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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第205話 明日の朝食は任せてくれ

■陸上部部室


 放課後。


 陸上部の練習が終わり、部室にはまだ何人かの部員が残っていた。


 着替えを終えた朝比奈恒一は、荷物をまとめながら明日の予定を確認していた。


 その横では、佐藤忠一が練習メニューの用紙を見ながら、眉間にしわを寄せている。


「朝比奈、明日の朝練だけどな」


「ああ」


「短距離組は少しメニューを軽くしてもいいと思う。最近、疲労が残ってるやつがいる」


「そうだな。真田にも確認しておく」


「いや、今いるだろ」


 佐藤が視線を向けた先に、真田巴が立っていた。


 百九十センチ近い長身に、まっすぐな背筋。


 練習後でも姿勢が崩れず、ただ部室の中にいるだけで妙な存在感がある。


 巴は、いつもより少しだけ気合の入った顔をしていた。


 恒一はそれに気づき、首を傾げる。


「真田、どうしたんだ?」


「朝比奈」


「ああ」


「明日の朝、少し時間はあるか」


「明日の朝?」


「朝比奈の家に行きたい」


 佐藤の手から、用紙が一枚落ちた。


「……は?」


 佐藤が声を漏らす。


 恒一は普通に頷いた。


「家か。用事があるのか?」


「ああ」


 巴はまっすぐ恒一を見た。


 その目は真剣だった。


「朝食を作りたい」


「朝食?」


「ああ」


 恒一は少し驚いた顔をした。


「真田が?」


「私が」


「俺の家で?」


「ああ」


 佐藤の顔色が、少し変わった。


 胃のあたりを押さえる。


「……待て、真田」


「何だ」


「お前、料理なんかできるのか」


 瞬間、巴の視線が佐藤に向いた。


 睨んだわけではない。


 ただ見ただけである。


 だが、佐藤は一歩引いた。


「いや、聞いただけだ。聞いただけだからな」


「できる」


「本当にか?」


「昨日、千瀬に教えてもらった」


「前田妹に?」


「ああ」


「……それで大丈夫なのか?」


 佐藤の胃が、さらに痛んだ。


 前田千瀬が料理部であることは知っている。


 だから、教えた側は問題ない。


 問題は、教わった側である。


 巴は真剣だった。


 真剣な時ほど、だいたい何かがおかしい。


「前に、お前、カップラーメンがどうとか言ってなかったか?」


「今は違う」


「違うのか」


「事前にいろいろ教えてもらった。だから大丈夫だ」


 巴は胸を張った。


「真白ほどではないかもしれないが、私にも得意料理はある」


 恒一の表情が明るくなった。


「そうなのか」


「ああ」


「それはすごいな」


 佐藤は横から恒一を見た。


「朝比奈」


「何だ」


「今のところ、すごい要素はまだ出てないぞ」


「真田が料理を練習したんだ。すごいだろ」


「そこは否定しないが」


 佐藤はもう一度、巴を見る。


「得意料理って何だ」


 巴の視線が、また佐藤を射抜いた。


「なぜ疑う」


「疑ってるというか、確認してるだけだ」


「確認か」


「ああ。朝比奈の家で作るんだろ。朝比奈の父親と母親も食べるんだろ」


「そうだ」


「なら、確認は大事だ」


 巴は少し考えた。


 それから、堂々と言った。


「味噌汁だ」


「味噌汁」


「卵料理も作れる」


「卵料理」


「それに、私の好きなものも出す」


「好きなもの」


 佐藤の声が、少しずつ弱くなる。


 胃の痛みが、形になってきた気がした。


「……具体的には?」


「それは当日のお楽しみだ」


「今言え」


「なぜだ」


「俺の胃のためだ」


「佐藤の胃は関係ない」


「関係ある。今すごく関係している」


 巴は不思議そうに眉を寄せた。


「食べるのは朝比奈と朝比奈の父母だ」


「だから胃が痛いんだよ」


「なぜだ」


「分からないならいい」


 佐藤は諦めたように息を吐いた。


 恒一は、そんな二人のやり取りを見ながら、嬉しそうに笑った。


「でも、ありがたいな」


「朝比奈?」


「真田が、俺の家のために練習してくれたんだろ」


「ああ」


「それなら、俺も両親に言っておく。父さんも母さんも、きっと喜ぶ」


 巴の顔が、少しだけ明るくなった。


 部室の空気が変わる。


