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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第198話 心の準備がまだできていない

■帰り道


 放課後。


 陸上部の練習を終えたあと、恒一は真白と千瀬と三人で帰っていた。


 夕方の道は、少しずつ人通りが少なくなっている。


 真白は恒一の少し横を、いつものように丁寧な足取りで歩いていた。


 白い肌に、まっすぐな黒髪。


 小柄な体で静かに歩く姿は、夕方の薄い光の中でもどこか目を引いた。


 その隣で、千瀬が軽い足取りで歩いている。


 恒一は、歩きながら考えていた。


 大切な話。


 今日中。


 周りに聞こえないように。


 佐藤に頼まれた内容を、どう真田へ伝えればいいのか。


 電話でいいのか。


 メッセージだけでいいのか。


 それとも、会って話すべきなのか。


「恒一様」


 真白が、静かに声をかけた。


「何だ」


「何か、悩み事ですか?」


 恒一は真白を見る。


 真白は心配そうにこちらを見上げていた。


 黒い瞳が、恒一の顔色を確かめるように揺れている。


「悩み事というほどじゃない」


「そうですか」


「ただ、ある人と大切な話をしなきゃいけない」


「大切な話、ですか」


「ああ」


 真白の表情が少し真面目になる。


 千瀬も隣から顔を上げた。


「それで、電話で話せばいいのか、今考えていた」


「電話ですか?」


「駄目か?」


 真白は少しだけ考えた。


「その大切な話は、恒一様からお願いをする話ですか」


「ああ」


「でしたら、直接会って話した方がいいと思います」


「そうなのか」


「はい」


 真白は静かに頷いた。


「こちらからお願いをするのであれば、できるだけ直接お話しした方が失礼ではないと思います」


「なるほど」


「それに」


「それに?」


「他の方に聞かれない方がよい大切なお話なら、二人だけでお話しするべきです」


「二人だけで」


「はい」


 真白は真面目だった。


 冗談で言っているわけではない。


 大切な話をするなら、相手への礼儀を考える。


 聞かれたくない内容なら、二人で話す。


 真白らしい答えだった。


「分かった。ありがとう、真白」


「いえ」


 真白は小さく頭を下げた。


「お役に立てたなら、よかったです」


「役に立った」


「そうですか」


 真白の口元が、少しだけやわらいだ。


 千瀬はその横で、じっと恒一を見ている。


「朝比奈先輩」


「何?」


「その大切な話って、誰とするんですか?」


 恒一は少し考えた。


 別に隠すことではない。


「真田だ」


 その瞬間、真白と千瀬の足が止まった。


「……巴さんと」


 真白が小さく言った。


「巴姉と、二人だけで、大切な話ですか」


 千瀬も目を丸くしている。


「ああ」


 恒一は普通に頷いた。


「佐藤に頼まれた」


「佐藤さんに?」


 真白が首を傾げる。


 恒一はそこまで説明しようとして、ちょうど分かれ道に差しかかっていることに気づいた。


「詳しい話は、また今度でいいか」


「は、はい」


「俺はこっちだから」


「はい。お気をつけて」


「朝比奈先輩、また明日です」


「ああ。また明日」


 恒一は二人に軽く手を上げ、家の方へ歩いていった。


 真白と千瀬は、その背中を見送った。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


「真白姉」


「はい」


「今の、どういう意味だと思います?」


「……分かりません」


 真白は、まだ少しだけ頬を赤くしていた。


「でも」


「でも?」


「とても、大切なお話なのだと思います」


「そうですね」


 千瀬は、少し複雑そうに恒一の背中を見ていた。


 大切な話。


 二人だけ。


 他の人に聞かれない場所。


 その言葉だけを聞けば、どうしても別の意味に聞こえてしまう。


 ただ、恒一が本当にそういう意味で言っているかどうかは、分からない。


 むしろ分からないからこそ、困るのだった。


■朝比奈家・恒一の部屋


 家に帰ると、恒一は自分の部屋へ入った。


 鞄を置き、中から佐藤に預かったメニュー表を取り出す。


 細かく書き込まれた内容を、もう一度確認する。


 あとは、真田に連絡するだけだ。


 恒一は、真田へ通話をかけた。


 数回の呼び出し音のあと、電話がつながる。


『もしもし、朝比奈?』


「真田、今いいか」


『うん。大丈夫。どうしたの?』


 電話越しの巴の声は、いつもより少し柔らかく聞こえた。


 道場か、自宅か。


 どちらにしても、周りに人はいないらしい。


「明日、少し大切な話がある」


『……え?』


「真田に頼みたいことがある」


『私に?』


「ああ」


 電話の向こうで、少しだけ沈黙があった。


『大切な話』


「ああ」


『頼みたいこと』


「ああ」


 巴の声が、ほんの少し硬くなった。


『それは、電話じゃ駄目な話?』


「できれば、直接話したい」


『直接』


「真白にも、お願いをするなら直接の方がいいと言われた」


『北条にも?』


「ああ」


『……そう』


 巴の声が、明らかに揺れた。


 けれど、恒一は気づかない。


「それと、他の人に聞かれない場所がいい」


『他の人に、聞かれない場所』


「ああ」


『二人だけで?』


「そうだ」


 電話の向こうで、巴が息を止めた気配がした。


 恒一は、佐藤に頼まれた内容を正確に伝えているつもりだった。


