第196話 誰の話をしているんだ
■二年A組教室
翌日の放課後。
朝比奈恒一は、自分の席に座ったまま考えていた。
机の上には教科書が開かれている。
けれど、さっきから同じ行を何度も目で追っているだけで、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
昨日、真白から聞いた話が残っている。
宿罪。
過去の罪が、魂に残り続けているもの。
今の真白が犯した罪ではない。
それでも、真白はその罪を償うために奉仕活動を続けていた。
そして、できるだけ人と深く関わらず、自分から孤独になろうとしていた。
誰かに好かれることも。
自分が誰かを好きになることも。
避けるつもりだった。
そこまでは分かった。
けれど、考えれば考えるほど、別の疑問が浮かんでくる。
真白は、人と深く関わらないようにしていた。
千瀬にも、自分を嫌いになってほしいと告げた。
なのに、恒一には自分から近づいてきた。
初めて会った時から、自分が婚約者だと名乗った。
今では、恒一を好きだともはっきり口にしている。
誰かを好きになることまで避けていた真白が、なぜ自分には近づいてきたのか。
真白が恒一を好きだということを、疑っているわけではない。
昨日話した時の表情を思い出しても、嘘をついているようには見えなかった。
だが、それだけで説明できるのだろうか。
神様は以前、恒一を真白にとって特殊な存在だと言っていた。
白い台帳に、初めて名前が記された相手。
真白が近づいても、失われないかもしれない相手。
だからなのかもしれない。
真白は誰にでも近づけるわけではない。
自分だけが特別だから、近づいてきた。
そう考えれば、一応はつながる。
けれど、それも恒一が勝手に考えただけだった。
「……分からない」
小さく呟く。
「何が?」
すぐ近くから声がした。
顔を上げると、三浦基樹が恒一の机の横に立っていた。
その隣では、一ノ瀬彩音が鞄を持ったまま、興味深そうに恒一を見ている。
「まだ帰ってなかったのか」
「それはこっちの台詞だ」
基樹が言う。
「お前、さっきから同じところをずっと見てるぞ」
「見てたのか」
「見える位置にいるからな」
彩音が恒一の机の上を覗き込む。
「全然進んでないね」
「考え事をしてた」
「珍しいな」
「俺だって考える」
「それは知ってるけど」
基樹が少し警戒した顔になる。
「お前がそこまで考え込んでる時って、大体面倒なことなんだよ」
恒一は少し迷った。
真白から聞いた宿罪のことを、二人へ話すつもりはない。
神様や台帳についても話せない。
ただ、自分一人で考えても答えは出なかった。
「少し聞いてもいいか」
「何を?」
「仮の話なんだけど」
基樹と彩音が同時に恒一を見る。
「お前が仮の話を始める時、大体仮じゃないんだよな」
「今回は仮の話だ」
「そういうことにしておくよ」
彩音が近くの席へ腰掛ける。
基樹も恒一の前の席を引き、背もたれを前にして座った。
「それで?」
彩音に促され、恒一は慎重に言葉を選ぶ。
「ある人がいる」
「うん」
「その人は、できるだけ誰とも深く関わらないようにしていた」
「どうして?」
「そこは話せない」
「話せないんだ」
「ああ」
彩音はそれ以上追及せず、続きを待った。
「誰かに好かれることも、自分が誰かを好きになることも避けようとしていたらしい」
「らしい?」
「仮の話だからな」
「はいはい」
基樹が軽く流す。
「でも、その人は、ある一人には自分から近づいている」
「一人にだけ?」
「ああ」
「どれくらい近づいてるの?」
彩音に聞かれ、恒一は少し考える。
そのまま話せば、すぐに誰の話か分かってしまう。
「かなり積極的に」
「かなり積極的」
「ああ」
「具体的には?」
「それは言えない」
「そこも言えないのかよ」
基樹が呆れた顔をする。
「言える範囲だけで考えてくれ」
「条件が少なすぎるだろ」
「その人は、その相手を好きだとも言っている」
「じゃあ、普通に好きなんじゃないか?」
基樹が答えた。
「でも、誰かを好きになることも避けていた」
「避けてたけど、好きになったんだろ」
「それだけなのか?」