 さっきまで試合前のようだった目が、ほんのわずかに柔らかくなる。


「そうか」


「ああ。楽しみにしてる」


「任せてくれ」


 巴は力強く頷いた。


 その背筋は、やはりまっすぐだった。


 恒一は本当に嬉しそうだった。


 佐藤は本当に胃が痛そうだった。


「朝比奈」


「何だ?」


「一応、念のためだ」


「ああ」


「明日の朝、胃薬を用意しておけ」


「なぜだ?」


「念のためだ」


「分かった。父さんにも言っておく」


「いや、そこは料理の件だけ言え」


 佐藤が低く言う。


 巴がまた佐藤を見る。


 佐藤はすぐに目をそらした。


「……俺は何も言ってない」


「言っていただろう」


「言ってない」


「聞こえた」


「聞こえてないことにしてくれ」


 恒一は首を傾げた。


「佐藤は心配性だな」


「心配にもなるだろ」


「真田がせっかく作ってくれるんだ。大丈夫だ」


「お前のそういうところが、たまに怖い」


「怖いのか?」


「ああ」


 佐藤は胃を押さえたまま言った。


「真田も怖いが、お前の信頼も怖い」


「よく分からないな」


「分からなくていい」


 巴は荷物を持ち直した。


 どこか満足した顔だった。


「朝比奈」


「ああ」


「では、明日の朝六時に行く」


「六時だな。分かった。待ってる」


「父上と母上にも、よろしく伝えてくれ」


「父さんと母さんだな」


「そうだ」


「分かった」


 巴は頷き、部室を出ていった。


 その足取りは力強い。


 料理を作りに行く人間というより、重要な遠征に向かう前の武人のようだった。


 扉が閉まる。


 部室に少しだけ沈黙が落ちた。


 佐藤は、落ちた用紙を拾いながら言った。


「朝比奈」


「何だ?」


「明日の朝、何かあったら連絡しろ」


「何かって何だ?」


「分からない。分からないから怖い」


「大げさだな」


「大げさで済めばいいんだがな」


 佐藤は深く息を吐いた。


 胃は、まだ痛かった。


■通学路


 部活が終わったあと。


 巴は前田千夜、前田千瀬と一緒に帰っていた。


 夕方の道を、三人で歩く。


「それで、巴」


「何だ」


「明日の朝、朝比奈くんの家に行くって本当?」


「ああ。朝の六時に行く」


「ずいぶん早いね」


「朝食を作るのだから、それくらいでいいだろう」


「まあ、そうだけど」


 千夜は隣を歩く千瀬を見た。


「千瀬が料理を教えたんだよね?」


「はい」


「大丈夫なの?」


 千瀬はすぐには答えなかった。


「大丈夫だ」


 代わりに巴が答える。


「味噌汁には安心感が大事だと教わった」


「それなら、普通の味噌汁を作るんだよね?」


「ああ。そのつもりだ」


 千夜は少し安心したように頷いた。


 そこで、千瀬が思い出したように尋ねる。


「巴姉。朝比奈先輩のご両親が好きなものは、もう聞きましたか?」


 巴の足が止まった。


 千夜と千瀬も足を止める。


「……聞いていない」


「忘れていたんですか?」


「ああ」


「今夜でも間に合います。好きなものと、苦手なものを聞いておいてください」


 巴は少し考えた。


 だが、すぐに首を横に振る。


「いや、聞かなくても大丈夫だ」


「どうしてですか?」


「私が好きなものを作るからだ」


「……はい?」


「私が美味しいと思うものなら、朝比奈の父と母もきっと好きなはずだ」


 巴は迷いなく言い切った。


「絶対に大丈夫だ」


 千瀬は、嫌な予感がした。


 昨日よりも、ずっと強い予感だった。


「それで、明日は何を作るつもりなの?」


 千夜が尋ねる。


「味噌汁と卵焼きだ」


「それだけ?」


「あとは三倍GIGAMAXカップラーメンだ」


「何個持っていくの?」


「四つだ」


「一人一つ?」


「ああ」


 千夜は空を見上げた。


 夕方の空は、妙にきれいだった。


 千瀬は少し泣きたくなった。


 卵料理は一つに絞るように言った。


 味噌汁には、豪華さより安心感が大切だと教えた。


 三倍GIGAMAXも、一人に一つではなく、三人で一つを分けるように勧めた。


 朝比奈先輩のご両親が好きなものと、苦手なものも聞いておくように言った。


 けれど、今の巴の話を聞いていると、ほとんど何も守られていないような気がしてきた。


 昨日の自分の努力は、いったい何だったのだろう。


「巴姉」


