第195話 続・重荷の意味
■喫茶店
「それで、聞きたいんです」
「はい」
「その宿罪というのは、どういうものなんですか?」
真白の表情から、わずかに笑みが消えた。
「俺は、重荷があるということしか知りません」
「……」
「話せる範囲で構いません」
恒一は、真白が答える前に続けた。
「話したくないことまで聞くつもりはありません」
真白は恒一を見た。
そのまま、何かを確かめるようにしばらく見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「宿罪は」
一度、言葉を止める。
真白は膝の上で両手を重ねたまま、紅茶へ視線を落とした。白い指先にはわずかに力が入り、長い黒髪に縁取られた横顔は、普段よりも硬く見えた。
「簡単に申し上げれば、呪いのようなものです」
「呪い」
「はい」
真白は小さく頷いた。
「今の私が犯した罪ではありません」
「はい」
真白の表情が、少しだけ安堵したように見えた。
そして、ゆっくりと言葉を選んだ。
「その罪が、長い時間を経ても終わらずに残っている。それが宿罪です」
「生まれ変わっても、ずっと続くんですか?」
「はい」
「真白が何もしていなくても?」
「それでも、続きます」
真白の声は静かだった。
怒っているようにも、恨んでいるようにも聞こえない。
ただ、ずっと背負ってきたものを説明しているようだった。
「理不尽ですね」
恒一が言うと、真白は少し目を見開いた。
「そう、思われますか?」
「思います」
「ですが、罪を受けた側にとっては」
「それは、俺には分かりません」
恒一は遮るつもりはなかった。
けれど、自然に言葉が出た。
「過去に何があったのか、俺は詳しく知りません。だから、誰がどれだけ苦しんだのかも分かりません」
「……はい」
「でも、今の真白が何もしていないことは分かります」
真白は何も答えなかった。
視線だけが少し下がる。
「だから、真白が全部悪いみたいに言うのは違うと思います」
「ありがとうございます」
小さな声だった。
恒一はそれ以上、何も言わなかった。
真白がすぐに気持ちを切り替えられる話ではない。
長い間背負ってきたものを、恒一の一言で軽くできるとも思っていなかった。
「その宿罪は、なくすことができるんですか?」
「すぐに消すことはできません」
「すぐには」
「はい」
真白は膝の上で重ねた指を見る。
「ですが、過去の罪を少しずつ償い、贖罪を重ねていけば、いつか終わらせることができるかもしれません」
「絶対ではないんですか」
「神様も、いつ終わるとはおっしゃいませんでした」
「……そうですか」
「それでも、償い続けなければ何も変わりません」
真白の声には、静かな覚悟があった。
「少しずつでも、人のためにできることをする。過去に奪ったものがあるのなら、今の私が誰かへ返していく」
「だから、真白は奉仕活動をしているんですね」
「はい」
「地域の手伝いも」
「それも、償いのためです」
真白はそこで、少しだけ目を伏せた。
「もちろん、それだけではありません」
「分かっています」
恒一は答えた。
「真白が、全部計算だけで人を助けているとは思っていません」
「……」
「最初は償うためだったとしても、今はそれだけじゃないんじゃないですか」
真白はすぐには答えなかった。
少し迷ったあと、小さく頷く。
「人の役に立てた時は、嬉しいです」
「なら、それでいいと思います」
「ですが、贖罪のためであることも事実です」
「だから、自分のためだと言ったんですね」
「はい」
真白は少し恥ずかしそうに頷く。
「それも隠さなくていいと思います」
恒一が言うと、真白は困ったように微笑んだ。
「恒一様は、時々とても簡単におっしゃいますね」
「複雑に考えても、俺には分からないので」
「そういうところも、恒一様らしいと思います」
「褒められているんでしょうか?」
「はい」
真白がわずかに笑った。
その笑みは、先ほどより自然だった。
恒一も少し安心する。
宿罪が具体的にどのようなものなのか、まだ詳しくは分からない。
けれど、真白がなぜ奉仕活動を続けているのかは理解できた。
過去の罪を少しずつ償うため。
