第206話 巴の取り扱い
■朝比奈家
夕方。
夕食の最中、朝比奈恒一は、父と母に明日の朝のことを話した。
「明日の朝六時に、真田が来る」
父が箸を止めた。
母も顔を上げる。
「真田さんが?」
「ああ」
「朝から?」
「朝食を作りに来てくれるらしい」
母の顔が、ぱっと明るくなった。
「あら」
それから、楽しそうに笑う。
「恒一もすごいわね。モテモテじゃない」
「モテモテ?」
「だって、真白ちゃんだけじゃなくて、真田さんまで朝ご飯を作りに来てくれるんでしょう?」
「そうだな」
恒一は素直に頷いた。
父は隣で、にやにやしながら恒一の背中を叩いた。
「すごいじゃないか、恒一!」
「痛い」
「いやあ、父さんは嬉しいぞ。高校生の女の子が朝ご飯を作りに来てくれるなんて、なかなかないからな」
「そうなのか」
「そうだぞ。しかも真白ちゃんだけじゃなく、今度は真田さんだろう。うちの息子もなかなかやるじゃないか」
父はまた恒一の背中を叩いた。
恒一は少し体を揺らしながらも、真剣な顔で言った。
「父さん、母さん」
「何?」
「明日の朝食について、少し注意してほしいことがある」
母の表情が少し変わった。
「注意?」
「ああ」
恒一は二人を見る。
「明日は真田の料理だけど、必ず笑顔で全部食べてほしい」
父は胸を張った。
「当たり前だろう」
「大丈夫か?」
「女子高生が作ってくれた料理だぞ。父さんは、たとえ残飯でも全部食べるつもりだ」
「作る前から残飯扱いしないの」
母がすぐにたしなめた。
父は慌てて咳払いする。
「いや、言い方が悪かった。つまり、何が出てもありがたく食べるという意味だ」
「そういうことならいい」
恒一は頷いた。
母も笑う。
「大丈夫よ。真白ちゃんが作ってくれた朝食だって、残したことなんてないでしょう?」
「そうだな」
恒一は母を見た。
「真白の作ったご飯は、父さんも毎回おかわりしている」
「だって美味しいからな」
父は素直に言った。
「真白ちゃんの朝ご飯は本当にうまい。父さん、毎日でも食べられるぞ」
「そこは俺もそう思う」
恒一は一度頷いた。
それから、少しだけ言葉を選んだ。
「ただ、真田の料理は、真白とは違うと思う」
「違う?」
「たぶん、方向が違う」
「方向」
母が首を傾げる。
「料理の方向ってこと?」
「そうだと思う」
父は笑った。
「まあ、人によって味付けも違うからな。父さんは濃い味でも薄い味でもいけるぞ」
「そういう違いならいいんだけどな」
「違うのか?」
「まだ分からない」
恒一は正直に言った。
「俺も食べたことはない」
父と母は、少しだけ黙った。
恒一は続ける。
「それと、真田は明日、少し目つきが鋭くなる時があるかもしれない」
「目つき?」
「ああ」
母は「ああ」と小さく声を出した。
「真田さんって、背が高くて、姿勢のいい子よね」
「そうだ」
「たしかに、少し迫力があるかもしれないわね」
「真田は、それを少し気にしているらしい」
「そうなの?」
「ああ。この前、佐藤に聞いた」
「佐藤くんに?」
「真田は、怒っているつもりがなくても、目が鋭く見える時があるらしい。だから、明日もしそう見えても、あまり言わないでやってほしい」
父は真面目な顔で頷いた。
「つまり、そこはスルーしろってことだな」
「そうだ」
「分かった。父さん、そういうのは得意だ」
「本当に?」
「本当だ。会社でも、上司の機嫌が悪そうな時は何も見なかったことにしている」
「それとは少し違うと思う」
「でも、対応としては同じだろう」
母は少し笑った。
「大丈夫よ。真田さんが真剣に作ってくれるなら、ちゃんと笑顔でいただくわ」
「助かる」
「それで、私は手伝わなくていいの?」
「全部、真田に任せてほしいらしい」
「あら」