 千瀬が遠慮がちに声をかける。


「何だ?」


「朝食なら、野菜のおかずも一品あった方がいいと思います」


「野菜か」


「はい。簡単なものなら、おひたしはどうでしょう。ほうれん草や小松菜を茹でて、水気を切り、醤油や出汁で味をつけます」


「なるほど」


 巴は少し考えた。


「もやしのおひたしでは駄目か?」


「もやし、ですか?」


「ああ。安くて量も多い。食べ応えもある」


 千瀬は何も言えなくなった。


 もやしも野菜である。


 おひたしにできないわけでもない。


 巴の提案は、珍しく料理として間違ってはいなかった。


「……作れます」


「なら、もやしにする」


「はい……」


「作り方を教えてくれ」


「もやしをさっと茹でて、水気をしっかり切ってください。そのあと、醤油と出汁で薄めに味をつければ大丈夫です」


「さっととは、どのくらいだ?」


「火は通しますが、柔らかくなりすぎない程度です。茹ですぎると食感がなくなります」


「分かった。茹でて、水気を切って、味をつける」


「はい。味を濃くしすぎないでくださいね」


「分かった。簡単だな」


 千瀬は、また少し不安になった。


 巴が「簡単だ」と言い切った時ほど、何かが起こりそうな気がした。


「巴」


 千夜が尋ねる。


「三倍GIGAMAX、本当に一人一つ出すの?」


「ああ」


「朝食だよ?」


「朝だからこそ、しっかり食べるべきだ」


「そういう量じゃないと思うけど」


「私は食べられる」


「巴を基準にしないで」


「朝比奈の父と母も、きっと食べられる」


「どうして言い切れるの?」


「私が好きだからだ!」


 巴は胸を張った。


 まっすぐで、堂々としていて、少し照れくさそうですらあった。


「美味しいものを、朝比奈の父と母にも食べてもらいたい」


 千夜は黙った。


 千瀬も黙った。


 その気持ちは悪くない。


 むしろ、かなり素直だった。


 問題は、選んだものが三倍GIGAMAXカップラーメンであることだけだ。


「まあ、朝比奈くんは喜んでたんだよね?」


「ああ」


 巴の表情が明るくなる。


「楽しみにしていると言ってくれた」


「そっか」


「父上と母上にも伝えてくれるそうだ」


「父上と母上じゃなくて、朝比奈くんのお父さんとお母さんね」


「そうだった」


 巴は少し照れたように目をそらした。


 千夜はその顔を見て、強くは言えなくなった。


 巴がここまで真剣なのは、朝比奈恒一が関わっているからだ。


 だったら、千夜にできるのは、完全に止めることではない。


 被害を小さくすることだった。


「巴姉」


 千瀬が少しだけ顔を引き締める。


「明日の朝、もし味がおかしいと思ったら、無理に出さないでください」


「おかしければ出さない」


「本当ですか?」


「ああ」


「食べた人が油汗を流していたら、美味しいという意味ではありませんからね」


「違うのか?」


「それは、かなり危険な状態です」


「そうなのか」


「はい」


 巴は真剣に頷いた。


「油汗は危険信号だな」


「はい。かなり強い危険信号です」


「覚えた」


 千瀬は少しだけ安心した。


 少なくとも、そこだけは伝わった。


「では、明日は気をつける」


「はい」


「味噌汁は普通にする」


「はい」


「卵焼きを作る」


「はい」


「もやしはおひたしにする」


「はい」


「三倍GIGAMAXは一人一つだ」


「そこは変わらないんですね……」


「譲れない」


 巴は力強く頷いた。


 その背筋は、夕方の道でもまっすぐだった。


 料理の話をしているのに、どうしても試合前の女武者に見えてしまう。


 千瀬は、その背中を見ながら、歩いたままそっと両手を合わせた。


 朝比奈先輩。


 朝比奈先輩のお父さん、お母さん。


 先に謝っておきます。


 卵料理を一つにするようには言いました。


 普通の味噌汁も教えました。


 三倍GIGAMAXを分けるようにも言いました。


 好きなものと苦手なものを聞くようにも言いました。


 おひたしの作り方も、今きちんと説明しました。


 止めようとはしました。


 本当に、すみません。


 千瀬は合掌したまま、心の中で謝っておいた。


 明日の朝食は、始まる前からかなり心配だった。

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