第197話 大切な話です
■陸上部部室
放課後。
陸上部の部室には、朝比奈恒一と佐藤忠一の二人だけがいた。
まだ練習開始前で、外からはグラウンドに集まり始めた部員たちの声が聞こえている。
恒一は部室の椅子に座り、靴紐を結び直していた。
その向かいで、佐藤は一枚の紙を机の上に広げている。
紙には、細かく練習メニューが書き込まれていた。
「朝比奈」
「何だ?」
「少し見てくれ」
佐藤は、その紙を恒一の前へ押し出した。
「新しいメニュー表だ」
「もう作ったのか」
「作った」
佐藤は真面目な顔で頷いた。
「短距離、中距離、基礎体力、補強。あと、最近一年のフォームが少し崩れているから、その修正用の時間も入れてある」
「なるほど」
恒一はメニュー表を手に取った。
びっしり書かれている。
走る距離。
本数。
休憩時間。
補強の種類。
曜日ごとの負荷のかけ方。
細かいところまで考えられていた。
「よく考えてあるな」
「本当か」
「ああ」
恒一は紙を見ながら頷いた。
「急に負荷が上がりすぎる感じもない。短距離組と中距離組で分けるところも分かりやすい。補強も多すぎない」
「そうか」
佐藤は、少しだけほっとした顔をした。
「お前がいいと言うなら、大丈夫そうだな」
「俺だけでいいのか」
「いや」
佐藤は首を横に振った。
「お前で一人目だ」
「一人目」
「ああ。これで、まず一人分の確認は取れた」
「佐藤は作った側だから、確認には入らないのか」
「俺は作った側だ。自分で作ったものに自分で許可を出しても意味がない」
「それもそうだな」
恒一はメニュー表を机に戻した。
「じゃあ、あと誰に見せるんだ」
「真田」
佐藤は即答した。
「真田が見て、問題ないと言えば使える」
「真田か」
「ああ」
佐藤は腕を組んだ。
「正直、今の陸上部で練習メニューを通すなら、朝比奈と真田の確認は必要だ」
「そうなのか?」
「そうだ」
「俺はともかく、真田も副部長だからな」
「それもある」
佐藤はメニュー表を指で軽く叩いた。
「真田は全体をよく見ている。部員の様子も、無理をしているやつも、気づくのが早い。メニューそのものだけじゃなくて、これを今の部員にやらせていいかどうかを見られる」
「確かに」
恒一は素直に頷いた。
巴は、ただ速いだけではない。
部員の癖も、体調も、雰囲気もよく見ている。
本人にそのつもりがなくても、自然と面倒を見る側に回っている。
「だから、真田が駄目だと言ったら、このメニューは使わない」
「厳しいな」
「厳しいくらいでいい」
佐藤は真面目に言った。
「怪我を出すよりは、ずっといい」
「それはそうだ」
「それに」
「それに?」
「真田に後から怒られるのは嫌だ」
佐藤は少しだけ遠い目をした。
恒一は黙った。
真田巴が怒る。
声を荒らげるとは限らない。
ただ、まっすぐ見てくる。
間違っていることを間違っていると言う。
その圧は、確かにある。
「佐藤」
「何だ」
「真田は、別に怒るために怒るわけじゃない」
「分かっている」
「ならいい」
「分かっているが、胃に来るものは胃に来る」
「そうか」
「ああ」
佐藤は自分の腹に手を当てた。
そこまで真面目な話だったはずなのに、なぜか少しだけ部室の空気が緩んだ。
「それで、真田はどこにいるんだ」
恒一は部室の外へ視線を向ける。
グラウンドには、まだ巴の姿は見えない。
「今日はたぶん剣道部だ」
佐藤が言った。
「ああ、そうか」
「真田は道場もあるし、剣道部の方にも顔を出している。今日はこっちには来ない可能性が高い」
「じゃあ、明日見せればいいんじゃないか」
「それでもいいんだが」
佐藤は少しだけ困った顔をした。
「できれば、早く確認を取りたい」
「そんなに急ぐのか」
「ああ」
佐藤はメニュー表を見る。
その目は真剣だった。
「今の一年には、早めに入れたい練習がある。フォームが崩れたまま本数だけ増やすと、変な癖がつく。早く直した方がいい」
「なるほど」
