第215話 両思いになったらしい
■前田家
夕方。
「千夜」
「何?」
「私、恒一と両思いになった」
「……」
千夜は一瞬、言葉を止めた。
目の前の巴は、明らかに機嫌がいい。
いつもより表情が柔らかい。
それどころか、隠そうとしても隠しきれないくらい嬉しそうだった。
「……そう」
千夜は少し考えてから、穏やかに笑った。
「おめでとう、巴」
「うん」
巴は嬉しそうに頷いた。
その反応を見ながら、千夜は念のため確認することにした。
「それで、何があったの?」
「恒一が、私の気持ちを分かってくれた」
「朝比奈君が?」
「うん」
「どうやって?」
「今まで私の気持ちに気づけなくて、すまなかったって言ってた」
「……朝比奈君が?」
「そう」
「本当にそう言ったの?」
「言った」
しかも、と巴は続ける。
「頭まで下げた」
「頭を?」
「うん」
千夜は少しだけ考えた。
そこだけ聞けば、かなり期待してもよさそうな話ではある。
ただ、相手はあの朝比奈恒一だ。
千夜も彼がどういう人間なのかは、ある程度知っている。
もう少し確認した方がよさそうだった。
「それで、好きって言われたの?」
「それはまだ」
「付き合ってほしいって?」
「それもまだ」
「……」
「でも、両思い」
「そうなんだ」
千夜はとりあえず頷いた。
「他には?」
「名前で呼ぶことになった」
「名前?」
「うん。恒一が私を巴って呼ぶ」
その瞬間、巴の頬が少し赤くなった。
「それで、私も恒一って呼ぶことになった」
「……なるほど」
「それだけじゃない」
「まだあるの?」
「前は呼び方なんて何でもいいって言ったけど、今はもう少し近い呼び方の方がいいって私が言った」
「うん」
「そしたら、分かってくれた」
「……」
「それで、今まで私の気持ちに気づけなくてすまなかったって」
千夜は黙った。
巴は完全に恋愛の意味だと思っている。
問題は、恒一も同じ意味で理解していたかどうかだった。
「最近、朝比奈君とはどう?」
「どうって?」
「ほら。朝比奈家で料理したりしてるんでしょ?」
「うん」
「今度は一緒に作ることにもなったって言ってたよね」
「そう」
「それで、何か進展はあった?」
「ある」
「どんな?」
「料理が前より上手くなった」
「……」
「味噌汁も前より作れるようになったし、卵焼きも少し上手くなった」
「……よかったね」
「うん」
千夜が聞きたかったのは、そこではない。
「量も前より気をつけるようになった」
「それは本当によかったと思う」
「でしょ」
巴は満足そうだった。
千夜は小さく息を吐いた。
少し危ない。
いや。
かなり危ないかもしれない。
千夜は、料理を通じて二人の仲が進展している話を聞きたかった。
だけど、そういった話はまったくなかった。
巴が嘘をついているとは思わない。
ただ、恒一の認識と巴の認識が、かなりずれている可能性がある。
「巴」
「何?」
「一応確認するけど、まだ付き合ってはいないんだよね?」
「まだ」
「じゃあ、そこはちゃんと覚えておいた方がいいよ」
「でも、両思いではある」
「うん」
千夜は否定しなかった。
ここでいきなり「違うと思う」と言えば、巴はかなり落ち込むだろう。
それに、千夜自身もその場を見ていたわけではない。
本当に恒一の気持ちが変わった可能性もある。
恒一本人に確認できれば一番早い。
だが。
――巴と両思いになったの?
そんな電話をする勇気は、千夜にもなかった。
「だから、次は巴からちゃんと気持ちを言った方がいいと思う」
「気持ち?」
「うん」
「好きって?」
「そう」
「恒一に?」
「他に誰がいるの」
「いない」
「じゃあ、朝比奈君に」
巴は少し考えた。
「分かった」
「うん」
「じゃあ明日言う」
「待って!」
千夜は思わず止めた。
まさか、いきなり明日とは思わなかった。
こういうところは、いかにも巴らしい。
「何?」
「明日はやめた方がいいよ」
「どうして?」
「今日名前で呼ぶようになって、明日すぐ告白したら、ちょっと必死に見えるかもしれないから」
「必死?」
「そういうのって、雰囲気もあるでしょ」
「雰囲気」
「うん。ちゃんと言える雰囲気になった時に言った方がいいよ」
巴は真剣な顔で考え始めた。
「……なるほど」
「別に急がなくてもいいんだから」
「分かった」
「本当に?」
「うん。言える雰囲気の時に言う」
「そうして」
千夜は少しだけ安心した。
少なくとも、明日いきなり恒一を捕まえて告白することはなさそうだ。
「それで、ちゃんと朝比奈君の気持ちも聞くんだよ」
「恒一の気持ち?」
「うん。巴が好きって言って、それから朝比奈君にも聞くの」
「必要?」
「必要」
千夜は即答した。
「両思いなら、ちゃんと言葉で確認した方がいいでしょ」
「そうか」
「そう」
「分かった」
巴は素直に頷いた。
千夜はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
これなら大丈夫かもしれない。
告白する。
相手の気持ちも確認する。
そこまでやれば、今の二人が本当に両思いなのかもはっきりする。
「でも」
「何?」
「たぶん大丈夫」
「……何で?」
「恒一、私のこと巴って呼んだから」
「……」
「一回じゃない」
「回数は関係ないと思うけど」
「何回も呼んだ」
「そうなんだ」
「それに、これからも巴って呼ぶって」
「うん」
やはり、かなり舞い上がっている。
千夜の不安は少しも消えなかった。
「千夜」
「何?」
巴が急に真面目な顔になった。
「ありがとう」
「え?」
「千夜のおかげ」
「私?」
「うん」
巴は大きく頷いた。
「千夜にいろいろ相談したから、ここまで来られた」
「……そうかな」
「そう」
「でも、まだ付き合ってないよ?」
「分かってる」
「本当に?」
「うん」
巴は嬉しそうに笑った。
「でも、両思いにはなった」
「……うん」
「本当にありがとう、千夜」
「……どういたしまして」
千夜も笑った。
笑うしかなかった。
巴は本当に嬉しそうだった。
そんな巴を見られたこと自体は、千夜も嬉しい。
ただ。
――本当に大丈夫なのかな。
その気持ちは、さっきより強くなっていた。
むしろ、巴から「千夜のおかげ」とまで言われてしまったことで、責任まで増えた気がする。
恒一が何を考えていたのか。
本当に巴の気持ちを理解したのか。
そもそも二人は、本当に両思いなのか。
千夜には、何一つ確信が持てない。
今のところ。
不安しかなかった。