いつ終わるかも分からないものを、それでも終わらせようとしている。
そして、もう一つ。
「真白」
「はい」
「千瀬ちゃんに言ったことも、その宿罪が理由なんですか?」
真白の笑みが消えた。
聞かれることを予想していたのかもしれない。
驚きはなかった。
「『私を嫌いになってください』って言いましたよね」
「はい」
「あの時、理由を聞けませんでした」
恒一は当時を思い出す。
真白を慕っていた千瀬。
真白は千瀬を嫌っているわけではなかった。
むしろ大切にしていた。
だからこそ、あの拒絶が不自然だった。
「あれも、人と深く関わらないためだったんですか」
「……はい」
真白は両手を膝の上で強く重ねた。
「私は、できるだけ人と深く関わらないようにしてきました」
「宿罪があるから?」
「はい」
それ以上、真白は説明しなかった。
では、なぜ宿罪があると、千瀬に嫌われなければならないのか。
恒一はそう尋ねかけた。
けれど、真白の伏せられた顔を見て、その言葉を胸の奥へ戻した。
今はまだ、そこまで聞いてはいけないような気がした。
宿罪は呪いのようなもの。
今の真白が犯した罪ではない。
それでも、長い時間をかけて彼女を縛り続けている。
そのせいで、真白は誰かと親しくなることを避けていた。
「誰かに好かれるのも、避けていたんですか?」
「はい」
「誰かを好きになるのも?」
真白は一瞬、言葉に詰まった。
視線が恒一から外れる。
「……そのつもりでした」
「そのつもり」
「はい」
真白は少しだけ頬を赤くしながら、紅茶へ視線を落とした。
恒一は、その先を聞かなかった。
誰かを好きにならないつもりだった真白が、今は恒一を婚約者と言っている。
そこを追及すれば、別の話になってしまう。
「だから、千瀬ちゃんに嫌われようとしたんですね」
「はい」
「自分から孤独になろうとしていた」
真白は静かに頷いた。
恒一は、ようやくあの時の真白の行動を少し理解した。
嫌われたかったわけではない。
千瀬を大切に思っていなかったわけでもない。
むしろ、大切に思っていたからこそ、遠ざけようとした。
正しいかどうかは、恒一には分からない。
けれど、真白なりに守ろうとした結果だったのだ。
「そういうことだったんですね」
「はい」
「分かりました」
真白が顔を上げる。
「責めないのですか」
「何をですか」
「私は、前田さんを傷つけました」
「傷つけたとは思います」
恒一は正直に答えた。
「だから、あれが正しかったとは言いません」
「……はい」
「でも、真白が何も考えずに言ったわけじゃないことは分かりました」
真白は静かに恒一を見ていた。
「それに、俺も邪魔しましたから」
「邪魔、ですか」
「真白が一人になろうとするのを」
恒一は、あの時、自分が真白と千瀬の間へ入ったことを思い出す。
「俺が余計なことをしたのかもしれないと思っていました」
「いいえ」
真白は、はっきりと首を横に振った。
「余計なことではありませんでした」
「そうですか」
「はい」
真白の声は静かだった。
「私は、あの時、間違った方法で前田さんを遠ざけようとしていました」
「宿罪のせいで?」
「それもあります」
真白は少し考え、続けた。
「でも、それだけではありません。私は、自分が一人でいれば済むと思っていました」
「今は違うんですか」
「……少しだけ」
真白の指先から力が抜ける。
「恒一様が、邪魔をしてくださいましたから」
「邪魔してよかったんでしょうか」
「はい」
真白は、わずかに微笑んだ。
「少なくとも、私はそう思っています」
恒一は何と答えればいいか分からず、アイスコーヒーへ視線を落とした。
邪魔をしてよかったと言われるのも、不思議な話だった。
けれど、真白が少しでも孤独にならずに済んだのなら、それでいいのかもしれない。
「真白は、こういう話を誰かにしたことがあるんですか」
「ございます」
「神様以外に?」
「はい」
真白の表情が、少しだけ変わった。
自分のことではなく、誰かを思い浮かべた顔だった。
「私と同じような罪を背負っている方がいます」
「真白と同じ?」
「はい」
「その人も、誰かの生まれ変わりなんですか」
「はい」
真白はそこまで答えたあと、言葉を止めた。
