第208話 家庭崩壊の朝
■二年B組前
校舎に入り、朝比奈恒一と真田巴は並んで廊下を歩いていた。
恒一の腹は、まだ重かった。
歩くたびに、三倍GIGAMAXカップラーメンと、山盛りのもやしと、肉だらけの味噌汁が腹の中で存在を主張している。
それでも、隣を歩く巴の足取りは軽い。
朝からあれだけ食べたというのに、いつもより少し機嫌がよさそうに見えた。
二年B組の前まで来ると、巴が足を止める。
「朝比奈」
「ああ」
「今日は本当にありがとう」
「俺の方こそ。作ってくれてありがとう」
「朝比奈のお父さんとお母さんにも、喜んでもらえてよかった」
「ああ」
恒一は頷いた。
父も母も、笑顔で美味しかったと言った。
母は途中で体調を崩し、父は涙目になっていたが、それでも笑顔ではあった。
だから、嘘ではない。
たぶん。
「次は、もっとよくできると思う」
「次」
「ああ。今回は初めてだったからな」
「そうだな」
「千瀬にも、また教えてもらう。今度はもっと朝比奈の家に合うものを作る」
恒一の腹が、わずかに震えた。
食べ物のせいか、恐怖のせいかは分からなかった。
「だから、また食べてくれ」
「分かった」
恒一は笑顔で頷いた。
巴の表情が、さらに明るくなる。
「では、また後で」
「ああ」
巴は少し嬉しそうに笑い、二年B組へ入っていった。
その背中が教室の中へ消えるまで、恒一は笑顔で見送った。
そして。
巴が完全に見えなくなった瞬間、恒一の顔から笑顔が消えた。
「……っ」
腹が重い。
苦しい。
巴の前では、何とか顔に出さずに耐えていた。
だが、もう限界に近い。
恒一は腹を押さえながら、ゆっくりと二年A組へ向かった。
■二年A組
教室に入る。
朝の教室は、いつもどおりざわついていた。
だが、恒一にはそのざわめきが少し遠く聞こえた。
一歩ずつ自分の席まで歩き、倒れ込むように椅子へ座る。
机に片手をつく。
息が少し荒い。
「恒一様?」
すぐに、北条真白の声がした。
真白は席から立ち上がり、心配そうに恒一の顔をのぞき込む。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
恒一は答えた。
だが、少し考え直す。
「と言いたいが、大丈夫ではないかもしれない」
「全然大丈夫ではありません」
真白は即答した。
「顔色が悪いです。汗も出ています。お腹が痛いのですか?」
「痛いというより、重い」
「重い?」
「ああ」
「何があったのですか?」
「今日の朝、父さんと母さんが倒れた」
真白の顔色が変わった。
「倒れたのですか?」
「ああ」
「大変ではありませんか。どうして学校に来ているのですか? 病院はどちらですか。私も学校が終わったらお見舞いに――」
「待ってくれ」
恒一は片手を上げた。
「病院ではない」
「病院ではないのですか?」
「ああ。家にいる」
「それはそれで大変です」
「命に関わるような倒れ方ではないと思う」
「本当ですか?」
「ああ。たぶん」
「たぶんでは困ります」
真白は本気で心配していた。
黒い瞳が不安そうに揺れている。
そこへ、一ノ瀬彩音が近づいてきた。
「ちょっと待って」
彩音は恒一の顔を見て、眉をひそめる。
「何、その顔。朝からすごいことになってるけど」
「そうか」
「そうよ。それで、今の話は何? お父さんとお母さんが倒れたって」
三浦基樹も、その後ろからやって来た。
「何だよ、朝から物騒だな」
「物騒ではない」
「両親が倒れたって言ってる時点で物騒だろ」
「今日、真田が朝ご飯を作りに来てくれた」
彩音と基樹が黙った。
真白も目を瞬かせる。
「真田さんが、ですか?」
「ああ。その朝食を食べたあと、父さんは玄関で倒れた。母さんは居間で横になっていた」
「どういうことなの」
彩音が低い声で言った。
基樹も真顔になる。
「真田の料理が、まずかったのか?」
「いや」
恒一は首を横に振った。
「俺と父さんは、食べられる限界まで食べた」
「答えになってない」
基樹が言った。
「味の問題だけではない」
「量か?」
「量もある」
「『も』って何だ」
恒一は答えようとした。
しかし、今すべてを説明するだけの体力は残っていなかった。
朝から食べたものが、まだ腹の中で大きく居座っている。
「彩音」
「何?」
「この件について、あとで相談したい」
