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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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202/230

第200話 知らないのは本人だけ

■朝比奈家・玄関


 翌朝。


 朝比奈恒一が家を出ようとすると、玄関の外に北条真白が立っていた。


 白い肌に、きちんと整えられた黒髪。


 小柄な体で静かに立っているだけなのに、朝の光の中で、そこだけ空気が少し澄んで見える。


 真白は恒一に気づくと、丁寧に頭を下げた。


「おはようございます、恒一様」


「おはよう、真白」


「今日は、ご一緒してもよろしいでしょうか?」


「ああ。もちろん」


 恒一がそう答えるより早く、家の中から父の声がした。


「真白ちゃんが迎えに来てくれたのか」


 父は、はっきりと嬉しそうだった。


 玄関まで出てきて、真白を見るなり顔を明るくする。


「朝からいい日だな」


「おはようございます」


 真白は丁寧に頭を下げた。


「朝早くから失礼いたします」


「失礼なんてとんでもない。むしろ毎日来てくれてもいいくらいだ」


「あなた」


 母が奥から静かに止めた。


 父は少しだけ咳払いをする。


「いや、もちろん、真白ちゃんの都合がよければ、という意味だ」


「はい」


 真白は小さく微笑んだ。


 恒一は靴を履きながら、そのやり取りを見ていた。


 父は明らかに喜んでいる。


 母も、何か言いたそうな顔をしていた。


 けれど、二人ともそれ以上は口にしない。


 恒一も、特に何も聞かなかった。


 真白が家まで迎えに来るのは珍しい。


 けれど、一緒に学校へ行くこと自体はおかしくない。


「行ってくる」


「ああ。気をつけてな」


「行ってらっしゃい」


 恒一と真白は、朝比奈家を出た。


■通学路


 朝の通学路を、恒一と真白は並んで歩いていた。


 真白はいつも通り、少しだけ恒一の横を歩く。


 歩幅は小さい。


 けれど、遅れることはない。


 制服の裾も、黒髪の流れも乱れない。


 その静かな所作は、朝のざわめきの中でもよく目立った。


「真白」


「はい」


「今日はどうしたんだ?」


「どうした、とは?」


「家まで来るのは珍しいと思って」


 真白は少しだけ視線を落とした。


「昨日、恒一様が大切なお話をされると聞きましたので」


「ああ」


「少し、気になりました」


「気にすることか」


「はい」


 真白は静かに頷いた。


「大切なお話ですから」


「そうか」


「はい」


 恒一はそれ以上、特に疑問を持たなかった。


 昨日の帰り道、真白には相談した。


 お願いをするなら、直接会った方がいい。


 他の人に聞かれない方がよい話なら、二人だけで話すべき。


 それは真白が教えてくれたことだ。


 だから、真白が少し気にするのも自然だと思った。


「助かった。昨日の助言は役に立った」


「そうですか」


「ああ。真田にも、ちゃんと直接話すことになった」


 真白の足が、ほんの少しだけ遅れた。


 白い頬に、かすかに赤みが差す。


「真田さんと、直接」


「ああ」


「二人だけで、ですか」


「そうだ」


「……そうですか」


 真白は小さく答えた。


 その声は穏やかだった。


 けれど、何かを考えているようでもあった。


「真白?」


「いえ」


 真白はすぐに顔を上げる。


「恒一様が、ちゃんとお話しできるなら、それが一番だと思います」


「そうか」


「はい」


 恒一は頷いた。


 そのまま二人は、学校へ向かった。


■二年A組


 教室に入ると、彩音がすぐにこちらを見た。


 自分の席に座っていたが、恒一と真白が入ってきた瞬間、少しだけ目を細める。


「おはよう、恒一。真白ちゃんも」


「おはよう」


「おはようございます、一ノ瀬さん」


 真白が丁寧に頭を下げる。


 彩音は二人を見比べた。


「今日は一緒に来たんだ」


「ああ。真白が家まで来てくれた」


「へえ」


 彩音の顔が、少し面白そうになった。


 恒一は自分の席へ鞄を置く。


 その横で、彩音が身を乗り出してきた。


「それで、恒一」


「何だ」


「今日の昼、何か大切な話をするんだって?」


 恒一は彩音を見る。


「知っているのか?」


「まあ、ちょっとね」


 彩音はちらりと真白を見る。


 真白は、少しだけ視線を逸らした。


「聞き耳を立てるのは、失礼だと思います」


「北条さん?」


「ですが、少し気になるのも事実です」


「正直」


 彩音は苦笑した。


 真白は頬を赤くしながら、きちんと姿勢を正している。


 興味はある。


 けれど、踏み込むのは失礼だと思っている。


 その葛藤が、顔に出ていた。


 彩音はその様子を見て、少しだけ笑う。


「で、恒一。どんな話をするの?」


「真田にしか話せない」


 恒一は即答した。


 彩音の表情が一瞬で止まった。


「……へえ」


「どうした」


「いや、なかなか強い返事だなと思って」


「そうか」


「そうよ」


 彩音は真白を見る。


 真白も赤い顔で、けれど黙っている。


「二人だけで話すんだっけ?」


「ああ」


「場所は?」


「部室裏」


「昼休み?」


「そうだ」


「他の人には聞かれないように?」


「ああ」


 彩音は口元に手を当てた。


 笑いそうになっているのか、困っているのか、判断がつきにくい顔だった。


「恒一」


「何だ?」


「それ、全部言うんだ」


「隠すことか」


「隠すというか、言い方というか」


