第209話 家庭崩壊を止めるために
■陸上部部室
昼休み。
朝比奈恒一は、陸上部の部室へ向かっていた。
朝から体調は戻っていない。
歩くたびに腹が重く、三倍GIGAMAXカップラーメンと、山盛りのもやしと、肉だらけの味噌汁が、まだ腹の中に居座っているようだった。
それでも、行かなければならない場所があった。
部室の扉を開けると、佐藤忠一が机に向かっていた。
昼休みだというのに、練習メニューの確認をしている。
佐藤が顔を上げた。
「朝比奈?」
その瞬間、眉間にしわが寄る。
「お前、顔色が悪いぞ」
「ああ」
「どうした」
「お前の思っていたとおりになってしまった」
佐藤はしばらく黙った。
そして、ゆっくりと目を伏せる。
「恐れていたとおりになったか」
「ああ」
「だから言っただろう」
佐藤はため息をついた。
「お前は人を信じすぎる。もう少し疑うことを覚えた方がいい」
「そうかもしれない」
「真田が、急に料理を作れるようになっているとは思えなかった」
「それは少し失礼だ」
「だが、お前はその顔でここに来ている」
恒一は反論しようとした。
巴は一生懸命だった。
朝比奈家のために、本気で料理を作ってくれた。
その気持ちまで否定したくはない。
けれど、今回に限っては、佐藤の言葉を否定できなかった。
「今回に限っては、お前が正しかった」
「何があった」
佐藤の表情が真剣になる。
恒一は椅子に腰を下ろした。
「今日、真田の朝食を食べて、俺の両親が倒れた」
「倒れた?」
「ああ。母さんは途中で退避した。父さんは最後まで食べたあと、玄関で倒れた」
「お前の家も大変だな」
「俺も、朝からずっと体調が悪い」
「見れば分かる」
佐藤は手にしていた用紙を机へ置いた。
「それで、俺に何の用だ」
「頼みがある」
「何だ」
「今日の部活は休ませてほしい。午後の授業も受けられそうにないから、早退する」
佐藤はすぐに頷いた。
「だろうな」
「いいのか」
「その顔で走られても困る。今日は休め」
「助かる」
「また明日から、部長として働いてくれればいい」
「ああ」
恒一は少しだけ頭を下げた。
佐藤は腕を組み、恒一の顔を見る。
「まだ何かあるな」
「ああ」
「何だ」
「もし真田が来て、俺のことを聞いたら、真田の料理で体調を崩したとは言わないでほしい」
佐藤は眉を寄せた。
「本人には言った方がいいんじゃないか」
「それは分かっている」
「言わないと改善しないぞ」
「ああ。だが、いきなり伝えれば、真田が傷つく」
佐藤は黙った。
「真田は、俺の家のために真剣に作ってくれた。悪意があったわけじゃない」
「それはそうだろうが」
「それに、そんなことを言ったら、お前の命も危ないかもしれない」
佐藤は黙った。
少し長めに黙ったあと、自分の腹を押さえる。
「……それはあるな」
「あるだろう」
「あの目で問い詰められたら、俺の胃がもたない」
「今朝から、お前の胃はずっと危険を察知していたからな」
「ああ。嫌な予感はしていた」
佐藤は大きく息を吐いた。
「分かった。体調不良で早退した。原因はまだ分からない。それだけ伝える」
「助かる」
「真田が詳しく聞いてきたら?」
「何とかしてくれ」
「簡単に言うな」
「頼む」
佐藤は苦い顔をしたが、やがて頷いた。
「分かった」
「ありがとう」
「ただし、あとでちゃんと考えろ。真田を傷つけずに伝える方法を」
「ああ。そのために、彩音たちへ相談する」
「一ノ瀬と三浦か」
「ああ」
「料理のことなら、前田妹にも聞いた方がいいかもしれないな」
「そうだな」
恒一は立ち上がろうとした。
だが、腹が重く、すぐには体が動かなかった。
佐藤が眉をひそめる。
「本当に大丈夫か」
「大丈夫ではない」
「なら、早く帰れ」
「ああ」
「廊下で倒れるなよ」
「努力する」
「努力ではなく、倒れる前に保健室へ行け」
「分かった」
恒一は部室を出た。
背中に、佐藤のため息が聞こえた気がした。
■二年A組
教室へ戻ると、彩音、基樹、真白がすぐに恒一を見た。
顔色が朝よりよくなっていないことに気づいたのだろう。
彩音が眉を寄せる。
「恒一、大丈夫?」
「今日、これで帰る」
「そうした方がいいわね」
「放課後の相談は、一度家に帰って休んでからにしたい」
彩音は頷いた。
