ」
「いろんな人じゃないぞ」
恒一が口を挟む。
「大切な人だけだ」
「だから、それで困ってるんだよ」
真白は少し考えた。
それから恒一へ視線を向ける。
「恒一様」
「何だ?」
「今のところは、今まで通りの呼び方でよろしいのではないでしょうか」
「今まで通り?」
「はい」
真白は諭すように穏やかに続けた。
「特に何か言われているわけではない方まで、急に呼び方を変える必要はないと思います」
「でも、名前で呼ぶ方が距離が近いんだろ?」
「そういう場合もあると思います」
「じゃあ――」
「ですが、皆様が名前で呼ばれたいと思っているとは限りません」
「……そうなのか」
「はい」
真白は頷いた。
「ですから、名前で呼んでほしいと言われた方だけ、名前で呼べばよいのではないでしょうか」
「呼んでほしいって言われた人だけ?」
「はい」
恒一は少し考えた。
「……そっか」
「はい」
「それなら分かりやすいな」
「そうですね」
「じゃあ、そうする」
恒一はあっさり頷いた。
「巴は名前で呼んでほしいって言ったから、巴」
「はい」
「それ以外は、今まで通りでいいんだな」
「その方がよいと思います」
「分かった」
基樹と彩音が同時に息を吐いた。
「……助かった」
「本当に」
恒一が二人を見る。
「何が?」
「何でもない」
「何でもないわ」
「そうか?」
「ああ」
「うん」
恒一はまだ少し不思議だったが、それ以上は気にしなかった。
どうやら、名前で呼ぶか名字で呼ぶかというのは、思っていた以上に難しいらしい。
ただ、真白の説明なら分かりやすかった。
名前で呼んでほしいと言われた相手だけ、そう呼ぶ。
それなら間違えようもない。
恒一はそう納得して、自分の席へ戻った。
基樹と彩音は、その背中を見送る。
「……何であんなことになったんだ?」
基樹が呟いた。
「私に聞かないでよ」
「昨日までは普通だったよな?」
「たぶん」
「名前の呼び方だけで、何でここまで話が大きくなるんだ」
「恒一だからじゃない?」
「……それで納得していいのか?」
「他に理由ある?」
基樹は少し考えた。
「ないな」
「でしょ」
二人はもう一度、恒一を見る。
本人はすでにいつも通りだった。
相変わらずと言えば、相変わらずなのかもしれない。
少なくとも。
今日から突然、女子を次々に名前で呼び始める恒一にはならずに済んだ。
基樹と彩音は、それだけでもう十分だと思うことにした。