 大切な話。


 今日中、もしくは明日。


 周りに聞こえないように。


 そして、直接。


 そのすべてが、巴には別の意味に聞こえていた。


『朝比奈』


「何だ?」


『ちょっと待って』


「分かった」


『いや、待つって、そうじゃなくて』


「違うのか」


『違う』


 巴は、電話の向こうで深く息を吸った。


『私、まだ心の準備ができてない』


「心の準備か」


『うん』


「大丈夫だ」


『大丈夫?』


「ああ。俺は準備している」


『朝比奈が?』


「ああ」


 巴は黙った。


 その沈黙は、長かった。


『準備しているんだ』


「している」


『……そう』


 巴の声が、さらに揺れた。


 冗談のように言ったつもりだった。


 心の準備ができていない。


 そう言えば、恒一が少し笑うか、何か説明を足すと思った。


 けれど、恒一はいつも通り大真面目だった。


『朝比奈』


「何だ」


『それ、冗談じゃないよね』


「冗談?」


『うん』


「俺は冗談なんか言わない。分かっているだろう」


『……分かってる』


「大切な話だからな」


『うん』


「真田にも、ちゃんと見てもらいたい」


『見てもらいたい』


「ああ」


『……見るんだ』


「真田じゃないと駄目だと思う」


『私じゃないと』


「ああ」


 巴は、もう完全に動揺していた。


 電話の向こうで、片手を口元に当てている。


 顔は熱い。


 心臓がうるさい。


 恒一の言葉は、ひとつひとつ真面目だった。


 真面目だからこそ、逃げ場がなかった。


『でも』


「何だ」


『私、北条みたいじゃないよ』


「真白?」


『うん』


 巴の声は、少しだけ弱くなった。


『北条は可愛いし、料理もできるし、おしとやかだし』


「……」


『私なんて、可愛くないし』


「真田」


『料理も、北条みたいに上手くないし』


「真田」


『おしとやかでもないし、背も高いし、すぐ圧があるって言われるし』


「真田」


 恒一は、巴の名字を呼んだ。


 電話の向こうで、巴が言葉を止める。


「今、真白は関係ない」


『……え』


「俺が話したいのは、真白じゃない」


『……』


「今、俺が話したいのは真田だ」


『朝比奈』


「俺が話したいのは、真田だけだ」


 電話の向こうが、完全に静かになった。


 巴は、何も言えなかった。


 ただ、スマートフォンを握る指に力が入る。


 顔が熱い。


 耳まで熱い。


 恒一の言葉が、頭の中で何度も響く。


 俺が話したいのは、真田だけだ。


 それがどれほど強い言葉なのか、恒一はまるで分かっていない。


 けれど、分かっていないからこそ、余計に逃げ場がなかった。


『……本気なの?』


 巴は、ようやくそれだけ言った。


「本気だ」


 恒一は即答した。


「だから、必ず来てほしい」


『必ず』


「ああ」


『……どこに?』


「昼休み、部室裏でいいか」


『部室裏』


「そこなら、人に聞かれにくい」


『そう、だね』


「都合が悪ければ、放課後でもいい」


『ううん』


 巴は、少しだけ声を整えた。


『昼休みでいい』


「分かった」


『うん』


「明日、昼休み。部室裏で」


『分かった』


「助かる」


『……うん』


「じゃあ、また明日」


『うん。また明日』


 通話が切れた。


 恒一はスマートフォンを見下ろす。


 これで、佐藤に頼まれたことは一つ進んだ。


 明日、真田に直接メニュー表を見てもらう。


 部室裏なら、確かに他の部員にも聞かれにくい。


 問題はない。


 恒一は、そう思った。


 そして、佐藤へ短くメッセージを送る。


『真田に明日昼休み、直接見てもらうことになった』


 すぐに返事が来た。


『助かった』


 恒一はそれを見て、スマートフォンを机に置いた。


 まさか今の電話が、別の意味で受け取られているなどとは、少しも思っていなかった。



■真田家・巴の部屋


 通話を切ったあと、真田巴はしばらく動けなかった。


 部屋の中は静かだった。


 けれど、巴の心臓だけがうるさい。


「……大切な話」


 巴は小さくつぶやいた。


 二人だけで。


 他の人に聞かれない場所で。


 昼休み。


 部室裏。


 恒一は、冗談ではないと言った。


 俺は準備している、とも言った。


 真田じゃないと駄目だ、とも言った。


 俺が話したいのは、真田だけだ。


 それも言った。


 それが何を意味するのか。


 普通に考えれば、ひとつしかない。


 いや、普通に考えれば、という言葉がもう危ない。


 相手は恒一だ。


 普通の方向から来るとは限らない。


 それは分かっている。


 分かっているのに、期待するなという方が無理だった。


 巴はスマートフォンを握りしめた。


 頬が熱い。


 口元が勝手に緩む。


 抑えようとしても、抑えきれなかった。


「……どうしよう」


 巴は、そう言いながらも、少しも困っている顔ではなかった。


 むしろ、満面の笑みだった。


 心の準備はできていない。


 けれど、今すぐ誰かに話さなければ、心臓がもたない。


 巴はスマートフォンを操作する。


 連絡先を開く。


 指は迷わず、親友の名前を選んでいた。


 前田千夜。


 通話ボタンを押す直前、巴は一度だけ深く息を吸った。


 それでも笑みは消えない。


 明日の昼休み。


 部室裏。


 二人だけの大切な話。


 巴は胸を押さえながら、親友へ電話をかけようとしていた。

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