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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第199話 二人だけの大切な話

■真田家・巴の部屋


 真田巴は、しばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。


 部屋の中は静かだった。


 けれど、巴の心臓だけがうるさい。


 大切な話。


 二人だけで。


 他の人に聞かれない場所で。


 昼休み。


 部室裏。


 朝比奈は、冗談ではないと言った。


 俺は準備している、とも言った。


 真田じゃないと駄目だ、とも言った。


 俺が話したいのは、真田だけだ。


 それも言った。


「……どうしよう」


 巴は小さくつぶやいた。


 声は困っているようだった。


 けれど、顔はまったく困っていなかった。


 頬は熱い。


 口元は勝手に緩む。


 抑えようとしても、抑えきれない。


 何度考えても、普通に考えれば、ひとつしかない。


 いや、普通に考えれば、という言葉がもう危ない。


 相手は朝比奈だ。


 普通の方向から来るとは限らない。


 それは分かっている。


 分かっているのに、期待するなという方が無理だった。


「……千夜」


 巴は、ほとんど反射のように連絡先を開いた。


 親友の名前を選ぶ。


 前田千夜。


 通話ボタンを押す指は、少し震えていた。


 数回の呼び出し音のあと、すぐに電話がつながった。


『もしもし、巴?』


「千夜」


『うん』


「今、来られる?」


 電話の向こうで、千夜が一瞬だけ黙った。


 それから、少し笑うような声が返ってくる。


『やっぱり』


「え?」


『千瀬から少し聞いてた。もしかしたら電話が来るかなって思ってた』


「千瀬から?」


『うん。帰り道で、朝比奈くんが変なこと言ってたって』


「変なことじゃない」


『その言い方だと、かなり大事なことなんだね』


「大事」


 巴は即答した。


「大事な話」


『分かった。行く』


「ありがとう」


『ただ、千瀬も行きたいって言ってる』


「千瀬も?」


『うん。横でこっち見てる』


 電話の向こうで、小さく別の声がした。


 たぶん千瀬だ。


『私も行きます、って顔してる』


「……千瀬が来るの?」


『駄目?』


「駄目ではないけど」


 巴は少しだけ迷った。


 千瀬は一年生だ。


 しかも、真白と仲がいい。


 今日の話は、少し恥ずかしい。


 いや、かなり恥ずかしい。


 けれど、千瀬は帰り道の話を聞いている。


 それなら、最初から説明した方が早い気もした。


「いい。来て」


『分かった。すぐ行く』


「待ってる」


 通話が切れた。


 巴はスマートフォンを握ったまま、深く息を吸った。


 それでも笑みは消えなかった。


 明日の昼休み。


 部室裏。


 二人だけの大切な話。


 考えるだけで、胸の奥が熱くなる。


「……落ち着け」


 巴は自分に言い聞かせた。


 だが、まったく落ち着かなかった。


*  *


 しばらくして、千夜と千瀬が真田家に来た。


 巴は二人を自分の部屋へ通す。


 千夜はいつも通りの軽い表情だったが、目だけは少し面白がっている。


 千瀬は千瀬で、妙にきりっとした顔をしていた。


「千瀬が来るとは思わなかった」


 巴が言うと、千瀬は胸を張った。


「私も関係者です」


「関係者?」


「真白姉からも少し聞いていますし、朝比奈先輩が大切な話をするところまで聞きました」


「聞いたのはそこまででしょ」


「そこまででも十分です」


 千瀬は真面目な顔で言った。


「私は恋愛初心者なので、本物の恋愛を見せてもらおうと思いました」


「本物の恋愛」


 巴は少しだけ固まった。


 千夜が横で小さく笑う。


「千瀬、それ本人の前で言う?」


「言います」


「強いね」


「勉強です」


「何の?」


「恋愛の」


「やめて」


 巴は思わず止めた。


 千瀬は首を傾げる。


「巴姉、顔が赤いです」


「うるさい」


「まだ何も聞いてません」


「これから聞くから赤いの」


「なるほど」


「納得しないで」


 千夜は笑いをこらえながら、床に座った。


「まあ、とにかく話して。千瀬からざっくり聞いたけど、本人から聞いた方が早い」


「うん」


 巴は自分のベッドの端に座った。


 いつもより姿勢が硬い。


 長い手足をきちんとそろえているのに、落ち着かないのが分かる。


 背筋はまっすぐだ。


 けれど、視線は何度も手元のスマートフォンへ落ちる。


「朝比奈から電話があった」


「うん」


「明日、私に大切な話があるって」


「うん」


「電話じゃなくて、直接話したいって」


 千瀬の目が輝いた。


「直接」


「しかも、他の人に聞かれない場所がいいって」