名前を出すつもりはないのだろう。
恒一も聞かなかった。
真白が話せる範囲だけ話すと決めていた。
「その方とは、小さい頃から面識があります」
「真白と同じことを知っているんですね」
「はい。ですから、こういったことについて話せる相手ではあります」
「なら、真白も一人じゃなかったんですね」
恒一が言うと、真白はすぐには頷かなかった。
「そうかもしれません」
「違うんですか」
「私よりも、ずっと年下の方です」
真白の声に、わずかな迷いが混じる。
「今はまだ、普通に暮らしています」
「まだ?」
「はい」
真白は紅茶の表面を見つめた。
「できれば、そのままでいてほしいと思っています」
「宿罪について、知らないんですか?」
「何も知らないわけではありません」
「じゃあ」
「ただ、まだすべてに向き合っているわけではありません」
真白は言葉を選んでいた。
どこまで話していいか迷っているのだろう。
「私は、あの方に苦しんでほしくありません」
その言葉には、はっきりとした感情があった。
「普通に笑って、普通に誰かを好きになって、普通に幸せになってほしいんです」
「……はい」
「ですが……」
真白は一度、口を閉じた。
「おそらく、いずれは自分の宿罪と向き合うことになるでしょう」
「避けられないんですか?」
「分かりません」
真白は首を横に振った。
「避けられるのであれば、避けてほしいです」
「でも、難しいと思っている」
「はい」
苦しんでほしくない。
それでも、苦しむことになってしまうかもしれない。
真白の表情には、その二つが同時に浮かんでいた。
「だから、そばにいたいんですね」
「はい」
真白は小さく頷いた。
「少なくとも、私にはあの方の苦しみを少しは理解できます」
「真白が経験してきたことだから?」
「はい」
「それなら、その人にとっても心強いと思います」
恒一が言うと、真白は少しだけ目を伏せた。
「そうであればよいのですが」
「そうだと思います」
恒一は答えた。
「同じものを背負っている人がそばにいてくれるなら、一人で抱えるよりはいいと思います」
「……そうですね」
真白の声が、少しだけ柔らかくなった。
恒一は、そこで初めて気づいた。
真白は、その年下の誰かを支えようとしている。
けれど、真白自身にも、同じ話をできる相手がほとんどいない。
神様には話せる。
同じ罪を背負う年下の相手にも話せる。
それでも、普通の学校生活の中で話せる相手はいなかったのだろう。
「真白も、誰かに話したかったんじゃないですか?」
真白は驚いたように顔を上げた。
「私、ですか?」
「はい」
「私は……」
真白は何かを言おうとして、やめた。
そして、少しだけ困ったように笑う。
「分かりません」
「分からない?」
「ずっと話せないものだと思っていましたから」
「神様のことも?」
「はい」
「俺もです」
恒一はアイスコーヒーの氷をストローで軽く動かした。
「もし誰かに言えても、信じてもらえないと思います」
「おそらく、そうでしょうね」
「神様の話だけなら、変な夢を見たと思われそうです」
「台帳まで含めれば、もっと信じていただけないでしょう」
「ですよね」
二人の間に、少しだけ軽い空気が戻る。
「だから、真白と話せるのは、とても助かっています」
恒一が言うと、真白は黙った。
少しだけ目を伏せ、カップへ手を添える。
「私もです」
「そうですか」
「はい」
真白は紅茶を一口飲んだ。
その仕草には、先ほどまでの硬さが少し薄れていた。
「恒一様にお話しできて、少しだけ気持ちが軽くなりました」
「それなら、呼び出してよかったです」
「ですが、本来は私がお礼を申し上げるべきです」
「俺が聞きたかっただけです」
「それでも、です」
真白はカップを置いた。
「こうして尋ねていただかなければ、私は自分からお話しできなかったと思います」
「無理に聞いてしまったなら、すみません」
「いいえ」
真白は静かに首を横に振る。
「少し、嬉しかったのです」
「嬉しい?」
「恒一様が、私の重荷を気にかけてくださっていたことが」
真白の頬が、ほんの少しだけ赤くなる。
恒一は返事に迷った。
特別な意味で聞いたわけではない。
ただ、真白の行動が気になっていた。
