第194話 重荷の意味
休日の昼前。
朝比奈恒一は、自室のベッドに腰掛けたまま、携帯電話の画面を見つめていた。
表示されているのは、北条真白の連絡先だった。
電話をかけようと思ってから、すでに何分か経っている。
別に、電話をかけること自体が難しいわけではない。
真白とは普段から話しているし、連絡先も交換している。
けれど、今日聞こうとしているのは、学校のことでも陸上部のことでもなかった。
ずっと引っかかっていたこと。
神様が以前、恒一にだけ話したことだった。
真白は、重荷を背負っている。
神様は、そこまでは話した。
けれど、それ以上のことは教えなかった。
恒一が問い返しても、神様は詳しく話そうとしなかった。
本人がいないところでする話ではないと思ったのか。
あるいは、恒一が知るにはまだ早いと考えたのか。
理由は分からない。
ただ、気にはなっていた。
前田千瀬に向かって、真白が告げた言葉も残っている。
――私を嫌いになってください。
あの時、恒一は何かがおかしいと感じた。
千瀬から慕われることを、真白が嫌っているようには見えなかった。
それなのに、真白は自分から距離を取ろうとした。
まるで、誰かに好かれることそのものを恐れているように。
その理由が、神様の言った重荷と関係しているのかもしれない。
恒一は小さく息を吐いた。
聞いていい話なのかは分からない。
だからこそ、無理に聞くつもりはなかった。
話せないと言われたら、それ以上は踏み込まない。
そう決めて、通話ボタンを押した。
呼び出し音は三回ほどで止まった。
『はい。北条です』
「朝比奈です。お休みの日にすみません」
『いえ、大丈夫です。どうかなさいましたか?』
いつもと変わらない、落ち着いた声だった。
その声を聞いた途端、恒一は少しだけ言い出しにくくなった。
それでも、電話をかけた以上、黙っているわけにはいかない。
「今日、少し時間をもらえませんか」
『今日、ですか?』
「はい。話したいことがあります」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『……大切なお話でしょうか』
「俺にとっては、そうです」
『そう、ですか』
真白の声が、わずかに硬くなった気がした。
恒一には、その理由が分からなかった。
急に休日に呼び出されたのだから、不安にさせてしまったのかもしれない。
「都合が悪ければ、別の日でも」
『いえ』
真白は、恒一が言い終えるより先に答えた。
『大丈夫です。参ります』
「ありがとうございます」
『どちらへ伺えばよろしいでしょうか』
恒一は駅前で待ち合わせることを提案した。
学校で話せる内容ではない。
かといって、どちらかの家へ行くほどのことでもなかった。
昼間の喫茶店なら、周囲の客もそれほど気にしないだろう。
時間と場所を決め、電話を切る。
恒一は画面が暗くなった携帯電話を見つめた。
これでよかったのだろうか。
今さら考えても遅い。
真白が来ると言った以上、恒一もきちんと話さなければならなかった。
■駅前
待ち合わせの十五分前に駅前へ着くと、真白はすでに立っていた。
休日のため、制服ではない。
落ち着いた色のワンピースに薄手の上着を羽織り、小さな鞄を両手で持っている。小柄な体と、背中へ流れる長い黒髪には、飾り気の少ない服装がよく似合っていた。
恒一の姿を見つけると、真白は静かに頭を下げた。
「恒一様」
「すみません。待たせましたか」
「いいえ。私が少し早く来ただけです」
いつもの真白だった。
けれど、その表情にはわずかな緊張がある。
恒一が何の話をするのか、分からないからだろう。
「急に呼び出してしまって、すみません」
「いえ」
真白は小さく首を横に振った。
「大切なお話があるとのことでしたので」
「はい」
恒一は近くの喫茶店へ真白を案内した。
休日の昼だったが、店内はそれほど混んでいなかった。
二人は奥の壁際にある、向かい合わせの席へ座る。
注文を終えたあと、恒一は何から話すべきか迷った。
電話では、話したいことがあるとだけ伝えた。
そのせいなのか、真白は普段よりも少し姿勢を正している。
両手は膝の上に置かれ、恒一が口を開くのを待っていた。
先に運ばれてきた水にも、まだ手をつけていない。
「そんなに緊張しなくても大丈夫です」
恒一が言うと、真白はわずかに目を瞬いた。
「緊張しているように見えましたか」
