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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第203話 母が良くなるまでは

■縁の間


 どこまでも白い空間だった。


 床があるようで、ないようで。


 空があるようで、ないようで。


 ただ、静けさだけが広がっている。


 その中に、北条真白は立っていた。


 目の前にいるのは、白髪に白ひげの老人。


 恋愛の神様だった。


 真白は静かに頭を下げる。


「お久しぶりです、神様」


「うむ。来たか」


「今日は、少しご報告があります」


「母親のことか」


「はい」


 真白は胸元に手を添えた。


「母の病状が、さらに良くなりました」


 母の具合は、もともとかなり悪かった。


 だが、真白が恒一へ近づいてから、少しずつ良くなり始めた。


 それでも病状には波があり、まだ安心できる状態ではなかった。


 けれど今回は、そこからさらに良くなっていた。


 起きていられる時間が増え、顔色も以前より明るい。


 何より、良い状態が何日も続いている。


「以前、恒一様に近づいてから、母の具合は良くなりました」


「うむ」


「ですが、今回はそこからさらに良くなっています。病状も少しずつ安定してきました」


「そうか」


「はい」


 真白がずっと待ち望んでいた変化だった。


「これは、やはり恒一様のお力なのでしょうか」


 神様は白いひげを撫でながら、少し考えた。


「恒一の心がお前さんへ近づいたことで、宿罪の働きが弱まった可能性はある」


「では」


「じゃが、全てが恒一のおかげとは限らぬ」


 真白は神様を見つめた。


「医者の治療も、薬もある。母親自身が病に耐えてきたこともある」


「……はい」


「それに、お前さんも懸命に看護を続けてきたのであろう」


「私の看護も、ですか」


「当然じゃ」


 神様は少し呆れたように答えた。


「薬の時間を確かめ、食事を整え、そばで支えてきた。それをなかったことにするでない」


「ですが、私は医者ではありません」


「医者でなければ、病人の助けになれぬわけではあるまい」


 真白は目を伏せた。


 恒一の力が関わっているのかもしれない。


 だが、それだけではない。


 治療も、母自身の力も、自分が続けてきた看護もある。


「誰の力が、どこまで働いたのかは分からぬ」


「神様にも、分からないのですか」


「分からぬ」


 神様はあっさりと答えた。


「何もかもを、きれいに切り分けられるものではない」


「そうなのですね」


「何やら不満そうじゃな」


「もう少し何でも分かるものだと思っておりました」


「神を便利な道具のように言うでない」


「申し訳ありません」


 真白がわずかに口元を緩めると、神様は小さく息を吐いた。


「とにかく、全てが恒一のおかげだと思うでないぞ」


「はい」


「恒一の力が助けになった可能性はある。じゃが、お前さんが母親のためにしてきたことにも意味はある」


「……はい」


「母親が良くなっているのなら、今は素直に喜べばよい」


 真白は静かに頷いた。


「分かりました」


「それと、真白」


「はい」


 神様の表情が少しだけ真剣なものへ変わった。


「恒一には、本当のことを話した方がよい」


 真白の指先が止まった。


「本当のこと、とは」


「なぜ、お前さんがあれほど急に恒一へ近づいたのかじゃ」


「……」


「婚約者だと名乗り、妻になると言い、ほとんど会ったばかりの男へ一気に距離を詰めた。その理由を、恒一はまだ知らぬ」


 真白は目を伏せた。


 いつかは話さなければならない。


 それは分かっていた。


「私は、女性から積極的に近づかれて、嫌がる男性はあまりいないと思っていました」


「うむ」


「ですから、できるだけ早く距離を縮めればよいと思ったのです」


「恒一の心を、お前さんへ向けるためにか」


「……はい」


 真白は小さく頷いた。


「恒一様の心が私へ向けば、宿罪の働きが弱くなる。そうすれば、母の病気も良くなるかもしれないと思いました」


「実家の状況もか」


「はい」


 恒一がどのような人間なのか、まだほとんど知らなかった。


 それでも真白は婚約者だと名乗り、妻になるつもりだと言った。


 恒一の気持ちを確かめるより先に、自分へ心を向けてもらおうとした。


 母を助けたかった。


 実家も立て直したかった。


 そのためなら、多少強引に近づいても構わないと思っていた。


「打算があったのじゃな」


「はい」


 真白は否定しなかった。


「恒一様ご自身のことを知るより先に、恒一様のお力を必要としていました」


「そのことを話して、嫌われるのが怖いか」


 真白は静かに首を横に振った。


「私が嫌われるだけなら、受け入れます」


「では、何が怖い」


 真白は胸元の服を握った。


「恒一様の心が私から離れたことで、母の病状がまた悪くなることです」


 その声が、わずかに震えた。


「私は、それが一番怖いのです」


 神様は黙って真白を見つめた。