「真田にしか話せない内容だから、内容は言えない」


「そこは言えないんだ」


「ああ」


「なのに、いつ、どこで話すかは全部言うのね」


 彩音が呆れたように言う。


「そこは隠す必要がないだろ」


「お前、もう少し人を疑った方がいいぞ」


 近くで話を聞いていた基樹が口を挟んだ。


「どうしてだ?」


「二人だけで話す場所と時間を、聞かれたまま全部教えるなってことだよ」


「話の内容は教えていない」


「内容だけ隠せばいいって話じゃないだろ」


「そうなのか?」


「そうなのよ」


 彩音が頷いた。


 恒一は首を傾げた。


 基樹はそんな恒一を見て、深くため息をつく。


「こいつ、本当に大丈夫か」


「たぶん大丈夫じゃないね」


「何がだ?」


「それが分からないところだよ」


 恒一は首を傾げた。


 真白はその横で、口元に手を添えている。


 小柄な体を少しだけ縮めるようにしているが、黒い瞳はどこか心配そうだった。


「北条さん」


 彩音が声をかける。


「はい」


「これ、大丈夫だと思う?」


「……分かりません」


 真白は正直に答えた。


「ですが、恒一様は真剣です」


「それはそうなんだけど」


「はい」


「真剣だから余計に怖い時ってあるのよ」


「少し、分かります」


「分かるんだ」


 彩音は思わず笑った。


 恒一は二人を見る。


「何の話だ?」


「恒一の話」


「俺の?」


「そう」


「俺は、真田と大切な話をするだけだ」


「そうね」


 彩音は頷いた。


「その言い方が全部をややこしくしてるのよ」


「そうなのか」


「そうなの」


 恒一は考えた。


 佐藤から頼まれたのは、大切な話だ。


 真田にしか確認できない。


 周りに聞かれない方がいい。


 真白の助言通り、直接会って話す。


 どこもおかしくない。


 だから、恒一には彩音の言う意味がよく分からなかった。


 彩音はそんな恒一を見て、少しだけため息をつく。


「まあ、昼休みになれば分かるか」


「そうだな」


「いや、恒一はたぶん分からないままだと思うけど」


「何がだ?」


「分からなくていい」


「またか」


「またよ」


 彩音はそう言って、自分の席へ戻った。


 真白はまだ少しだけ心配そうだったが、それ以上は聞かなかった。


■二年B組


 一方その頃。


 二年B組では、真田巴がいつもより明らかに機嫌よく席についていた。


 背筋はまっすぐ。


 長い手足も、いつものように整っている。


 けれど、表情が違う。


 普段の巴は、どちらかと言えば落ち着いている。


 強く、まっすぐで、簡単には崩れない。


 それなのに今日は、ふとした瞬間に口元が緩む。


 窓の外を見る顔が、どこか柔らかい。


 机の上の教科書を開いているのに、視線が文字を追っていない。


「巴様、今日なんか機嫌よくない?」


 近くの女子が小声で言った。


「分かる。朝からずっとそんな感じ」


「何かいいことあったのかな」


「聞いてみる?」


「いや、聞きにくい」


 巴は、周囲の声に気づいていないわけではなかった。


 けれど、何も言わない。


 言ったら、顔に出る気がした。


 もう十分出ているのだが、本人はそこまで気づいていない。


 昼休み。


 部室裏。


 二人だけの大切な話。


 朝比奈の声を思い出すたびに、胸の奥が勝手に熱くなる。


 前に朝比奈から告白された時、自分は断った。


 あの時は、そうするしかないと思っていた。


 けれど、今は違う。


 今の自分は、あの時の自分とは違う。


 朝比奈の名前を聞くだけで、胸が騒ぐ。


 朝比奈に「真田だけだ」と言われただけで、昨日の夜から何度もその言葉を思い出してしまう。


「……落ち着け」


 巴は小さくつぶやいた。


 だが、落ち着けと言われて落ち着けるなら、苦労はしない。


 隣の席の生徒が、さらに小声で言った。


「やっぱり機嫌いいよね」


「うん。すごくいい」


「巴様があんな顔するの、珍しい」


 巴は聞こえていないふりをした。


 けれど、耳は少し赤くなっていた。


■二年A組


 午前の授業が進んでいく。


 恒一は、いつも通り授業を受けていた。


 ただ、昼休みに真田へメニュー表を見せることだけは忘れないように、鞄の中を何度か確認した。


 佐藤から預かった、新しいメニュー表。


 短距離、中距離、基礎体力、補強。


 一年のフォーム修正。


 内容はしっかりしている。


 真田が見れば、きっと必要なところに気づいてくれる。


 恒一はそう考えていた。


 その横で、彩音は時々恒一を見ていた。


 真白も、時々恒一を見ていた。


 彩音は面白がっているようで、少し心配もしている。


 真白は心配そうで、でも踏み込まないようにしている。


 恒一だけが、その空気に気づいていなかった。


 やがて、午前最後の授業が終わる。


 チャイムが鳴った。


 教室が一気に昼休みの空気に変わる。


 恒一は鞄から、佐藤に預かったメニュー表を取り出した。


 折れたり汚れたりしていないことを確認する。


「さて」


 恒一は席を立った。


「行ってくる」


 彩音が顔を上げる。


「……行ってらっしゃい」


「お気をつけてください」


 真白も静かに言った。


 恒一は軽く頷き、メニュー表を持って教室を出た。


 昼休み。


 部室裏。


 二人だけの大切な話。


 恒一は、ただ新しい練習メニューを真田に見てもらうつもりだった。


 それだけだった。


 だが、今日の昼休みがただの確認で終わらないことを、教室に残った二人は何となく察していた。

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