第193話 北条はやはり強敵だった
■陸上部グラウンド
放課後。
陸上部のグラウンドには、練習終わりの空気が流れていた。
走り終えた部員たちが片づけを始め、白石が使い終わったコーンを集めている。
いつも通りの陸上部だった。
ただ、巴の中だけは、少しだけいつも通りではなかった。
朝から、気になっていることがある。
北条真白が、朝比奈家に行った。
それだけなら、以前にもあった。
北条が朝比奈家の台所に立つことも、巴は知っている。
何度か朝比奈家で料理を作ったことがある、という話も聞いていた。
だが、今回は少し違った。
朝比奈家の方から、北条を呼んだ。
恒一の父が、北条の朝ごはんを恋しがった。
恒一が、北条に朝ごはんを作ってほしいと頼んだ。
北条はそれを受けて、朝から朝比奈家に行った。
そして、朝比奈家の台所に立った。
朝ごはん。
家の台所。
父親と母親。
ただ遊びに行くより、ずっと近い。
ただ弁当を作るより、ずっと家族に近い。
それは、巴には少しだけ重く聞こえた。
「真田」
声をかけられて、巴は顔を上げた。
恒一が、タオルで汗を拭きながらこちらへ歩いてくる。
「今日のフォーム、さっきので良かったか?」
「うん」
巴はうなずいた。
「後半、少し肩が上がっていたけど、最後は戻っていた」
「そうか」
「あと、足の運びは悪くなかった」
「分かった。ありがとう」
恒一は素直に礼を言った。
いつも通りだった。
いつも通り、真面目で、素直で、こちらの言葉をちゃんと聞く。
そのいつも通りが、今日は少しだけ胸に引っかかった。
「朝比奈」
「何だ?」
「少し聞いてもいい?」
「ああ」
「朝のこと」
恒一の表情が、わずかに変わった。
「朝?」
「北条が、朝比奈家に行ったって聞いた」
「ああ」
「朝ごはんを作りに」
「ああ」
恒一は、特に隠す様子もなくうなずいた。
それが、余計に巴の胸をざわつかせた。
「朝比奈が頼んだの?」
「頼んだ」
「北条に?」
「ああ。真白に頼んだ」
巴は、一瞬だけ黙った。
真白。
自然に出た名前だった。
北条がそれを嫌がっていないことは、巴も知っている。
恒一が悪気なくそう呼んでいることも、分かっている。
それでも、少しだけ引っかかった。
自分は、基本的にまだ「真田」だ。
それが嫌だと言うほどではない。
今さら急に名前で呼ばれても、たぶん落ち着かない。
でも、朝比奈家の朝ごはんの話と一緒に聞くと、その「真白」という呼び方まで、少し近く聞こえた。
「……そう」
「どうした?」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「顔に出てる?」
「少し」
恒一は正直に言った。
巴は小さく息を吐いた。
ここで隠しても、たぶん分かる。
それに、自分で聞き始めたのだから、中途半端にやめるのも違う。
「朝比奈家で、北条はどうだった?」
「どうって?」
「普通に、台所に立っていた?」
「ああ」
「お父さんとお母さんは?」
「かなり喜んでいた」
「かなり」
「ああ。父さんは、ずっと真白ちゃんの味噌汁がまた飲めるって騒いでいた」
「……そう」
「母さんも嬉しそうだった。真白が来ると、家の空気が少し柔らかくなるからな」
巴は、また黙った。
分かる。
北条には、そういう空気がある。
丁寧で、静かで、小柄で、白い肌に黒髪が映える。
台所に立っていても、押しつけがましさがない。
朝比奈家の母親が可愛がるのも分かる。
父親が喜ぶのも分かる。
分かるから、余計に困る。
「朝比奈」
「何だ?」
「それ、かなり近くない?」
「近い?」
「家に行くとか、料理を作るとか」
「ああ」
「朝ごはんって、かなり家族っぽい」
言ってから、巴は少しだけ後悔した。
責めるつもりではなかった。
ただ、気になっていたことが、そのまま口から出てしまった。
恒一は怒らなかった。
少し考えてから、静かに言う。
「そうかもしれない」
「……否定しないんだ」
「否定する理由がない」
「そう」
「真白は、父さんと母さんにもよくしてくれているし、俺も助かっている。家に来てもらったのは、本当にありがたかった」
「……」
「でも、真田が気にするのも分かる」
巴は顔を上げた。
「分かる?」
「ああ」
「本当に?」
「完全には分かってないかもしれない。でも、近く見えるんだろ」
「……うん」
巴は小さく認めた。
「近く見えた」
「そうか」
「北条が悪いとは思っていない」
「ああ」
「朝比奈が悪いとも、たぶん思っていない」
「たぶん?」
「少しだけ、思ったかもしれない」
「そうか」
恒一は真面目な顔でうなずいた。
「なら、悪かった」
「謝らないで」
「でも、嫌な気持ちにさせたなら」
「違う」
巴は首を横に振った。
「嫌というより、焦っただけ」
「焦った?」
「うん」
巴は、自分でも整理しきれていない気持ちを、少しずつ言葉にした。
「北条は、可愛い」
「……」
「丁寧で、料理もできて、朝比奈家に自然に入れる」
「……」
「お父さんとお母さんにも気に入られている」
「……」
「それを聞いたら、思ったより強敵だった」
「強敵」
「うん」
巴は真剣にうなずいた。
「北条は強敵だった」
恒一は少し考えた。
それから、真面目な顔で聞き返す。
「何の強敵だ?」
巴は言葉に詰まった。
「……何の」
「ああ。北条が強いのは分かる。薙刀もかなり強いし、礼儀もきちんとしている。料理もできる」
