第207話 朝食の戦い
■朝比奈家・台所
朝比奈家の台所に、真田巴が立っていた。
百九十センチ近い長身。
道場育ちのまっすぐな背筋。
そして、朝六時とは思えないほど、目が冴えている。
料理をする人間というより、これから大事な試合に臨む人間の目だった。
「では、始めます」
巴はそう言って、持ってきた荷物を調理台に並べ始めた。
朝比奈恒一は、台所の入口からそれを見ていた。
父と母も、少し離れた場所から見守っている。
母は笑顔だった。
父も笑顔だった。
ただし、その笑顔は、まだ何も知らない人間の笑顔だった。
「真田さん、何か手伝うことはある?」
母が聞く。
巴はすぐに首を横に振った。
「いえ。今日は私に任せてください」
「そう? じゃあ、お願いするわね」
「はい」
巴は大きく頷いた。
そして、調理を始めた。
最初に作られたのは、卵焼きだった。
形は少し崩れている。
焼き加減も、かなり強めだった。
切り分けた断面も、きれいにはそろっていない。
だが、少なくとも卵焼きではある。
恒一は少し安心した。
父も安心したように頷いている。
「お、卵焼きか。いいじゃないか」
「はい。昨日、千瀬に教えてもらいました」
「そうなのね」
母が優しく笑う。
そこまではよかった。
問題は、その次だった。
巴は大きな鍋を取り出した。
そこに水を入れ、出汁の素を入れ、味噌を用意する。
恒一は思った。
味噌汁だ。
千瀬に教えてもらったという、普通の味噌汁だ。
しかし、そこへ巴が肉を入れ始めた。
鶏肉。
牛肉。
豚肉。
次々に入る。
量が多い。
かなり多い。
母の笑顔が、少しだけ固まった。
「真田さん?」
「はい」
「それは、何を作っているの?」
「味噌汁です」
巴は堂々と答えた。
父と母が、同時に鍋を見た。
恒一も見た。
鍋の中には、もう味噌汁というより、肉の煮込み料理に近いものができつつあった。
「……味噌汁」
父が小さくつぶやく。
「はい。日本一豪華な味噌汁を目指しました」
巴は胸を張った。
「朝比奈の父上と母上に、普通のものを出すわけにはいきませんので」
「父さんと母さんだな」
恒一が一応言う。
「そうだった。朝比奈のお父様とお母様に」
「さらに丁寧になったな」
「失礼のないようにしたい」
巴は真剣だった。
真剣すぎた。
恒一は少し不安になった。
だが、父と母には昨日言ってある。
必ず笑顔で全部食べてほしい。
父も母も約束してくれた。
だから、きっと大丈夫だ。
そう思いたかった。
次に巴が用意したのは、おひたしだった。
少なくとも、巴はそう呼んだ。
「こちらは、もやしのおひたしです」
皿に山のようなもやしが盛られている。
茹でたもやしである。
その上から、醤油がかけられている。
以上だった。
母は一瞬だけ言葉を失った。
父も言葉を失った。
恒一は皿を見る。
もやし。
山盛りのもやし。
目の前にあるのは、どう見ても大量の茹でもやしだった。
「おひたしなんだな」
「野菜だ」
巴は力強く言った。
「ほうれん草や小松菜も考えたが、私はもやしが好きだ」
「そうなのか」
「ああ。ボリュームがあって、たくさん食べられる」
「なるほど」
「朝比奈の家でも、たくさん食べてもらえると思った」
巴は誇らしげだった。
恒一は頷いた。
「たしかに、量はあるな」
父が横で少し震えた。
母の笑顔も、少しだけ薄くなっていた。
しかし、本番はまだだった。
巴は最後に、四つの巨大な容器を取り出した。
それを見た瞬間、父の顔色が変わった。
「……それは?」
「三倍GIGAMAXカップラーメンです」
巴は言った。
堂々と。
まるで秘蔵の一品を紹介するように。
「私の大好きなカップラーメンです。一人に一つずつ用意しました」
母が一度、恒一を見た。
恒一は何も言わなかった。
言えなかった。
昨日、父は言った。
女子高生の作った料理なら、残飯でも全部食べるつもりだ。
その言葉を、恒一は覚えている。
父もたぶん覚えている。
だからこそ、父の顔色が悪くなっている。
巴はさらに、四つのカップラーメンへトッピングを乗せ始めた。
肉。
さらに肉。
味噌汁用だったはずの肉。
焼いた肉。
ステーキのような肉。
何かの揚げ物。