「二人だけですか?」


「二人だけ」


 巴の声が、少し小さくなった。


「昼休み、部室裏で」


 千瀬は両手を口元に当てた。


「すごいです」


「何が」


「すごいです」


「だから何が」


「全部です」


 千夜は、口元に手を当てて笑っていた。


「それで、内容は?」


 巴は一瞬だけ黙った。


「知らない」


「知らないの?」


「うん」


 千夜の眉が、わずかに動いた。


「大切な話の内容は、聞いてないんだ」


「聞いてない」


「朝比奈くんは何て?」


「真田にしか話せないって」


 千瀬が小さく声を上げた。


「きゃー」


「千瀬、声」


「すみません」


「あと、俺が話したいのは真田だけだって」


 千瀬は今度こそ、完全に声を出した。


「きゃー!」


「千瀬」


「すみません。でもそれは、きゃーです」


「何で」


「それは、きゃーだからです」


 千夜もさすがに笑った。


「うん。それは、きゃーだね」


「千夜まで」


「いや、今のは仕方ないよ」


 千夜は巴を見る。


「よかったね、巴」


 巴は一気に頬を赤くした。


「まだ、そうと決まったわけじゃない」


「でも、期待はしてるでしょ」


「……してないとは言えない」


「正直でよろしい」


 千夜は楽しそうに言った。


 千瀬はその横で、身を乗り出している。


「巴姉、告白されたらどう答えるんですか?」


「まだ決めてない」


「決めてないんですか?」


「うん」


「でも、好きなんですよね?」


「千瀬」


「はい」


「そこを真正面から聞かない」


「すみません」


 千瀬は素直に謝った。


 けれど、目はきらきらしている。


「でも、すごいです。巴姉が朝比奈先輩に告白されるかもしれないんですよね」


「かもしれないだけ」


「それでもすごいです」


「……」


「巴姉、女子には何度か告白されていますよね」


「それを今言う?」


「でも、男の人からだと……」


 千瀬はそこで少しだけ言葉を止めた。


 千夜が、代わりにさらりと言う。


「前も、朝比奈くんだったよね」


 巴の動きが止まった。


「千夜」


「その時は振ったんだよね」


「千夜」


「じゃあ、今回はどうするの?」


 巴は、すぐには答えなかった。


 顔が熱い。


 前に朝比奈から告白された時、自分は断った。


 あの時は、そうするしかないと思っていた。


 けれど、今は違う。


 同じ名前を聞くだけで、胸の奥が勝手に騒ぐ。


 同じ相手から、もう一度、大切な話をされるかもしれない。


 それだけで、まともに考えられなくなる。


「……まだ決めてない」


「決めてないんだ」


「うん」


「でも、前とは違う?」


 巴は少しだけ視線を逸らした。


「内緒」


 その声は小さかった。


 けれど、隠しきれない嬉しさが混じっていた。


 千瀬は胸の前で手を握った。


「すごいです」


「何が」


「全部です」


「またそれ」


「本物の恋愛です」


「だからやめて」


 巴は顔を赤くしたまま言った。


 千夜はその様子を見て、少しだけ目を細める。


 巴は本当に嬉しそうだった。


 普段の巴は、強い。


 背が高く、姿勢がよく、何をしていても目立つ。


 人前で簡単に崩れるような性格ではない。


 それなのに今は、普通の女の子みたいに頬を赤くして、少し声を弾ませている。


 その顔を見ると、千夜も茶化しきれなかった。


「巴」


「何」


「嬉しいんだね」


 巴はすぐには答えなかった。


 少しだけ目を伏せる。


「……うん」


 それだけ言って、また頬を赤くした。


 千瀬がまた小さく声を上げそうになったので、巴はすかさず視線を向けた。


「千瀬」


「はい」


「うるさい」


「まだ何も言ってません」


「言いそうだった」


「すみません」


 千夜が笑う。


 その後も、三人はしばらく話した。


 明日、どんな顔で行くべきか。


 何を着るわけでもないが、昼休みに部室裏へ行くなら髪は整えておいた方がいいのか。


 告白だとして、すぐ返事をするべきか。


 それとも、少し考えさせてと言うべきか。


 そもそも朝比奈が本当にそういう意味で言っているのか。


 話題は何度もそこへ戻った。


 巴は恥ずかしがりながらも、ずっと嬉しそうだった。


 千瀬はほとんど観察者のように聞いていた。


 千夜は笑いながら相槌を打っていた。


 けれど、その胸の奥に、小さな引っかかりがあった。


 相手は、朝比奈恒一だ。


 誠実で、嘘をつかない。


 真面目で、約束を大事にする。


 それは知っている。


 けれど同時に、言葉の選び方が、とんでもなくずれることがある。


 大切な話。


 二人だけ。


 他の人に聞こえない場所。


 真田にしか話せない。


 その言葉だけを聞けば、確かに告白のように聞こえる。