「そういう意味ではない」
「違うのか」
「違う」
「じゃあ、何の強敵なんだ?」
巴は、すぐには答えられなかった。
恋の強敵。
そう言えばいいのかもしれない。
けれど、それをそのまま言うのは、少し恥ずかしかった。
「……朝比奈には、まだ分からなくていい」
「そうなのか」
「うん」
巴は小さく息を吐いた。
不満を言いたかっただけだった。
北条が朝比奈家に近く見えること。
恒一が北条を自然に名前で呼ぶこと。
朝ごはんという言葉が、思ったより家族に近く聞こえたこと。
それを少しだけ言えれば、それでよかった。
だが、言ってみると、やはり胸の奥は落ち着かなかった。
「真田」
「何?」
「真白には、真白の良さがあると思う」
「うん」
「礼儀正しいし、丁寧だし、料理もできる。父さんと母さんが気に入るのも分かる」
「うん」
巴は、少しだけ視線を落とした。
分かっていることを、恒一の口から聞くのは、やはり少し痛い。
だが、恒一はそこで終わらなかった。
「でも、真田には真田にしかないものがあるだろ」
巴は動きを止めた。
「私にしかないもの?」
「ああ」
「何?」
「走っている時の真田は、見ていて気持ちいい」
「走り?」
「うん。真っすぐで、無駄がなくて、見ているこっちまで背筋が伸びる」
「……」
「道場で構えている時もそうだ。空気が変わる」
「空気」
「ああ。ああいうのは、真白とは違う」
巴は、何も言えなかった。
褒められている。
たぶん、かなり褒められている。
可愛いとは違う。
でも、軽い慰めではない。
恒一は本当にそう思って言っている。
それが分かるから、すぐに返事ができなかった。
「それに」
「……それに?」
「真田がいると安心する」
胸の奥が、変なふうに跳ねた。
安心。
その言葉は、強いと言われるのとも、頼れると言われるのとも少し違った。
「安心」
「ああ」
「それは、可愛いとは違う」
「そうかもしれない」
「……」
「でも、俺にとっては大事だ」
巴は、口を閉じた。
ずるい、と思った。
可愛いと言われたい。
そう思っているのに、恒一は違う言葉で、別の場所をちゃんと突いてくる。
可愛いとは言わない。
でも、どうでもいいとも思っていない。
それが分かる。
分かってしまう。
「朝比奈」
「何だ?」
「そういう言い方は、少し困る」
「困る?」
「うん」
「悪かったか?」
「悪くはない」
「じゃあ」
「悪くはないけど、困る」
「難しいな」
「うん。難しい」
巴は、少しだけ息を吐いた。
胸の奥にあったざわつきは、完全には消えていない。
北条が朝比奈家に近いことは、やはり気になる。
でも、今の言葉で、少しだけ別のものも残った。
真田には真田にしかないものがある。
真田がいると安心する。
それは、今の巴には十分すぎるくらい大きかった。
「朝比奈」
「何だ?」
「私も、朝比奈家に朝ごはんを作りに行ってもいい?」
恒一は少し目を丸くした。
「真田が?」
「うん」
「俺の家に?」
「うん」
「朝食を作りに?」
「うん」
巴は、少しだけ緊張していた。
北条みたいに自然にできる自信はない。
料理も、得意とは言いづらい。
それでも、何もしないまま見ているのは嫌だった。
「駄目なら、いい」
「駄目じゃない」
恒一はすぐに言った。
その声が思ったより明るくて、巴は少し驚いた。
「本当に?」
「ああ。真田が作ってくれるなら、父さんも母さんも喜ぶと思う」
「……そうかな」
「喜ぶ。俺も嬉しい」
巴の胸が、また変なふうに跳ねた。
「嬉しい?」
「ああ。真田が、俺の家のことまで考えてくれるなら、ありがたい」
巴は少しだけ視線をそらした。
まずい。
思っていたより、嬉しい。
「なら、練習する」
「料理の?」
「うん」
「無理はするなよ」
「しない」
巴はすぐに答えた。
だが、恒一は少し疑うように見た。
「本当に?」
「……努力する」
「それは少し心配だな」
「大丈夫」
巴は真面目に言った。
「北条は強敵だから」
「何の強敵かは分からないけどな」
「朝比奈には、まだ分からなくていい」
「そうか」
「うん」
巴は、ほんの少しだけ笑った。
「ありがとう」
「俺は、何か礼を言われることをしたか?」
「した」
「そうか」
「うん」
恒一は少し照れたように頬をかいた。
巴はそれを見て、また少し胸が落ち着かなくなる。
可愛いと思われたい。
その気持ちは、まだ消えていない。
けれど、今は少しだけ違うことも思った。
可愛いだけではなく。
近くにいたい。
同じ場所に立ちたい。
真白とは違う形で、恒一の中に残りたい。
それは、たぶん贅沢な願いだった。
でも、消えそうにはなかった。
「真田」
「何?」
「練習、もう一本見るか?」
「見る」
「厳しめか?」
「普通」
「普通か」
「うん」
巴は少しだけ考えてから言った。
「でも、考えごとをしながら走ったら厳しくする」
「分かった」
「肩が上がっても厳しくする」
「分かった」
「あと、無理して一人で抱えようとしたら、もっと厳しくする」
恒一は、一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「ああ。分かった」
「返事」
「分かった、真田」
いつもの呼び方なのに、さっきより少し近く聞こえた。
ずるい。
やはり、ずるい。
北条は強敵だった。
でも。
恒一も、別の意味でかなり強敵だった。
巴はそう思いながら、グラウンドへ向き直った。