ゆで卵。
もやし。
ポテトチップス。
たくあん。
もはや、何の料理か分からなかった。
巨大な容器の中に、巴の好きなものが詰め込まれている。
それはカップラーメンというより、四つの山だった。
「完成です」
巴は満足そうに言った。
朝比奈家の食卓に、料理が並んだ。
形の崩れた卵焼き。
山盛りのもやし。
肉だらけの豪華すぎる味噌汁。
そして、一人に一つずつ置かれた、三倍GIGAMAXカップラーメンの特製トッピング盛り。
父と母は、しばらく黙っていた。
恒一も黙っていた。
巴だけが、期待に満ちた顔をしている。
「どうぞ」
巴は言った。
「召し上がってください」
恒一は箸を持った。
父も箸を持った。
母も箸を持った。
三人は、笑顔を作った。
昨日の約束がある。
真田の料理は、必ず笑顔で全部食べる。
まずは卵焼き。
これは食べられた。
少し焦げている。
かなり固い。
だが、卵焼きである。
父も母も、笑顔で食べた。
「美味しいよ、真田さん」
父が言った。
「ええ。美味しいわ」
母も言った。
巴の表情が明るくなる。
「ありがとうございます」
次に、もやし。
量が多い。
とにかく量が多い。
醤油の味しかしない。
ただし、食べられないわけではない。
父は無言で食べた。
母も無言で食べた。
恒一も食べた。
腹の中に、朝からもやしが積もっていく。
「ご飯は要りますか?」
巴が聞いた。
三人は同時に首を横に振った。
「いらない」
「まだ大丈夫だ」
「今は、これだけで十分よ」
まだ食べ始めたばかりだった。
だが、すでに三人の中で、ご飯を入れる余裕は失われつつあった。
巴は不思議そうにしたが、すぐに頷いた。
「分かりました」
そして、自分も食べ始めた。
速かった。
ものすごく速かった。
巴は、自分の三倍GIGAMAXも、肉だらけの味噌汁も、山盛りのもやしも、まるで普通の朝食のように食べている。
恒一は思わず見入った。
「真田はすごいな」
「何がだ?」
「体もすごいが、やっぱり食べるんだな」
「朝は大事だからな」
「そうか」
「ああ」
巴は真剣に頷き、さらに食べた。
父はその横で、すでに限界に近かった。
特に、三倍GIGAMAXカップラーメンが重い。
量が多い。
トッピングも多い。
肉が重い。
味が強い。
朝六時台から食べるものではない。
父の額から、汗が流れ始めた。
普通の汗ではない。
顔色は悪く、口元もわずかに震えている。
明らかに、食べている人間の反応がおかしかった。
「お父様」
巴が父を見る。
「汗が出ていますが、大丈夫ですか?」
「あ、ああ」
父は無理に笑った。
「美味しくてな」
「そうですか」
巴は安心したように頷いた。
昨日、千瀬から、油汗は危険信号だと教えられていた。
食べている人の反応がおかしければ、料理を出すのをやめるようにも言われていた。
だが、目の前に並べられた料理は、何一つ下げられなかった。
母も、途中でそっと箸を置いた。
「ごめんなさい、真田さん」
巴がすぐに顔を上げる。
「どうしましたか」
「ちょっと、体調が」
母は笑顔を保っていた。
ただし、顔色はあまり良くない。
「大丈夫ですか」
巴は本気で心配していた。
「ええ。少し休めば大丈夫よ。とても美味しかったわ」
「本当ですか」
「本当よ」
母はそう言って、ゆっくり立ち上がった。
「少しだけ、横になるわね」
「分かりました。無理はしないでください」
「ありがとう」
母は台所から出ていった。
巴は母の背中を心配そうに見送った。
しかし、母の前に置かれた三倍GIGAMAXを下げることはなかった。
父も、そっと立ち上がろうとした。
「じゃあ、父さんも少し――」
その瞬間、恒一が父のズボンをつかんだ。
「父さん」
「恒一?」
「逃げるな」
「逃げるとは何だ」
「約束だろう」
「いや、父さんも少し体調が」
「昨日言ったよな」
「言ったが」
「女子高生が作ってくれた料理なら、残飯でも全部食べるつもりだと」
「その言葉を今出すのか」
「出す」
父の目が揺れた。
「恒一、助けてくれ」
「父さん」
「何だ」
「笑顔で全部食べてくれ」
「鬼か」
「約束だ」
「父親に対して厳しすぎないか」
「真田が頑張って作ったんだ」
