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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第214話 名前を呼ぶ距離

■陸上部・グラウンド


 放課後。


 グラウンドには、いつもの声が響いていた。


 短距離のスタート音。


 スパイクが地面を蹴る音。


 佐藤が一年生に指示を出す声。


 ひよりが真面目に返事をする声。


 いつも通りの陸上部だった。


 けれど、恒一の頭には、部活へ来る前に真白から聞いた話が残っていた。


 今は、できるだけ白い場所へ行かないこと。


 もし小さな女の子に会っても、余計なことを話さないこと。


 問題は、本当にそれができるのかだった。


 何度も「教えてください」と頼まれた時、自分は断り続けられるのだろうか。


 真白に聞かれた時も、すぐには答えられなかった。


 今考えても、自信はない。


 もっとも、恒一自身、神様に会いたいわけではなかった。


 むしろ、できれば会いたくない。


 かなり会いたくない。


 それでも、夢の中のことまで自分の意思だけでどうにかできるのかは分からなかった。


「朝比奈」


 声が飛んできた。


 恒一は顔を上げた。


 巴がこちらへ歩いてくる。


 長い脚で数歩進むだけで、すぐ近くまで来た。


 背の高さは見慣れているはずなのに、目の前に立たれるとやはり大きい。


 ただ今は、それよりも、じっとこちらを見ている巴の顔の方が気になった。


「……悪い」


「今、考え事してたでしょ」


「すまん」


「やっぱり」


 巴は恒一の前で足を止めた。


「何かあった?」


「いや」


「嘘」


「……」


「朝比奈、嘘は下手」


 恒一は言葉に詰まった。


 確かに、あまり上手くない。


 最近は巴にもかなり見抜かれる。


 基樹や彩音にも見抜かれる。


 たぶん、恒一は隠し事に向いていない。


「北条のこと?」


 恒一は少しだけ目を動かしてしまった。


 それで、もう答えたようなものだった。


「やっぱり」


「……まあ、少し関係はある」


「何があったの?」


「詳しくは話せない」


 巴は少し眉を寄せた。


 けれど、それ以上すぐに問い詰めてはこなかった。


「じゃあ、何なら話せる?」


「そうだな……」


 恒一は少し考えた。


 白い場所のことは話せない。


 神様のことも話せない。


 ただ、自分が悩んでいる部分だけなら、別の形で聞ける。


「真田、一つ聞いていいか?」


「何?」


「もし、小さい子に何度も何かを教えてほしいって頼まれたら、どうすれば断れると思う?」


 巴が瞬きをした。


「……急に何?」


「ちょっと事情がある」


「何を教えてほしいって?」


「そこは言えない」


「そう」


 巴は少し首を傾けた。


「その子には、教えちゃ駄目なの?」


「駄目っていうより、今はまだ知らない方がいいらしい」


「じゃあ、教えなければいいでしょ」


「それができればいいんだけどな」


「できないの?」


「小さい子に何度も『教えて』って頼まれても、ずっと断れると思うか?」


 巴は黙った。


 少しだけ視線を外し、本気で考えているようだった。


 恒一はその答えを待った。


 やがて、巴がこちらを見る。


「……無理」


「考えた結果がそれか」


「うん。朝比奈には無理だよ」


「何でだよ」


「だって、朝比奈だから」


「理由になってないだろ」


「なってる」


「どこが」


「小さい子に何度もお願いされたら、朝比奈は最後にはきっと教える」


「……そうかな」


「そう」


「断るかもしれないだろ」


「朝比奈が?」


「俺が」


「無理」


「今度は即答かよ」


 巴が少しだけ笑った。


「断れないから、朝比奈なんでしょ」


「それ、褒めてるのか?」


「一応、褒めてる」


「一応なのかよ」


「うん」


 巴は恒一をまっすぐ見た。


「朝比奈が優しいってことだから」


「……そうか」


「そう」


 真白にも、似たようなことを言われた。


 どうやら、巴も同じ考えらしい。


「じゃあ、どうすればいい?」


 巴は少し考えた。


「……その子に会わなければいいんじゃない?」


「真白にも同じこと言われた」