「少しだけ」
「申し訳ありません」
「謝ることじゃないです」
恒一はそう言ったが、真白の緊張を作ったのは自分だった。
大切な話がある、とだけ言われれば、身構えるのも当然だろう。
「悪い話ではありません」
「そうなのですか」
「たぶん」
「たぶん、なのですね」
真白が困ったように言う。
恒一も、自分の説明が下手だったことに気づいた。
「俺が真白に聞きたいことがあるだけです」
「私に?」
「はい」
そこで、店員が注文した飲み物を運んできた。
恒一の前にアイスコーヒーが置かれ、真白の前には紅茶が置かれる。
店員が離れるまで、二人は黙っていた。
真白はカップへ手を伸ばしたものの、すぐには口をつけなかった。
恒一もストローへ手を伸ばさず、そのまま真白を見る。
「前に、神様と話した時のことなんですけど」
真白の指先が、カップの取っ手に触れたまま止まった。
「神様と、ですか」
「はい」
真白の表情から、先ほどまでの緊張が少し薄れた。
代わりに、戸惑いが浮かぶ。
恒一が神様と話したこと自体は、真白も知っている。
けれど、その場に真白はいなかった。
「神様が、真白には重荷があると言っていました」
「……神様が、そのようなことを」
「はい」
真白は静かに目を伏せた。
重荷があることそのものに驚いたわけではない。
恒一がそれを知っていることに驚いたようだった。
真白は紅茶から手を離し、膝の上で両手を重ねる。
「神様は、どこまでお話しされたのですか」
「真白が、何か重いものを背負っているということだけです」
「それ以上は?」
「教えてくれませんでした」
真白は少し考えるように黙った。
「俺も聞こうとはしました。でも、神様は詳しく話しませんでした」
「そうでしたか」
「本人がいないところで話すべきことじゃないと思ったのかもしれません」
恒一は、自分の考えをそのまま話した。
「真白本人から聞くべきだと思ったのかもしれないし、まだ俺が知るには早いと思ったのかもしれません」
「……」
「理由は分かりません」
真白はしばらく俯いていた。
やがて、何かに気づいたように顔を上げる。
「もしかして」
「はい」
「神様がおっしゃった重荷というのは、宿罪のことかもしれません」
「宿罪?」
恒一にとって、初めて聞く言葉だった。
真白は小さく頷いた。
「はい。宿る罪と書いて、宿罪と申します」
「それが、真白の背負っている重荷なんですか」
「おそらくは」
真白の表情が少しだけ硬くなる。
「神様がほかに何かを指していないのであれば、私が背負っている最も大きな重荷は、それです」
「そうですか」
恒一は、宿罪という言葉を頭の中で繰り返した。
聞いたことがないわけではない。
けれど、真白が使った言葉には、もっと特別な意味があるように聞こえた。
「神様は、その言葉も教えてくれませんでした」
「きっと、私から話すべきことだと思われたのでしょう」
「やっぱり、そうですか」
「はい」
真白は、ほんの少しだけ表情を緩める。
「神様らしいと思います」
「そうですか?」
「あの方は、何でも軽く話すように見えて、大切なことは勝手に話されませんから」
「俺には、余計なこともずいぶん話しますけど」
「それも神様らしいです」
真白の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
その笑みを見て、恒一も少しだけ肩の力を抜いた。
神様について、こうして普通に話せる相手は真白しかいない。
ほかの誰かに話しても、信じてもらえるとは思えなかった。
恋愛台帳。
白い空間。
白髪に白ひげの老人。
口に出して並べれば、どう考えても怪しい話だった。
「こういう話ができるのは、真白だけですね」
恒一が何気なく言うと、真白は顔を上げた。
「私だけ、ですか」
「はい。神様の話をしても通じる人は、ほかにいませんから」
「……そうですね」
真白の声が少し柔らかくなる。
「私も、今は恒一様にしかお話しできません」
ただ事実を言っただけなのだろう。
それでも、恒一は少しだけ返事に迷った。
真白にしか話せない。
真白も恒一にしか話せない。
そう考えると、自分たちの間にだけある秘密のようにも聞こえた。
恒一はアイスコーヒーへ手を伸ばし、一口飲んだ。
「それで、聞きたいんです」
恒一は、真白の目を見た。
ここから先が、今日いちばん聞きたかったことだった。