父は涙目になった。
しかし、巴がこちらを見ている。
期待に満ちた目で見ている。
逃げられない。
父は椅子に座り直した。
「……いただきます」
そこからは、戦いだった。
父は食べた。
必死に食べた。
肉だらけの味噌汁を飲む。
もやしを食べる。
三倍GIGAMAXカップラーメンを食べる。
恒一も食べた。
腹が重い。
朝からパンパンだった。
それでも、食べた。
巴が嬉しそうに見ているからだ。
「おかわりはあります」
巴が言った。
父と恒一は同時に首を横に振った。
「大丈夫だ」
「十分だ」
「そうですか」
巴は少し残念そうだった。
父は危うく泣きそうになった。
やがて、食卓の上の料理はかなり減った。
全部ではない。
さすがに全部ではない。
母の分まで残っている。
しかし、父と恒一は、食べられる限界まで食べた。
母は戻ってこなかった。
戻ってこられなかったのかもしれない。
巴は満足そうだった。
「どうでしたか」
恒一は腹を押さえながら言った。
「美味しかった」
父も、涙目で言った。
「美味しかったよ、真田さん」
声が震えていた。
巴はそれを見て、ぱっと顔を輝かせた。
普段の圧のある姿からは想像できないほど、嬉しそうだった。
「本当ですか」
「ああ」
「本当だ」
父は命を削るように頷いた。
巴は破顔した。
それは、恒一が見た中でもかなり素直な笑顔だった。
「ありがとうございます」
巴は深く頭を下げた。
「今度来た時は、もっとすごいものを食べてもらえるようにします」
父の表情が止まった。
恒一の腹も止まった気がした。
「もっと、すごいもの」
「はい」
巴は力強く言った。
「朝比奈と、お父様と、お母様に、もっと喜んでもらえるように頑張ります」
「父さんと母さんだな」
「そうだった。お父さんとお母さんにも」
巴は照れたように言い直した。
父は笑おうとした。
笑顔になりきれなかった。
「楽しみにしてるよ」
父は言った。
言ってしまった。
恒一は父を見た。
父は涙目だった。
その後、巴は片づけを手伝い、学校へ行く準備をした。
母はまだ戻ってこなかった。
父は玄関まで見送りに来たが、足取りが重い。
「では、行ってきます」
恒一が言う。
「行ってらっしゃい」
父はそう言って、力なく手を振った。
巴も頭を下げる。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう」
父はそう言った。
声はかすれていた。
恒一と巴が家を出る。
玄関の扉が閉まった。
その瞬間、父はその場に倒れ込んだ。
母は居間で横になっていた。
父は、会社へ行けそうな状態ではなかった。
母がその後どうなったのか、恒一はまだ知らない。
■通学路
朝の道を、恒一と巴は並んで歩いていた。
巴は満足そうだった。
背筋もまっすぐで、足取りも軽い。
「朝比奈」
「何だ」
「今日はありがとう」
「俺の方こそ。作ってくれてありがとう」
「喜んでもらえてよかった」
「ああ」
恒一は頷いた。
腹はパンパンだった。
歩くたびに、朝食の重みを感じる。
もやし。
肉だらけの味噌汁。
三倍GIGAMAXカップラーメン。
それらが腹の中で存在を主張している。
横を見ると、巴は平然としていた。
むしろ、元気そうだった。
やはり体が違う。
食べる量も違う。
恒一はそう思った。
だが、それだけでは済まない。
父は会社を休んだ。
母は途中で逃げ出した。
自分の腹も限界に近い。
そして、巴は言った。
今度はもっとすごいものを食べてもらえるようにする、と。
このままでは、朝比奈家の朝が崩壊する。
いや、毎日のように来られたら、家庭そのものが危ない。
恒一は真剣に考えた。
真田は悪くない。
本気で朝比奈家のために作ってくれた。
だから、頭ごなしに否定するわけにはいかない。
傷つけるのも違う。
けれど、このままにしておくこともできない。
恒一は、隣を歩く巴を見た。
巴は、少し嬉しそうに前を向いている。
その横顔は、昨日より少し柔らかかった。
恒一は小さく息を吐いた。
何とかしなければならない。
否定するのではなく、自分が手を貸せる方法で。
そう思いながら、恒一は巴と一緒に学校へ向かった。