「じゃあ、それでいいでしょ」


「やっぱりそうなるか」


「だって、朝比奈が断れないなら、それしかないでしょ」


「そうなんだよな」


 恒一は小さく息を吐いた。


 真白も巴も、同じ答えだった。


 二人がそう言うのなら、たぶん間違ってはいないのだろう。


 何より、恒一自身にも、小さな子に何度も頼まれて断り続けられる自信はなかった。


「じゃあ、今は会わないのが一番か」


「うん」


「分かった」


 巴は小さく頷いた。


 それから、恒一の顔をじっと見る。


「それで、さっきから考えてたの?」


「まあな」


「その、小さい子のこと?」


「それ以上は聞かないでくれ」


「分かった」


 あっさりとした返事だった。


「いいのか?」


「朝比奈が言えないなら、無理に聞いても仕方ないでしょ」


「そうだけど」


「でも」


 巴の表情が少しだけ真面目になる。


「また、一人で考えてたんでしょ」


「少しだけだ」


「朝比奈は、また自分だけで何とかしようとする」


 その言葉が、胸に少し刺さった。


 以前にも似たことがあった。


 巴を余計なことに巻き込みたくない。


 そう考えて、恒一は一人で距離を取った。


 そして、巴を傷つけた。


「今回は、本当に話せないこともある」


「分かってる」


 巴はすぐに答えた。


「全部話してなんて言わない」


「……」


「でも、悩んでるなら、それくらいは言って」


「それくらい?」


「『今、ちょっと悩んでる』とか」


「それでいいのか?」


「いい」


 巴はまっすぐ答えた。


「何も分からないまま、また朝比奈が勝手に遠ざかる方が嫌だから」


「……離れるつもりはない」


「本当に?」


「ああ」


 巴はしばらく恒一の顔を見た。


「前も約束とはいえ、朝比奈は私を巻き込みたくないって気持ちもあったんでしょ」


「まあ……そうだな」


「で、結局距離を取った」


「ああ」


「今度は、朝比奈だけで決めないで」


「分かった」


「言えないことは言わなくていい。でも、悩んでるなら言って」


「分かった」


 巴は小さく頷いた。


 少しだけ間が空いた。


「……だったら」


「何だ?」


「もう、前みたいに距離を取る必要もないよね」


「ああ」


 巴はそこで一度口を閉じた。


 何か言いたそうなのに、なかなか続きを言わない。


「どうした?」


「……一つ、気になってた」


「何が?」


 巴は少しだけ顔を赤くした。


「その呼び方」


「呼び方?」


「真田って呼ぶやつ」


 恒一は瞬きをした。


「でも前、呼び方なんて何でもいいって言ってなかったか?」


「言った」


「だったら、真田でもいいんじゃないのか?」


「……その時は、そう思ってた」


「今は違う?」


「違う」


 巴は小さく頷いた。


 それから、恒一から目を逸らさずに言った。


「北条のことは、真白って呼んでるでしょ」


「ああ」


「なのに、私はずっと真田」


「……」


「今は、もう少し近い呼び方の方がいい」


「近い呼び方……」


 言われてみれば、真白は名前で呼んでいる。


 そういえば、彩音も彩音だ。


 千瀬のことも千瀬と呼んでいる。


 ただ、白石は白石だった。


 今まで気にしたこともなかったが、もしかすると自分は、女性への呼び方について何か知らないことがあるのだろうか。


 基樹から、そんな話を聞いた覚えもない。


 教えるのを忘れていたのかもしれない。


 それでも、少なくとも巴本人がもっと近い呼び方を望んでいる。


 なら、ずっと名字で呼んできたことについては、恒一の方が悪かったのだろう。


「……真田」


「何?」


「今まで、すまなかった」


「え?」


 恒一は頭を下げた。


「お前がそんなふうに思ってたなんて、知らなかった」


「……」


「今まで、お前の気持ちに気づけなくて、すまなかった」


 返事がない。


 少しして恒一が顔を上げると、巴は目を見開いたままこちらを見ていた。


「真田?」


「……分かってくれたんだ」


「え?」


「ううん。何でもない」


 巴は小さく首を振った。


 けれど、頬は明らかに赤くなっていた。


 二人の間に沈黙が落ちる。


 グラウンドの向こうから、後輩たちの声が聞こえてくる。


 恒一は巴を見る。