 ただ、朝比奈恒一がそれを本当にその意味で言っているのか。


 そこだけが、千夜には少し気になっていた。


■真田家・玄関


 話を終えて、千夜と千瀬は帰ることになった。


 巴は玄関まで二人を送る。


 まだ頬には少し赤みが残っていた。


 それでも、表情はやわらかい。


「今日はありがとう」


 巴は言った。


「話を聞いてくれて」


「どういたしまして」


 千夜が笑う。


「明日、頑張ってね」


「うん」


 千瀬も小さく拳を握った。


「巴姉、応援してます」


「ありがとう」


「でも、騒ぎすぎないようにします」


「今して」


「はい」


 巴は少しだけ笑った。


 その笑顔は、いつもの強い巴とは少し違っていた。


 嬉しさを隠しきれていない、柔らかい笑顔だった。


 千夜と千瀬は、そんな巴に見送られて真田家を出た。


■帰り道


 夜の道を、千夜と千瀬は並んで歩いていた。


 少し歩いてから、千瀬が口を開く。


「お姉ちゃん」


「何?」


「巴姉、すごく喜んでましたね」


「そうだね」


「よかったですね」


「うん」


 千夜は頷いた。


 けれど、その声には少しだけ迷いがあった。


 千瀬はすぐに気づく。


「お姉ちゃん?」


「何?」


「何か気になるんですか?」


「少しね」


「何がですか」


「相手が朝比奈くんだから」


 千瀬は首を傾げた。


「朝比奈先輩だから?」


「うん」


 千夜は歩きながら、スマートフォンを取り出した。


「朝比奈くんって、嘘はつかないでしょ」


「はい」


「でも、言葉がずれることはあるでしょ」


「ありますね」


「あるんだ」


「あります」


 千瀬は真顔で頷いた。


 千夜は苦笑した。


「だから、少しだけ確認しておく」


「朝比奈先輩にですか」


「うん」


「でも、告白の内容を聞くんですか?」


「そこまでは聞かない」


 千夜は連絡先を開いた。


「ただ、明日の話がどういう種類の話なのかくらいは聞いておきたい」


「なるほど」


「巴があんなに喜んでるから、もし違った時が怖い」


 千瀬は少しだけ黙った。


 それは、分かる気がした。


 千夜は朝比奈へ通話をかけた。


 数回の呼び出し音のあと、電話がつながる。


『もしもし、前田?』


「夜にごめん、朝比奈くん」


『大丈夫だ』


「ちょっと聞きたいんだけど?」


『何だ』


「明日、巴に大切な話があるんだって?」


『ああ』


 千夜は千瀬と目を合わせた。


「それって、どういう話?」


『悪い』


 朝比奈の返事は早かった。


『真田にしか話せない』


 千夜は一瞬だけ黙った。


「真田にしか?」


『ああ』


「私にも?」


『申し訳ない』


 朝比奈の声は真面目だった。


『二人だけの時に話す大切な話だから、君にも話せない』


 千夜はスマートフォンを持ったまま、目を瞬かせた。


 隣で千瀬も息を止めている。


「……そっか」


『すまない』


「ううん。いいよ。変なこと聞いてごめんね」


『いや、心配してくれたんだろう』


「まあ、そうかな」


『ありがとう』


「……うん」


『それじゃあ、また明日』


「うん。また明日」


 通話が切れた。


 千夜はスマートフォンを下ろす。


 千瀬が、すぐに身を乗り出した。


「お姉ちゃん」


「うん」


「どうでした?」


「真田にしか話せないって」


「二人だけの時に話す大切な話って」


「そう言ってた」


 千瀬の顔が、ぱっと明るくなった。


「それなら、やっぱり」


「うん」


 千夜は頷いた。


 頷いた。


 頷いたのだが。


「……たぶんね」


「たぶん?」


「かなり、それっぽい」


「ですよね」


「でも」


「でも?」


 千夜はスマートフォンを見下ろした。


 懸念は少し減った。


 朝比奈恒一は、はっきり言った。


 真田にしか話せない。


 二人だけの時に話す大切な話。


 そこまで言われたら、普通ならそういうことだ。


 普通なら。


「相手が朝比奈くんなんだよね」


 千夜は小さくつぶやいた。


 千瀬も、その一言で少しだけ黙った。


「……それは、少し分かります」


「でしょ」


「はい」


 夜の道を、二人は並んで歩く。


 巴は今頃、明日のことを考えているだろう。


 嬉しそうに。


 恥ずかしそうに。


 たぶん、眠れないくらいに。


 だからこそ、千夜は少しだけ心配だった。


 大丈夫だとは思う。


 たぶん大丈夫だ。


 けれど。


 朝比奈恒一は、時々、普通の予想の外側からまっすぐ歩いてくる。


「明日、何も起きないといいけど」


「何かは起きると思います」


「だよね」


 千夜は苦笑した。


 千瀬も少し笑った。


 二人は、まだ少しだけ不安を残したまま、夜の道を歩いていった。

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