それでも、気にかけていたこと自体は事実だった。
「分からないままにしておくのが嫌だったんです」
「はい」
「真白が何かを抱えているなら、少しくらいは知っておきたいと思いました」
真白は視線を落としたまま、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
その言葉のあと、しばらく沈黙が続いた。
居心地の悪い沈黙ではなかった。
店内には静かな音楽が流れ、遠くで食器の触れ合う音がする。
恒一は、聞きたかったことをすべて聞けたわけではない。
宿罪が具体的にどのような影響を及ぼすのか。
なぜ真白が人との関わりを避けるほど恐れているのか。
真白と同じような罪を背負う年下の人物が誰なのか。
まだ分からないことは多かった。
けれど、今日ここですべてを聞く必要はないとも思った。
「真白」
「はい」
「宿罪について、もう少し聞いてもいいですか」
真白の表情に、わずかな迷いが浮かんだ。
恒一はすぐに続ける。
「今日じゃなくても構いません」
「……申し訳ありません」
真白は小さく頭を下げた。
「もう少しだけ、お時間をいただけませんか?」
「時間?」
「はい」
真白は胸元で指を重ねる。
「まだ今は、お話しできないことがあります」
「分かりました」
恒一は、深く聞かなかった。
真白が顔を上げる。
「よろしいのですか」
「話せないなら、仕方ありません」
「ですが」
「今日だけでも、少し分かりましたから」
恒一は言った。
「真白の重荷がどういうものなのか、全部は分かっていません」
「はい」
「でも、真白がどうして人から離れようとしていたのかは、少し分かった気がします」
真白は黙って恒一を見ていた。
「だから、今はそれで十分です」
「……ありがとうございます」
「もう少し時間が必要なら、待ちます」
「はい」
真白は静かに頷く。
「その時が来ましたら、きちんとお話しいたします」
「分かりました」
約束というほど強いものではない。
それでも、真白がいつか話すと言った。
今は、それでよかった。
■店の前
喫茶店を出ると、昼過ぎの柔らかな風が吹いていた。
駅前には休日を過ごす人々が行き交っている。
真白は店の前で立ち止まり、恒一へ向き直った。
「本日は、お付き合いくださってありがとうございました」
「こちらこそ。急に呼び出してすみませんでした」
「いいえ」
真白は小さく首を横に振った。
「お話しできて、よかったです」
「俺もです」
「少しだけ、気持ちが軽くなりました」
「それならよかったです」
恒一は真白の顔を見る。
店へ入る前よりも表情は柔らかく、小さな鞄を握る手からも力が抜けていた。風に揺れる長い黒髪の向こうで見せた微笑みは、待ち合わせの時より自然だった。
すべてを話したわけではない。
それでも、一人で抱えていたものを少し口にしたことで、何かが変わったのかもしれない。
「真白」
「はい」
「無理に一人になろうとしないでください」
真白の目が、わずかに大きくなる。
「俺が言えることじゃないかもしれませんけど」
「いいえ」
真白は静かに笑った。
「覚えておきます」
「お願いします」
「はい」
二人は駅前で別れた。
歩き出した真白が、数歩進んだところで振り返る。
「恒一様」
「何ですか?」
「また、お話ししてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
「神様のことでも?」
「真白としか話せませんから」
恒一が答えると、真白は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「私も、同じです」
そう言って、真白はもう一度頭を下げた。
恒一はその背中をしばらく見送った。
宿罪。
過去の罪が、魂に残り続けるもの。
終わるまで背負い続ける、呪いのようなもの。
それでも、少しずつ罪を償い、贖罪を重ねていけば、いつか終わらせられるかもしれない。
まだ分からないことは多い。
けれど今日、真白が何を恐れ、なぜ人から離れようとしていたのかを少しだけ知ることができた。
すべてを知るには、まだ時間が必要なのだろう。
なら、待てばいい。