 巴も、まだこちらを見ていた。


「じゃあ……」


「うん」


「これからは、こう呼ぶけどいいか?」


「……うん」


 恒一はほんの少しだけ間を置いた。


「巴」


「……っ」


 巴の肩が揺れた。


 さっきまで恒一をまっすぐ見ていたのに、急に視線が泳ぐ。


「巴?」


「……うん」


「これでいいんだよな?」


「うん……いい」


 声が小さい。


 巴は片手を頬に当てた。


 耳まで赤い。


「どうした?」


「ちょっと待って」


「何か変だったか?」


「違うから」


「じゃあ――」


「あ、私、後輩のフォーム見ないと」


「今?」


「今」


「佐藤も見てるけど」


「私も見る」


「そうか」


「うん。見なきゃいけないから」


 妙に早口だった。


 巴はもう一度だけ恒一を見た。


 目が合う。


 すると、また顔が赤くなった。


「じゃあ、行ってくる」


「ああ」


 巴はくるりと背を向けた。


 そのまま後輩たちが練習している方へ、足早に向かっていった。


 恒一はその後ろ姿を見送る。


 どうやら、思っていた以上に呼び方というものは大事らしい。


「朝比奈」


「ん?」


 今度は佐藤だった。


 手に持った練習予定表を恒一へ差し出す。


「次のメニュー、少し確認したい」


「ああ」


 佐藤と並んで予定表を覗き込む。


 そのすぐ隣に、ひよりが立っていた。


 なぜか顔が赤い。


「白石?」


「は、はい!」


「どうした?」


「い、いえ!」


 妙に返事が大きい。


「部長」


「何だ?」


「あの……さっき、副部長と話してましたよね」


「ああ」


「その……『今まで気持ちに気づけなくてすまなかった』って……」


「言ったな」


「それで、副部長のことを、名前で……」


「ああ。巴って呼ぶことにした」


「……っ」


 ひよりの顔がさらに赤くなった。


「白石?」


「だ、大丈夫です!」


「そうか?」


「はい!」


 恒一には、何が大丈夫なのか分からなかった。


 ひよりは少し離れた場所へ視線を向ける。


 後輩のフォームを見ている巴がいた。


 ただ、時々こちらをちらりと見ている。


 目が合いそうになると、すぐに後輩へ視線を戻す。


 それを見たひよりの顔が、また赤くなった。


「……白石?」


「すみません!」


「何で謝るんだ?」


「何でもありません!」


 恒一はますます分からなくなった。


 そこで、先ほど考えたことを思い出す。


 真白は名前。


 彩音も名前。


 千瀬も名前。


 そして今日から巴も名前で呼ぶ。


 だが、ひよりだけはずっと白石だった。


 もしかすると、ひよりにも同じように失礼なことをしているのかもしれない。


「そうだ、白石」


「はい?」


「一つ聞いていいか?」


「何でしょうか?」


「これから、ひよりって呼んでもいいか?」


「……」


 ひよりが固まった。


「白石?」


「……む、無理です」


「何が?」


「それは私には無理です!」


「え?」


「すみません!」


 ひよりは顔を真っ赤にしたまま、勢いよく頭を下げた。


 そして、そのまま一年生たちの方へ走っていった。


 恒一はその背中を見送る。


「……駄目だったのか?」


「俺に聞くな」


 佐藤が答えた。


「佐藤にも分からないのか?」


「今の会話で何をどう理解しろっていうんだ」


「そうか」


「それより予定表だ」


 佐藤が指で一か所を示した。


「一年の組なんだが、予定より一本減らして、その分、最後の補強を少し長くしたい」


「ああ」


「それから、明日の短距離は二本目と三本目の間を――」


 恒一は予定表を見た。


 けれど、少しして顔を上げる。


 巴は、恒一の背後にあたる少し離れた場所で、後輩のフォームを確認していた。


 恒一が振り返る。


 ちょうど巴もこちらを見ていた。


 目が合う。


「……」


 巴はまた頬を赤くして、そっと視線を後輩へ戻した。


 何なのだろう。


「朝比奈」


「ああ」


 恒一は予定表へ戻る。


「それで、休憩を少し長くして――」


 また気になって振り返った。


 巴と目が合った。


 巴は一瞬止まり、またすぐに顔を逸らした。


「……」


「朝比奈」


「何だ?」


