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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第211話 朝食は共同作業で

 ■朝比奈家


 一ノ瀬家から戻った朝比奈恒一は、玄関を開けて、静かに家へ入った。


 朝よりは体調がましになっている。


 だが、腹の重さはまだ残っていた。


 台所からは、何の音もしない。


 いつもの夕方なら、母が夕食の支度を始めていてもおかしくない時間だった。


 けれど今日は、台所が妙に静かだった。


 恒一は居間へ向かった。


 父はソファに横になっていた。


 母も座布団を枕にして、少し横になっていた。


 二人とも、まだ横になってはいるが、朝よりは顔色がいい。


 それだけで、恒一は少し安心した。


「ただいま」


 父がゆっくり顔を向けた。


「おかえり、恒一」


「具合はどうだ」


「父さんは、何とか生きている」


「そうか」


「会社は休んだ」


「知ってる」


 母も顔を上げた。


「恒一、相談はできたの?」


「ああ」


「何かいい案は出た?」


「出た」


 父が少しだけ体を起こした。


「本当か」


「ああ。いくつか案が出た」


「聞こう」


 父の目は真剣だった。


 朝の戦いを生き延びた人間の目だった。


 恒一は、まず一つ目の案を話した。


「最初に出たのは、真白にあまり来てもらわないようにする案だ」


 父の顔色が変わった。


「却下だ」


「まだ説明していない」


「説明されても却下だ」


「真田は真白に対抗して来ている可能性がある。だから、真白が来なければ真田も来ないかもしれない」


「駄目だ」


 父は即答した。


「真白ちゃんの朝食がなくなるのは困る」


「父さん」


「困るものは困る」


 母も少し寂しそうな顔をした。


「私も、それはちょっと寂しいわね。真白ちゃんが来てくれると、家の中が明るくなるし」


「そうか」


「それに、真白ちゃんは本当にいい子だもの」


「そうだな」


 恒一は頷いた。


 この案は、父と母には通らない。


 予想はしていた。


 特に父は、真白の作る朝食をかなり気に入っている。


 毎回おかわりしている。


 その楽しみをなくす案は、父には受け入れられないだろう。


「分かった。この案はなしにする」


「頼む」


 父は本気で言った。


「父さんから真白ちゃんの朝食を奪わないでくれ」


「そこまでか」


「そこまでだ」


 母が苦笑する。


「お父さん、真白ちゃんの朝ご飯、本当に楽しみにしているものね」


「美味しいからな」


 父は真面目に言った。


「それで、他の案は?」


「ああ」


 恒一は少し姿勢を正した。


「次の案は、真田が来た時、俺も一緒に朝食を作るというものだ」


 父と母が同時に黙った。


 それから、父の表情が少しずつ明るくなる。


「それはいい」


「そう思うか」


「ああ」


 父は力強く頷いた。


「つまり、ほとんど恒一が作るようなものだよな」


「そこまでは言っていない」


「でも、恒一が横についているんだろう」


「ああ」


「なら、変なものを入れそうになったら止められる」


「止めるというか、朝比奈家の朝食はこういうものだと教える」


「同じことだ」


 母も頷いた。


「それなら安心ね。恒一が一緒なら、量も調整できるでしょうし」


「味見もできる」


「そうね。味見も大事ね」


 母の声には、朝の記憶が少しだけ混ざっていた。


 父も深く頷く。


「味見は大事だ。すごく大事だ」


「分かった。次からはそうする」


「それでいこう」


 父はようやく少し安心したようだった。


「真田さんの気持ちはありがたいんだ。ありがたいんだが、父さんの体は一つしかない」


「俺もそう思う」


「だから、真田さんを傷つけずに、恒一が横で調整する。それが一番いい」


「俺もそう思っている」


 母は少しだけ体を起こした。


「それなら、真田さんに電話してくれる?」


「ああ」


「先に話しておいた方がいいわ。次に来る時は、恒一と一緒に作りましょう、って」


「分かった」


 恒一はスマホを取り出した。


 巴に電話をかける。


 呼び出し音が鳴る。


 数回のあと、巴の声が聞こえた。


『朝比奈か』


「ああ」


『どうした』


「今日の朝食のことだ」


 電話の向こうで、少しだけ間があった。


『何か問題があったか』


「いや」


 恒一はすぐに言った。


「作ってくれてありがとう」


『……そうか』


 巴の声が、少しだけ柔らかくなった。


『それならよかった』


「ただ、次に来る時のことを考えた」


『次』


「ああ」


『次も作っていいのか』


「もちろんだ」


 巴の声が、明らかに明るくなった。


『そうか』


「ああ。ただ、次は共同作業にしないか」


『共同作業?』


「俺も一緒に朝食を作る」


 電話の向こうで、巴が黙った。