彩音の目が、少しだけ光った。
「恒一が私に相談?」
「ああ」
「久しぶりね」
「そうかもしれない」
「しかも内容が、真田さんの料理で家族が倒れた件」
「そうだ」
「かなり難しそうね」
「ああ。かなり難しいと思う」
彩音は口元に手を当てた。
心配しているようにも見える。
だが、少しだけ面白がっているようにも見えた。
「いいわよ。放課後に聞く」
「助かる」
「教室で待っていればいい?」
「ああ」
基樹が横でため息をついた。
「また始まったよ」
「何がよ」
「彩音が面白そうな顔をしてる」
「してないわよ。心配してるの」
「半分はな」
「半分って何よ」
「残り半分は、絶対に面白がってる」
彩音は少しだけ目をそらした。
「……だって、気になるじゃない」
「ほらな」
真白は二人のやり取りを見てから、もう一度恒一へ視線を戻した。
「恒一様。お父様とお母様は、本当に大丈夫なのですね?」
「父さんは、たぶん今日会社を休むと思う」
「大丈夫ではないです」
「母さんも、まだ横になっていると思う」
「やはり大丈夫ではありません」
真白は不安そうに眉を寄せた。
「私、学校が終わったら様子を見に行きます」
「気持ちはありがたいが、今日は少し待ってくれ」
「なぜですか?」
「家の中が、まだ朝食の余韻で混乱しているかもしれない」
「朝食の余韻」
真白は聞き慣れない言葉を繰り返した。
彩音が興味深そうに身を乗り出す。
「朝食の余韻で混乱する家って何?」
「それもあとで話す」
「ますます気になるじゃない」
恒一は腹を押さえた。
「俺も、たぶん大丈夫だと思う」
「恒一様も具合が悪いのですね」
「何とか乗り切った」
「乗り切ったという言い方が、もう大丈夫ではありません」
「ただ、少しトイレに行きたい」
「今すぐ行ってください」
真白が即座に言った。
「いや、まだ少し耐えられる」
「耐えなくていいです」
彩音も頷く。
「そうね。顔色が本当に悪いし、無理しない方がいいわよ」
「だが、問題はこのあとだ」
「このあと?」
「真田に、どう伝えるか」
教室の空気が少しだけ止まった。
彩音は真顔になる。
基樹も腕を組む。
真白は不安そうに恒一を見る。
「真田さんに、料理のことを伝えるのですか?」
「ああ」
「でも、傷つけたくないのですね」
「そうだ」
恒一は頷いた。
「真田は、俺の家のために一生懸命作ってくれた。だから、頭ごなしに否定はしたくない」
「はい」
「でも、このままだと、うちの家庭が崩壊する」
「家庭が崩壊」
基樹が思わず繰り返した。
「料理で家庭が崩壊するって、相当だぞ」
「相当だった」
「何を食べたんだよ」
「それもあとで話す」
彩音は、少し笑いをこらえるような顔をした。
「分かった。放課後、教室ね」
「ああ」
「真田さん本人には、まだ言わない方がいい?」
「今はまだやめておきたい」
「了解」
真白も静かに頷いた。
「私も、できることがあれば手伝います」
「助かる」
「恒一様のご家庭が崩壊してしまうのは、困りますので」
「俺も困る」
基樹が小さく息を吐いた。
「何だ、この朝の会話」
「俺にも分からない」
恒一は立ち上がろうとした。
しかし、途中で動きが止まる。
もう限界だった。
「すまない」
「どうしたの?」
彩音が聞く。
「トイレに行ってくる」
「行ってらっしゃい」
真白が本気で心配そうに言った。
「無理をなさらないでください」
「ああ」
恒一はゆっくりと教室を出ていった。
その背中は、いつもより明らかに重そうだった。
真白は心配そうに見送る。
彩音は腕を組んだまま、何かを考えている。
基樹は、そんな彩音の横顔を見て少し不安になった。
「彩音」
「何?」
「変なこと考えるなよ」
「考えてないわよ」
「本当か?」
「ただ、どういう料理だったのかは、すごく気になる」
「それを面白がってるって言うんだよ」
「心配もしてるってば」
真白は二人のやり取りを聞きながら、静かに恒一が出ていった扉を見ていた。
恒一の父と母。
恒一自身。
そして、真田巴。
誰も悪くないはずなのに、何か大変なことが起きている。
真白は、本気で心配していた。
彩音は心配しながらも、何が起きたのか気になって仕方がなかった。
基樹は、そんな彩音が放課後に何を言い出すのかを心配していた。
三人は、それぞれ違う理由で、放課後の相談を気にしていた。