「話、聞いてるか?」


「聞いてる」


「じゃあ、二本目と三本目の間を何分にするって言った?」


「……」


「聞いてないじゃないか」


「すまん」


 佐藤が大きく息を吐いた。


「さっきからお前、全然話を聞いてないだろ」


「悪かった」


「真田との話が気になるのは分かったから!」


 佐藤の声が、思った以上に大きくグラウンドへ響いた。


「そんな話はもうどうでもいいから、今はこっちの話を聞いてくれ!」


「……すまん」


 恒一は予定表へ視線を戻した。


 その時。


 佐藤の表情が変わった。


「……」


 佐藤の視線は、恒一の後ろへ向いていた。


 かなり離れた場所。


 そこに巴がいる。


 恒一からは見えない。


 けれど、佐藤にはよく見えた。


 さっきまで、恒一と目が合うたびに頬を赤くしていた巴が、こちらを見ている。


 いや。


 見ているのは恒一ではない。


 佐藤だった。


「……」


 佐藤は思わず黙った。


 ものすごい目だった。


 巴に睨まれたこと自体は、これまでにもある。


 だが、ここ最近でも見たことがないほど機嫌が悪そうだった。


 いや、もしかすると、以前に睨まれた時よりも今日の方がひどいかもしれない。


 ついさっきまでは、あれほど機嫌がよさそうだったのに。


 なぜ急に。


 佐藤には、まるで分からなかった。


 ただ一つ。


 自分が大声を出した直後にこうなった。


 それだけは分かった。


 巴はかなり離れた場所にいる。


 本来なら、普通の会話までは聞こえない距離だ。


 だが、今の佐藤は大きな声を出してしまった。


 おそらく、聞こえたのだろう。


 何がまずかったのかは分からない。


 それでも、自分が原因である可能性だけはかなり高い。


「……佐藤?」


 恒一が予定表から顔を上げた。


「何だ?」


「いや」


 佐藤は巴からそっと視線を外した。


「悪かった」


「何が?」


「何でもない」


「そうか?」


「ああ」


 恒一には巴が見えていない。


 だから、佐藤が突然態度を変えた理由も分からなかった。


「それで、さっきの続きは?」


「ああ……」


「今度はちゃんと聞く」


 恒一は予定表をまっすぐ見た。


 佐藤が少し困った顔をする。


「いや、そこまで真面目に聞かなくていい」


「さっき、ちゃんと聞けって言っただろ」


「言ったけど」


「だから聞く」


「いや……」


 佐藤はちらりと恒一の後ろを見る。


 巴はまだこちらを見ていた。


「……よく考えたら、そこまで大事な話でもなかった」


「そうなのか?」


「ああ」


「でも、さっきはかなり怒ってなかったか?」


「怒ってない」


「大声だったぞ」


「少し声が大きくなっただけだ」


「そうか?」


「ああ」


 恒一は首を傾げた。


「それで、一年の本数は?」


「今日はそのままでいい」


「補強は?」


「そのまま」


「明日の短距離は?」


「あとで決める」


「さっきと話が変わってないか?」


「変わってない」


「そうか?」


「そうだ」


 佐藤は予定表を閉じた。


 恒一はその様子を不思議そうに見る。


 ついさっきまで、あれだけ予定表を見ろと言っていた。


 それが急に、そこまで大事な話ではなかったと言い出した。


「佐藤」


「何だ?」


「急にどうした?」


「何でもない」


「でも――」


「本当に何でもない」


「そうか」


「ああ」


 佐藤は妙に真剣な顔で頷いた。


 その間に、巴はようやく佐藤から視線を外し、後輩の指導へ戻っていた。


 佐藤は小さく息を吐いた。


 結局、なぜあれほど睨まれたのかは分からない。


 ただ、自分が何かをやらかしたらしい。


 それだけは間違いなさそうだった。


 一方、恒一には、佐藤がなぜ急に大人しくなったのか分からない。


「本当に聞かなくていいのか?」


「そこそこでいい」


「そこそこ?」


「ああ。よく考えたら、そんなに真面目に聞く話じゃなかった」


「さっきと言ってることが違う気がするんだけど」


「気のせいだ」


「そうか」


「ああ」


 佐藤は即答した。


 恒一には、やはりよく分からなかった。

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