第212話 もう心配はいらない
■学校・教室
翌朝。
恒一はいつも通り学校へ向かった。
一晩眠ったことで、昨日から腹の中に残っていた重さもかなり薄れている。
父も母も、朝にはだいぶ回復していた。
さすがに朝食は軽く済ませたが、昨日のように二人そろって横になっているような状態ではない。
これなら、もう大丈夫だろう。
教室へ入ると、すぐに基樹がこちらを見た。
「恒一」
「おはよう」
「おはよう。大丈夫だったか?」
「ああ」
恒一は鞄を置いた。
「もう大丈夫だ。父さんも母さんも、だいぶ戻った」
「そうか」
基樹が安心したように息を吐く。
「昨日の状態を聞いた時は、本当に大丈夫なのかと思ったぞ」
「俺も思った」
「お前まで言うなよ」
「実際、昨日は俺もかなりきつかったからな」
「まあ、それなら今日は普通に来られたんだし、よかったけど」
「ああ」
そこへ、真白もやってきた。
長い黒髪を揺らしながら近づいてくる小柄な姿は、いつもと変わらない。
だが、恒一を見る黒い瞳には、はっきりと心配の色があった。
「恒一様」
「真白、おはよう」
「おはようございます。お身体は、もう大丈夫なのですか?」
「ああ。もう大丈夫だ」
「本当ですか?」
「本当だ。父さんも母さんも、かなり回復した」
「そうですか」
真白の表情がわずかに緩んだ。
「昨日は、とても心配しました」
「母さんから聞いた。見舞いに来ようとしてくれたんだろ」
「はい。ですが、お母様から大丈夫だとご連絡をいただきましたので」
「ありがとう」
「いえ。皆様が無事なら、それで十分です」
恒一は頷いた。
「心配かけたな」
「それは構いません。ですが、本当に無理はなさらないでください」
「ああ」
「恒一」
後ろから声がした。
振り向くと、彩音がこちらへ歩いてきていた。
「おはよう、彩音」
「おはよう。それで?」
「何がだ?」
「昨日の話に決まってるでしょ」
彩音は恒一の前で立ち止まった。
「どうなったの?」
「ああ。それなら、うまくいった」
「本当?」
「ああ」
基樹も改めて恒一を見る。
「昨日の案を試したのか?」
「試した。父さんと母さんに話して、それから真田にも電話した」
「それで?」
「次に真田が朝食を作りに来た時は、俺も一緒に作ることになった」
彩音が頷いた。
「じゃあ、昨日みんなで考えた方法で決まったんだ」
「ああ」
「よかったじゃない」
「俺もそう思う」
基樹が少し笑った。
「それなら、相談した甲斐があったな」
「ああ。助かった。昨日はありがとう」
「俺だけじゃないけどな」
「分かってる。純也にも、今度ちゃんと礼を言っておく」
「そうしろ」
彩音も満足そうに頷く。
「おじさんとおばさんも、それで納得したの?」
「ああ。かなり安心してた」
「まあ、恒一が一緒なら大丈夫でしょうね」
「朝比奈家の朝食を俺が教えることにしたんだ」
「巴も納得した?」
「した」
恒一は少し考えてから続ける。
「というか、かなり喜んでた」
「へえ」
彩音の口元が少しだけ緩んだ。
「何だ?」
「何でもない」
「そうか」
「うん」
彩音はそれ以上何も言わなかった。
真白は静かに恒一を見ていた。
「では、次は恒一様と巴さんがお二人で朝食を作られるのですね」
「ああ。その予定だ」
「そうですか」
真白は小さく頷いた。
「恒一様がお教えになるのでしたら、きっと大丈夫ですね」
「そうだといいけどな」
「大丈夫です」
真白はそう言った。
「恒一様は、お料理がお上手ですから」
「ありがとう」
彩音が腕を組む。
「これで朝比奈家の危機もひとまず解決ってことね」
「たぶんな」
「たぶん?」
「まだ次に実際に作ってないからな」
「まあ、それはそうだけど」
基樹が肩をすくめる。