「それが一番普通じゃないか」
基樹は腕を組んだ。
「好きにならないつもりだった。でも、好きになった。それで自分から近づいた」
「その人だけは特別なのかもしれないね」
彩音が続ける。
「特別?」
「ほかの人とは違う。その人にだけは近づいてもいいと思ったとか」
「近づいてもいい……」
神様の言ったことに近い。
恒一は少しだけ考え込む。
「その可能性はあるかもしれない」
「ずいぶん真剣だな」
「仮の話でも、考えるなら真剣に考えた方がいいだろ」
「まあ、そうだけど」
基樹はまだ疑わしそうに恒一を見る。
「ほかには?」
恒一が尋ねると、彩音が首を傾げた。
「ほかの理由?」
「ああ」
「好きだから、というのが一番分かりやすいけど」
彩音は少し考える。
「相手が危なっかしくて、心配だから離れられないとか」
「危なっかしい?」
「うん。放っておくと何をするか分からないから、そばにいようと思ったのかもしれない」
恒一は眉を寄せた。
「そこまで危なっかしい相手ではないと思う」
「……」
基樹が恒一を見る。
彩音も黙って恒一へ視線を向けた。
「自分のことくらい自分で考えられるだろうし、子供でもない」
「おい」
基樹が低い声を出す。
「何だ」
「なんでお前が少し怒るんだよ」
「怒ってない」
「いや、今ちょっとむっとしただろ」
「その可能性は低いと思っただけだ」
「仮の話なんだよな?」
「仮の話だ」
「なのに、どうして相手が危なっかしくないって分かるんだよ」
恒一は一瞬黙った。
「そういう人だと仮定した」
「都合のいい仮定だな」
「話を進めるためだ」
「本当かよ」
基樹は疑わしそうだったが、それ以上は追及しなかった。
彩音は楽しそうに二人を見ている。
「でも、本人が自分を危なっかしくないと思っていても、周りから見たら違うかもしれないよ」
「そうなのか?」
「あると思う」
彩音が頷く。
「一人で抱え込んだり、自分だけで決めて急に距離を取ったりする人は、周りから見たら心配になるかもしれない」
「……」
恒一には、少し心当たりがあった。
「それでも、心配だから近づくのと、好きだから近づくのは別じゃないのか」
「別とは限らないよ」
「どういうことだ?」
「好きだから心配になることもあるし、心配しているうちに好きになることもある」
「どちらもあるのか」
「両方同時にあることだってあるんじゃない?」
恒一は考える。
真白は最初から、自分を婚約者だと名乗った。
あの時、本当に恒一を好きだったのかは分からない。
台帳に名前が出たから。
自分が特殊な存在だったから。
そういう理由で近づいてきた可能性もある。
けれど、今の真白が恒一を好きだと言う時、それがすべて打算だとは思えなかった。
好きだから近づいている。
特別だから近づける。
心配だから離れられない。
どれか一つなのか。
いくつかが重なっているのか。
「余計に分からなくなった」
恒一が言うと、基樹が肩を落とした。
「こっちは最初から、何の話か分かってないんだよ」
「そうだった」
「忘れるなよ」
彩音は恒一の顔をじっと見ている。
「ほかに、その人について分かってることは?」
「ほか?」
「その人が近づく相手に、何か特別な事情があるとか」
恒一は一瞬、言葉に詰まった。
神様は、恒一を真白にとって特殊な存在だと言った。
だが、それを二人に話すことはできない。
「それは言えない」
「言えないことがあるんだ」
「ああ」
「だったら、答えは出ないよ」
彩音はあっさりと言った。
「大事な条件が分からないままじゃ、私たちも想像するしかないから」
「そうだな」
「その本人に聞けばいいんじゃないか?」
基樹が言う。
「聞けない」
「どうして?」
「まだ話せないことがあると言われた」
「なら、待つしかないだろ」
「それは分かってる」
「分かってるなら、それでいいじゃねえか」
「でも、考えるくらいはいいだろ」
「考えすぎて、教科書が一頁も進んでないけどな」
恒一は机の上を見る。
確かに、最初に開いた頁から何も進んでいなかった。
彩音が肩を揺らして笑う。
「それで」
「何だ」
「結局、誰の話なの?」
基樹が尋ねた。
恒一は少し黙った。