「だから、できれば明日から試したい」
「試すだけなら、軽くやればいいんじゃないか」
「軽くでも、メニューはメニューだ」
佐藤はきっぱり言った。
「勝手には変えない」
「真面目だな」
「お前に言われたくない」
「そうか」
「そうだ」
佐藤はメニュー表を整えた。
「朝比奈」
「何だ」
「お前、真田の連絡先を知っているだろう」
「ああ」
恒一は頷いた。
巴とは連絡を取れる。
今では、必要があれば普通に連絡する関係になっている。
「今日、帰ったら連絡してくれないか」
「真田にか」
「ああ」
「このメニューのことを?」
「そうだ」
「分かった」
恒一はあっさり頷いた。
「帰ったら連絡する」
佐藤は少しほっとした顔をした。
「助かる」
「メニュー表はどうする」
「お前が持っていってくれ」
「いいのか」
「ああ。俺は写真を撮っておく」
佐藤はスマートフォンを取り出し、メニュー表を何枚かに分けて撮った。
細かい文字まで写っていることを確認すると、紙を恒一へ差し出す。
「これを真田に見せてくれ」
「分かった」
恒一はメニュー表を受け取り、折れないように鞄へしまった。
「明日、真田に直接見てもらう」
「頼む」
佐藤はそこで、少しだけ声を落とした。
「ただ、朝比奈」
「何だ」
「頼む時は、ちゃんと大事な話だと伝えてくれ」
「大事な話」
「ああ」
佐藤は真面目な顔だった。
「これは練習メニューの話だ。部員の怪我にも関わる。だから、できれば今日中に見てもらいたい」
「分かった」
「それと」
「それと?」
「できれば、周りにあまり聞こえないように頼んでくれ」
「なぜだ」
「まだ正式に決まったメニューじゃないからだ」
佐藤はメニュー表を見る。
「確定前の内容が中途半端に広がると、部員が勝手に勘違いする。特に一年は、明日からこれを全部やるのかとか、勝手に不安になるかもしれない」
「ああ、そういうことか」
「そういうことだ」
「分かった」
恒一は頷いた。
「大切な話だから、できるだけ周りに聞こえないように話す」
「そうだ」
佐藤は安心したように頷いた。
「真田には、そう伝えてくれ」
「分かった」
「本当に頼むぞ」
「分かっている」
恒一は真面目に答えた。
「大切な話なんだな」
「ああ。大切な話だ」
「周りに聞こえないように」
「そうだ」
「今日中に」
「できれば今日中に」
「分かった」
佐藤はようやく肩の力を抜いた。
「助かった。これで真田が確認してくれれば、明日から試せる」
「真田が駄目と言ったら?」
「直す」
「そうか」
「真田が駄目と言うなら、たぶん理由がある」
佐藤はそこだけは迷わず言った。
恒一は少しだけ笑った。
「信頼してるんだな」
「している」
佐藤は即答した。
「怖いが、信頼はしている」
「怖いのか」
「そこは別だ」
「そうか」
「そうだ」
佐藤はメニュー表を鞄にしまった。
「じゃあ、そろそろ練習に行くぞ」
「ああ」
二人は部室を出た。
外では、部員たちが少しずつグラウンドに集まり始めている。
夕方の光が、グラウンドの土を薄く照らしていた。
恒一は歩きながら、スマートフォンの中のメニュー表を確認する。
帰ったら、巴に連絡する。
大切な話がある。
できれば今日中に見てほしい。
周りに聞こえないように話したい。
佐藤に頼まれた内容を、恒一は頭の中で整理した。
特におかしなところはない。
練習メニューの確認は大切だ。
確定前に広がらない方がいいというのも分かる。
だから、恒一は何の疑問も持たなかった。
まさかその伝え方が、別の意味に聞こえる可能性があるなどとは、少しも考えていなかった。
佐藤もまた、同じだった。
ただ新しい練習メニューを早く試したい。
そのために、真田巴の確認を取りたい。
それだけのつもりだった。
この時の二人はまだ知らない。
大切な話。
今日中。
周りに聞こえないように。
その三つが揃った時、人は時々、とんでもない勘違いをするのだということを。