「でも恒一が横にいるなら、昨日みたいなことにはならないだろ」
「俺もそう思ってる」
「なら大丈夫だ」
「ああ」
昨日はどうなることかと思った。
けれど、皆に相談したおかげで、何とか次への方法も決まった。
両親も安心した。
巴も納得している。
少なくとも、今のところはそれで十分だった。
■陸上部・部室
昼休み。
恒一は陸上部の部室へ向かった。
扉を開けると、中に佐藤がいた。
「朝比奈」
「佐藤」
佐藤は恒一を見るなり、少し身を乗り出した。
「大丈夫だったのか?」
「ああ。もう大丈夫だ」
「本当に?」
「何でみんな同じことを聞くんだ」
「昨日の話を聞いたら聞くだろ」
「まあ、そうか」
佐藤は少し安心したようだった。
「お前の親は?」
「二人ともだいぶ回復した。今日は普通に動いてる」
「そうか。よかった」
「ああ」
佐藤はそこで、ふと周囲を見回した。
部室の中を確認するように視線を動かす。
「……真田、今はいないよな?」
「いない」
「本当だな?」
「見れば分かるだろ」
「念のためだ」
「何の念だ」
「本人がいるところで昨日の朝食の話なんかできるか」
「それもそうだな」
佐藤は小さく息を吐いた。
「それで、結局どうしたんだ?」
「昨日、基樹たちに相談して出た案で話した」
「どんな案だ?」
「次からは、俺も真田と一緒に朝食を作る」
「朝比奈も一緒に?」
「ああ。朝比奈家の朝食を俺が教えることにした」
「真田は納得したのか?」
「した。むしろ喜んでた」
「そうなのか」
「ああ」
「だったら大丈夫そうだな」
「父さんと母さんも安心してた」
「そりゃ安心するだろ」
佐藤は真顔で頷いた。
「昨日みたいなのが毎回来たら、体がもたないからな」
「父さんも同じことを言ってた」
「だろうな」
「でも、これならもう大丈夫だと思う」
「そうか」
佐藤が少し笑った。
「ならよかった」
「ああ。心配かけたな」
恒一がそう言うと、佐藤は一瞬黙った。
「……何か変な感じだな」
「何が?」
「いつもは逆だろ」
「逆?」
「俺の体をお前に心配されてる」
「ああ」
恒一はすぐに分かった。
佐藤は胃を押さえることが多い。
そのたびに恒一が、大丈夫なのかと聞いている。
「確かにそうだな」
「それが昨日は、俺がお前とお前の家族の体を心配してたんだからな」
「珍しいな」
「珍しいで済ませるな」
「でも、事実だろ」
「事実だけど」
佐藤は少し納得できないような顔をした。
「俺はいつも心配される側だったのに」
「よかったじゃないか。たまには心配する側になれて」
「別に嬉しくない」
「そうか」
「当たり前だろ」
佐藤はため息をつく。
「それより、本当にもう大丈夫なんだろうな?」
「ああ」
「ならいい」
「ありがとう」
「だから礼はいらないって」
「昨日も心配してくれただろ」
「そりゃするだろ。友達の家族が朝食で全員寝込んだって聞いたら」
「寝込んだだけだ」
「十分だろ」
「仕事まで休んだんだろ?」
「父さんはな」
「十分だ」
恒一は少し考えた。
確かに、佐藤の言うことにも一理ある。
昨日の朝は、かなりひどかった。
けれど、それももう終わった。
「次は俺も一緒だから大丈夫だ」
「頼むぞ」
「何で佐藤に頼まれるんだ」
「俺まで心配させられたからだ」
「そういうことか」
「そういうことだ」
佐藤はそう言って、ようやくいつものような顔に戻った。
恒一も少し笑った。
昨日まで騒がしかった朝食の問題は、これでひとまず落ち着いた。
家族も回復した。
皆にも報告できた。
次からは、自分も一緒に作る。
それなら、きっと大丈夫だ。
少なくとも今度は、佐藤に自分たちの胃を心配されるようなことにはならないだろう。
恒一はそう思った。