「言えない」
「ここまで話しておいて?」
「ああ」
「意味分かんねえ」
基樹が呆れた顔をする。
彩音は少しだけ考えるように恒一を見た。
そして、何でもないことのように言った。
「真白ちゃんの話でしょ」
恒一は目を見開いた。
「どうして分かった」
基樹が勢いよく恒一を見る。
「やっぱりそうなのかよ!」
「俺は何も言ってない」
「今ので認めたようなもんだろ!」
「どうして分かったのか聞いただけだ」
「それが認めてるんだよ!」
彩音は満足そうに笑っている。
「どうして分かったんだ」
恒一がもう一度尋ねる。
「私、名探偵だから」
「それだけか」
「それだけ」
「絶対違うだろ」
基樹が言う。
彩音は頬杖をついた。
「だって、恒一がここまで真剣に考える相手なんて、そう多くないから」
「それだけで分かるのか」
「それに、危なっかしいって言われた時だけ、急に反論が強くなったし」
「それは、仮の相手がそういう人ではないと考えただけだ」
「その仮の相手のこと、ずいぶんよく知ってるんだね」
「……」
「ほら」
彩音が笑う。
「名探偵でしょ」
恒一は何も言えなかった。
基樹は大きくため息を吐く。
「最初から北条さんの話だったのか」
「俺は名前を出してない」
「もうそこはどうでもいい」
彩音は楽しそうに目を細めた。
「それで、真白ちゃんが人と関わらないようにしていたのに、恒一にだけ近づいている理由を考えてたんだね」
「そうだ」
恒一は今度は否定しなかった。
「でも、答えは出なかった」
「本人にしか分からないよ」
彩音が言う。
「本人にも、まだ全部は分かっていないかもしれないし」
「そういうものなのか」
「気持ちは、いつも一つの理由だけで動くわけじゃないからね」
恒一はその言葉を考える。
好きだから。
特別だから。
心配だから。
離れられないから。
いくつもの理由が重なっている可能性もある。
「結局、分からないままだな」
「最初から答えが出る相談じゃなかったんだよ」
基樹が言う。
「俺たちは、事情をほとんど知らないからな」
「ああ」
「なら、今は待てばいいんじゃない?」
彩音が静かに言った。
「話せる時に話すって言われたんでしょ?」
「そうだ」
「じゃあ、その時まで待つ。それでいいと思う」
昨日、真白にも同じことを言った。
時間が必要なら待つと。
恒一は小さく頷く。
「分かった」
「本当に分かったのか?」
「たぶん」
「たぶんなのかよ」
「でも、考えるのはやめない」
「だと思った」
基樹は深く息を吐いた。
彩音は楽しそうに笑っている。
真白がなぜ恒一にだけ近づいたのか。
自分が特殊だからなのか。
好きだからなのか。
それとも、別の理由があるのか。
結局、答えは出なかった。
ただ、一人で考えていた時よりも、分からない理由が少し増えた。
それが前へ進んだことになるのかは、恒一には分からなかった。
「そういえば」
彩音が、机に置いていた鞄を持ち上げた。
「もうすぐ冬休みだね」
「そうだな」
基樹が答える。
「二人は、どこかへ行く予定あるの?」
「俺は家族で旅行に行く予定だ」
「へえ。どこ?」
「まだ詳しくは聞いてない。でも、何日か泊まるらしい」
「いいね」
彩音が頷く。
「彩音は?」
基樹に聞かれ、彩音は少しだけ得意そうに笑った。
「私は海外旅行」
「海外?」
「うん。家族で行く予定」
「二人とも旅行か」
恒一が言う。
「そういうお前は?」
基樹が尋ねた。
「俺?」
「冬休み、どうするんだよ」
恒一は少し考えた。
「休む」
「……」
基樹が黙った。
彩音も恒一を見る。
「休みは休むためにあるんだろ」
「そういう意味じゃない」
基樹がすぐに返した。
「じゃあ、どういう意味だ」
「どこかへ出かける予定はないのかって聞いてるんだよ」
「最初からそう言えばいいだろ」
「普通は今ので分かるんだよ!」
彩音が小さく笑う。
「相変わらずだね」
「ああ。相変わらずだ」
基樹も疲れたように頷いた。
「何がだ?」
「そこがだよ」
「冬休みなんだから、休むのは当たり前だろ」
「だから、そういう意味じゃないって言ってるだろ!」
基樹の声が、放課後の教室に響いた。