 恒一は少し不安になった。


 怒らせただろうか。


 嫌がられただろうか。


 そう思ったが、次に聞こえてきた声は、少し違っていた。


『一緒に、作るのか』


「ああ」


『朝比奈と、私が』


「そうだ」


『一緒にエプロンをして、台所に立つのか』


「エプロンはたぶんする」


『そうか』


 巴の声が、明らかに動揺していた。


 だが、悪い意味ではなかった。


『朝から、一緒に』


「ああ。朝比奈家の朝食を教えるなら、俺が一番いいと思った」


『朝比奈家の朝食』


「家によって、量や味が違うだろう。だから、俺が横で教える」


『ぜひ教えてほしい』


 巴は食いつくように言った。


『朝比奈家の朝食を、朝比奈から教わりたい』


「分かった」


『次はいつだ』


「それは、また今度連絡する」


『分かった。待っている』


「あと、材料はこちらで用意する」


『そうなのか』


「ああ。朝比奈家の朝食だからな」


『なるほど』


 巴は納得したようだった。


『では、私は朝比奈家のやり方を覚える』


「そうしてくれると助かる」


『分かった』


 電話の向こうの巴の声は、かなり嬉しそうだった。


『朝比奈』


「何だ」


『今日はありがとう』


「こちらこそ」


『次は、もっとよく作る』


「ああ。一緒に作ろう」


『ああ』


 電話を切った。


 恒一は、小さく息を吐いた。


 父と母が、じっとこちらを見ている。


「どうだった?」


 母が聞く。


「大丈夫だ」


「本当に?」


「ああ。次からは、俺と一緒に作ることで納得してくれた」


 父が深く息を吐いた。


「よかった」


 母も胸をなで下ろす。


「よかったわね」


「ああ」


 父は天井を見上げた。


「このままだと、真田さんが来るたびに父さんは仕事を休むことになるところだった」


「それは困るな」


「困る。本当に困る」


 父は真顔だった。


 母は少し笑った。


「でも、真田さんも喜んでくれたならよかったわ」


「ああ」


「真田さんの気持ちを無駄にしないで済むものね」


「そうだな」


 恒一も、そこは安心していた。


 巴を傷つけなかった。


 朝比奈家も守れるかもしれない。


 少なくとも、次に三倍GIGAMAXカップラーメン特製トッピング盛りが単独で食卓に出てくる可能性は下がった。


 それだけでも大きい。


 その時、母が思い出したように言った。


「そういえば、真白ちゃんから連絡が来ていたわよ」


「真白から?」


「ええ。すごく心配してくれていたわ。学校が終わったらお見舞いに行きますって」


「そうか」


「さすがね。優しいし、気立てもいいし、親切だし」


 父も頷いた。


「真白ちゃんは本当にいい子だな」


「介抱しに来てくれようとしていたもの」


 母は少し嬉しそうに言う。


「でも、今日は大丈夫だからって断っておいたわ」


「そうなのか」


「だって、このくらいまで回復しているんだから、大丈夫でしょう?」


 父が少しだけ残念そうな顔をした。


「いや、父さんは真白ちゃんに心配されてもよかったぞ」


「あなた」


「冗談だ」


「今のは冗談に聞こえなかったわ」


「少し本気だった」


「もう」


 母が軽く父を睨む。


 父は力なく笑った。


「でも、真白ちゃんにまで心配をかけるのは悪いからな。今日はこれでいい」


「そうね」


 恒一はそのやり取りを見て、少しだけ安心した。


 父も母も、話せるくらいには回復している。


 朝の時点ではどうなるかと思ったが、少しずつ戻ってきている。


 母が台所の方を見た。


 そして、少しだけ首を横に振る。


「それで、夕飯だけど」


 父と恒一が同時に母を見る。


 母は静かに言った。


「みんな、いらないわよね?」


「いらない」


 父が即答した。


「俺もいらない」


 恒一も即答した。


「私もいらないわ」


 母はそう言って、少し笑った。


「今日は、もうお腹がいっぱいね」


「いっぱいというか、まだ朝が終わっていない感じがする」


 父が言った。


「分かる」


 恒一は頷いた。


 腹の中には、まだ朝食の存在感が残っている。


 少なくとも、次への道は見えた。


 けれど、体の回復はまだ追いついていない。


 それについては、明日の朝の様子を見ないと分からない。


 それでも、恒一の気持ちは少し軽かった。


 巴を傷つけずに済んだ。


 父と母も安心した。


 真白にも、あとで大丈夫だと連絡できる。


 彩音たちにも、相談がうまくいったと伝えられる。


 すべてが完全に片づいたわけではない。


 だが、何とかうまくいった。


 恒一はそう思った。


 朝比奈家の台所は、まだ静かだった。


 けれど、その静けさは、朝の戦いの後のものとは少し違う。


 次は、きっと大丈夫だ。


 恒一は、少しだけ晴れやかな気持ちでそう思った。

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