第213話 真白の願い
■学校・教室
朝食の問題は、ひとまず落ち着いた。
次に巴が朝比奈家へ来る時は、恒一も一緒に朝食を作る。
朝比奈家の朝食を、恒一が巴に教える。
巴はその話をかなり喜んでいたし、父と母も安心している。
実際に次の朝食を迎えるまでは分からないが、少なくとも今までのようなことにはならないだろう。
恒一も、そう思っていた。
その日の放課後。
陸上部へ向かおうとしていた恒一は、教室を出る前に声をかけられた。
「恒一様」
真白だった。
長い黒髪を背に流した小柄な姿が、静かにこちらを見ている。
「真白。どうした?」
「少し、お話ししてもよろしいですか?」
「ああ」
真白は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「前から、お話ししておこうと思っていたことがあるんです」
「前から?」
「はい。昨日は皆様のお身体のこともありましたから、お話しするような状況ではありませんでしたので」
「ああ」
確かに昨日は、それどころではなかった。
恒一自身も、父も母も、朝食の影響が残っていた。
「何の話だ?」
「白い場所のことです」
恒一は少しだけ表情を変えた。
「あそこか」
「はい」
真白は小さく頷いた。
「改めて確認しておきたいのですが、神様に会う方法は覚えていますか?」
「ああ」
恒一は頷いた。
「神様に会いたいと強く望んだり、何かに助けてほしい、救ってほしいと思ったりすると、あの白い場所へ行くことがあるんだろ」
「はい」
真白は静かに頷いた。
「そのことで、一つお願いがあります」
「何だ?」
「今はできるだけ、神様に会いたいと強く望むことは、避けてほしいのです」
恒一は少し瞬きをした。
「救ってほしいとか、助けてほしいとか、そういうのもか?」
「できれば、そういうふうに強く願うことも、避けてほしいのです」
「白い場所に行ってしまうかもしれないから?」
「はい」
真白は静かに答えた。
「絶対に行くなってことか?」
「いいえ」
真白はすぐに首を横に振った。
「そういう意味ではありません。ただ、もう少しだけ待ってほしいのです」
「理由があるんだな」
「はい」
真白は一度、視線を落とした。
「実は、あの場所には、もう一人いるんです」
「もう一人?」
「はい。まだ小さな女の子です」
恒一は少し驚いた。
「そんな子がいるのか」
「はい」
「神様以外に?」
「そうです」
真白は静かに頷いた。
「今までは、あの場所には、基本的に私とその女の子の二人しかいませんでした」
「二人だけだったのか」
「はい。ですから、私が必要なことだけを話していればよかったんです」
「必要なことだけ?」
「はい」
真白は少しだけ目を伏せた。
「まだ、知らなくてもいいことがたくさんありますから」
「そうなのか」
「はい」
それ以上、真白は詳しく説明しなかった。
「でも、俺が行くと違うのか?」
「はい」
「どうして?」
「今まで二人しかいなかった場所に、知らない人が来るんですから、きっといろいろ聞くと思います」
「俺のことを?」
「はい。恒一様は誰なのか、どうしてあの場所へ来たのか。きっと気になると思います」
「なるほど」
それなら、確かに不思議には思うだろう。
「その子は危ないのか?」
「いいえ」
真白はすぐに首を横に振った。
「危険な方ではありません」
「じゃあ、真白にとって都合が悪い相手とか?」
「それも違います」
「俺のことを嫌ってるとか?」
「恒一様のことを知りませんから、それもありません」
「そうか」
恒一は少し考えた。
「じゃあ、本当に、今はいろいろ知らない方がいいからってことか」
「はい」
真白は頷いた。
「もう少し大きくなってから知った方がいいこともあると思っています」
「今はまだ早い?」
「そう思っています」
真白は少しだけ視線を落とした。
「私自身も、いろいろなことを知った時は、とても驚きました」
「真白も?」
「はい」
「すぐには受け止められないこともありました」
「……そうか」
「ですから、あの子にも、一度にいろいろなことを知って、驚いたり、悲しんだりしてほしくないんです」
恒一は真白を見た。
ようやく、真白が何を心配しているのか分かった。
「だから、今は俺と会わせたくない?」
「……はい」
真白は少し申し訳なさそうに頷いた。
「ですが、絶対に会ってほしくないわけではありません」
「いずれは会ってもいい?」
「はい。いずれは、そうなると思います」
「でも、今はもう少し待ってほしい」
「はい」
真白は恒一をまっすぐ見た。
「できれば、そうしてほしいのです」
その声は、強く命じるものではなかった。
ただ、そうしてほしいと願っている。
恒一には、そう聞こえた。
「分かった」
「いいのですか?」
「ああ」
恒一は頷いた。
「真白がそこまで考えてるなら、できるだけ行かないようにする」
「ありがとうございます」
「ただ、夢の中だからな」
「はい」
「自分から神様に会いたいとか、助けてほしいとか思わないようにはできる。でも、それでも行ってしまったらどうする?」
「その時は、その時です」
真白の声は穏やかだった。
「恒一様が悪いわけではありませんから」
「じゃあ、もしその女の子に会ったら?」
真白は少し考えてから答えた。
「できれば、いろいろなことを詳しく話すのは、もう少し待っていただけると助かります」
「分かった。話さなきゃいいんだな」
「……本当にできますか?」
「できるだろ」
「小さな女の子に何度も『教えてください』と言われても?」
「……」
恒一は黙った。
「恒一様は、優しすぎますから」
「それは褒めてるのか?」
「心配しています」
「そうか」
「はい」
真白は少しだけ困ったように笑った。
「だから、できれば今は会わない方がいいと思っているんです」
「なるほどな」
恒一も、ようやく納得した。
「でも、神様はいいのか?」
「神様、ですか?」
「あの人なら、その子に何でも話せるだろ」
「それについては、神様にも、今はまだあまり詳しく話さないでほしいとお願いしてあります」
「神様まで口止めされてるのか」
「お願いしているだけです」
「でも、あの人も困るんじゃないか?」
真白は少し考えた。
「……困るのも、神様のお仕事なのではないでしょうか」
「そうなのか?」
「分かりません」
真白は少しだけ笑った。
「まあ、でも大丈夫だろ」
「そうでしょうか?」
「ああ」
「どうしてですか?」
「そもそも俺、神様に会いたいわけじゃないからな」
真白が少し目を丸くした。
「そうなのですか?」
「ああ」
恒一は迷わず答えた。
「むしろ、できれば会いたくない」
「……そうですか」
「もう会いたくない」
真白はしばらく恒一を見ていた。
それから、口元をわずかに緩める。
「神様、嫌われてしまいましたね」
「突然、夢の中の真っ白な場所に呼ばれたら、普通は警戒するだろ」
「それは……」
真白は少し考えた。
「神様にも、少し反省していただいた方がいいかもしれませんね」
「だろ?」
真白は小さく笑った。