母は少し驚いた顔をしたあと、すぐに嬉しそうに笑った。
「それは助かるわね。じゃあ、私たちはできるのを待っていればいいの?」
「そうなる」
「分かったわ」
父も頷いた。
「父さんも待ってるだけでいいんだな」
「ああ」
「それは楽しみだな」
「楽しみね」
父と母は、すっかり明日の朝を楽しみにしている顔だった。
恒一はそれを見て、少しだけ安心した。
父も母も、真田の料理を受け入れる気でいる。
真田も、朝比奈家のために料理の特訓をしてくれた。
なら、きっと大丈夫だ。
そう思いたい。
けれど、佐藤が胃を押さえていた顔が、少しだけ頭に残っていた。
■朝比奈家・玄関
翌朝。
家の中には、まだ早朝の静けさが残っていた。
その静けさの中で、玄関のチャイムが鳴った。
母が最初に反応した。
「……もう来たの?」
寝ぼけた声でそう言いながら、玄関へ向かう。
恒一も部屋から顔を出した。
時計を見る。
朝六時だった。
約束どおりの時間だ。
恒一は階段を下りた。
母が玄関の扉を開ける。
その瞬間、玄関先にまっすぐ立っていた真田巴が、大きな声で頭を下げた。
「おはようございます! 本日はよろしくお願いします!」
母がびくっと肩を揺らした。
家の中に、巴の声がよく響く。
寝ていた父も、その声で起きてきた。
「何だ、何だ……?」
父は半分眠そうな顔のまま玄関へ来る。
そこで巴を見て、ようやく目を開いた。
「ああ、真田さんか。おはよう」
「おはようございます。朝早くから失礼します」
「いや、こちらこそ。よろしくお願いします」
父はまだ眠そうだったが、きちんと頭を下げた。
巴はまっすぐ立っている。
百九十センチ近い長身に、道場育ちの背筋。
朝の玄関に立つだけで、妙に空気が引き締まる。
母は少し目を丸くしていたが、すぐに笑顔を作った。
「真田さん、来てくれてありがとう。こんなに早くから大変だったでしょう」
「いえ。朝食を作るなら、このくらいから準備した方がいいと思いました」
「しっかりしてるのね」
「この日のために、特訓してきました」
巴は真剣だった。
真剣すぎるほど真剣だった。
恒一はその顔を見て、ほんの少しだけ胸の奥がざわついた。
昨日、佐藤が胃を押さえていた。
千瀬に教えてもらったと言っていた。
得意料理があるとも言っていた。
そして、今の巴の目は、料理人というより試合前の武人に近い。
大丈夫だろうか。
少しだけ、そう思った。
だが、恒一はすぐにその考えを打ち消した。
真田は、朝比奈家のために特訓してきてくれた。
それなら、信じるべきだ。
「真田」
「何だ、朝比奈」
「ありがとう。こんなに早くから」
「気にするな。任せてくれ」
「ああ」
恒一は頷いた。
「台所はこっちだ」
「分かった」
巴は大きな荷物を持って、玄関へ上がった。
その荷物を見て、母が少し首を傾げる。
「けっこう持ってきたのね」
「はい。必要なものをそろえてきました」
「そうなの」
母は笑顔のままだった。
ただし、少しだけ目が荷物の大きさを確認していた。
父もその袋を見て、寝ぼけた顔のまま言った。
「朝食にしては、なかなか本格的だな」
「本格的にするつもりです」
「おお」
父は感心したように頷いた。
巴は台所の前で足を止める。
そして、朝比奈家の父と母に向かって、もう一度深く頭を下げた。
「本日は、朝食を任せてください」
父と母は笑顔で頷いた。
「よろしくね、真田さん」
「楽しみにしてるよ」
「はい」
巴は力強く答えた。
その背筋はまっすぐで、声もよく通っている。
朝食を作りに来たというより、これから大事な戦に向かうようだった。
恒一は、台所へ入っていく巴の後ろ姿を見送った。
そして、心の中でそっとつぶやいた。
頼む。
うまくいってくれ。