「恒一様の心が私へ近づいたことで、宿罪の働きが弱まった可能性があるのでしょう?」


「うむ」


「でしたら、本当のことを話して嫌われれば、その力も弱くなるかもしれません」


「可能性はある」


「母が、また苦しむかもしれない」


「それも、ないとは言えぬ」


 真白の表情が強張った。


「やはり、神様にも分からないのですね」


「分からぬ」


「恒一様の心が離れれば、必ず母の病状が悪くなるとも言えない」


「うむ」


「ですが、何の影響もないとも言い切れない」


「そうじゃ」


 もし恒一の力が母の病状と何の関係もないのなら、真白は本当のことを話せる。


 嫌われても、自分が受け入れればよい。


 だが、母の病状が悪化する可能性が少しでもあるのなら、簡単には決められなかった。


「神様」


「なんじゃ」


「せめて、母の病状がもう少し良くなるまで待たせていただけませんか」


 神様は真白を見つめた。


「恒一様のお力がなくても大丈夫だと思えるくらいまで、母の状態が安定してから、本当のことをお話ししたいのです」


「……」


「それでは、いけませんか」


 神様はすぐには答えなかった。


 本当のことは、早く話した方がよい。


 隠したまま近づき続ければ、それだけ恒一を欺くことになる。


 だが、真白が恐れているのは、自分が嫌われることではなかった。


 そして神様にも、恒一の心が離れた時、母親の病状へ何の影響も出ないとは言い切れない。


「……難しいところじゃのう」


 神様は困ったように白いひげを撫でた。


「本当のことは、早く話した方がよい。それは変わらぬ」


「はい」


「じゃが、母親の病状がまだ安定しきっておらぬのなら、もう少し待つ方がよいのかもしれん」


 真白が顔を上げる。


「では」


「待ってよいとは言い切れぬ」


「……」


「じゃが、今すぐ話せと強く言うこともできぬ。わしにも、何が起こるか分からぬからのう」


「神様も、母が良くなってからの方がよいと思われますか」


「その方がよいのかもしれん、とは思う」


 神様は正直に答えた。


 真白は胸元を握っていた手を、少しだけ緩めた。


「ありがとうございます」


「礼を言うでない。わしの判断が正しいかどうかも分からぬ」


「……はい」


「それに、真白」


「はい」


「母親が良くなるまで、という言葉を、いつまでも話さないための理由にするでないぞ」


 真白は深く頭を下げた。


「分かっております」


「本当に病状が安定した時には、話すのじゃな」


 恒一が全てを知った時、どのような顔をするのか。


 怒るかもしれない。


 傷つくかもしれない。


 真白から離れていくかもしれない。


 それでも、母が十分に良くなったのなら、全てを受け入れなければならない。


「はい」


 真白はもう一度、深く頭を下げた。


「母の病状が安定したら、必ずお話しします」


「必ず、か」


「はい」


 神様はしばらく真白を見つめたあと、静かに頷いた。


「では、今はそれを信じよう」


「ありがとうございます」


「じゃが、忘れるでないぞ」


「何をでしょうか」


「恒一は、お前さんの母親を救うためだけに生きておるわけではない」


「……はい」


「お前さんの宿罪を薄めるためだけでもない。一人の人間じゃ」


「分かっています」


「ならば、力ではなく、恒一自身を見ることじゃ」


 真白は静かに頭を下げた。


「はい」


 白い空間が、ゆっくりと揺れ始めた。


 目覚めの時が近づいている。


「神様」


「なんじゃ」


「次にお会いする時には、今より少しましな私でいたいです」


「では、少しだけ期待しておこう」


「あまり期待しないでください」


「どちらなのじゃ」


 真白はほんの少しだけ口元を緩めた。


「ありがとうございました」


「うむ」


 神様の姿が遠ざかり、白い景色が薄くなっていった。


■北条家・真白の部屋


 真白は、自室のベッドで静かに目を開けた。


 カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。


 母は、恒一へ近づいてから良くなった。


 そして今回は、そこからさらに回復し、病状も安定し始めている。


 恒一の力が関わっているのかもしれない。


 けれど、治療も、母自身の力も、自分の看護もある。


 全てを恒一のおかげだと思ってはいけない。


 それでも、恒一の力が何も関係していないとも言い切れなかった。


 だから今は、まだ本当のことを話せない。


 母の病状が十分に安定したら。


 その時には、なぜ恒一へ急いで近づいたのか、全てを話す。


 嫌われても。


 そばにいることを拒まれても。


 それは自分が受け止める。


「……必ず」


 真白は小さく呟き、ベッドから立ち上がった。


 まずは母の様子を見に行く。


 薬の時間を確かめ、食事を整え、自分にできることを続ける。


 そして母が本当に良くなった時には。


 今度こそ、逃げずに本当のことを話すために。

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