「分かった。無理に来なくても、電話で聞くよ」
「調子が戻ったら、彩音の家へ行く。それでもいいか」
「いいよ。来られそうなら連絡して」
「ああ」
基樹が横から声をかける。
「本当に無理するなよ」
恒一は基樹を見た。
「俺はもう、朝から十分無理をした」
「……そうだな」
「だから、今はその言葉を使わないでくれ」
「悪かった」
基樹は苦笑した。
真白は席から立ち上がり、心配そうに恒一を見上げる。
「恒一様。ご自宅へ戻られたら、必ずお父様とお母様の様子も確認してください」
「ああ」
「そして、何かありましたら、すぐに連絡してください」
「分かった。心配してくれてありがとう」
「はい」
真白はまだ不安そうだったが、恒一の体調を考えたのか、それ以上は引き止めなかった。
彩音が腕を組む。
「じゃあ、少し休んでから連絡して」
「ああ」
「でも、来られるなら来て。話がかなり複雑そうだから」
「分かった」
基樹が呆れたように彩音を見る。
「お前、少し楽しみにしてるだろ」
「心配してるわよ」
「少しは否定しろよ」
「だって、家庭が崩壊しかける朝食って何なのよ。気になるじゃない」
「それを楽しみにしてるって言うんだよ」
「心配もしてるってば」
「順番が逆なんじゃないか」
二人のやり取りを聞きながら、恒一は鞄を持った。
立ち上がるだけでも腹に響く。
「すまない。今日は帰る」
「お大事になさってください」
真白が深く頭を下げる。
「ありがとう」
恒一は教室を出た。
まずは家へ帰る。
少し休み、朝比奈家の状態を確かめる。
そのあとで、巴を傷つけずに、この惨事を止める方法を考えなければならない。
■朝比奈家
家へ戻ると、父は居間で横になっていた。
会社には休むと連絡したらしい。
天井を見つめたまま、ほとんど動かない。
母も無事ではあったが、まだ台所へ近づこうとはしなかった。
朝比奈家には、朝食の余韻が残っていた。
食卓にも、台所にも、妙に重い空気が漂っている。
「ただいま」
「おかえり、恒一……」
父が弱々しい声で答えた。
「父さん、本当に会社を休んだのか」
「ああ。今日は無理だ」
「そうか」
「お前は大丈夫なのか」
「大丈夫ではない。だから早退してきた」
「そうか……」
父は天井を見たまま、小さく頷いた。
母も横になったまま、恒一を見る。
「学校から帰ってくるくらいだから、相当なのね」
「ああ」
「少し休みなさい」
「そうする」
恒一は自分の部屋へ行き、数時間ほど横になった。
腹の重さは、すぐには消えなかった。
それでも、時間がたつにつれて、少しずつ動けるようになってきた。
まだ万全ではない。
だが、相談へ行けないほどではなかった。
恒一はスマホを手に取り、彩音へ電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと、彩音が出る。
『もしもし。恒一?』
「ああ」
『体調は?』
「少しだけましになった」
『少しだけなのね』
「ああ」
『無理して来なくてもいいよ。電話だけでも聞くから』
「いや、相談しに行く」
『分かった。私はもう家にいるから、いつでもいいよ』
「助かる」
『基樹もいるけど、いい?』
「ああ」
『あと、純也さんもいる』
「純也さん?」
『うん。たまたま来てる。話を少ししたら、興味を持ったみたい』
「そうか」
相談相手が増える。
悪いことではない。
彩音と基樹だけでなく、純也がいるなら、別の考えも聞けるかもしれない。
「分かった。三人に相談する」
『了解。待ってる』
「今から行く」
『本当に無理しないでね』
「ああ」
電話を切り、恒一はゆっくりと立ち上がった。
居間を通ると、父がかすかに顔を動かした。
「恒一……どこへ行くんだ」
「相談に行く」
「相談?」
「ああ。明日以降の家庭崩壊を止めるために」
父は天井を見たまま、弱々しく親指を立てた。
「頼んだぞ」
「任せてくれ」
母も横になったまま口を開く。
「真田さんを傷つけないようにね」
「分かってる」
「でも、次はもう少し軽い朝食がいいわ」
「それも分かってる」
恒一は玄関へ向かった。
体調はまだ完全には戻っていない。
歩けば、腹にも響く。
それでも行くしかなかった。
巴を傷つけず、朝比奈家の胃袋も守る。
その方法を探すため、恒一は彩音の家へ向かった。




