第192話 お迎えモードの朝
■朝比奈家・玄関
翌朝。
恒一が目を覚ました時、家の中はすでに落ち着きがなかった。
普段より早い時間なのに、台所からは食器の音が聞こえる。
玄関の方では、父が何度も時計を見ていた。
「父さん」
「なんだ」
「落ち着け」
「落ち着いている」
「全然落ち着いてない」
父は玄関の前に立っていた。
まるで大事な客人を迎える使用人のように、背筋を伸ばしている。
いや、使用人というより、娘を迎える父親のようだった。
かなり面倒な方の父親だった。
「真白が来るのはもう少し後だろ」
「知っている」
「じゃあ座って待てよ」
「迎える側が座ってどうする」
「普通に待てばいいだろ」
「真白ちゃんが来るんだぞ」
「分かってる」
「なら分かるだろ」
「分からない」
母は台所から顔を出し、にこにこと笑った。
「お父さん、昨日から楽しみにしていたのよ」
「昨日からどころじゃない」
父は真剣な顔で言った。
「真白ちゃんが来なくなってから、ずっとだ」
「重い」
恒一がそう言った時、玄関のチャイムが鳴った。
父が動いた。
速かった。
今朝一番の速さだった。
「待て、父さん。俺が出る」
「なぜだ」
「落ち着けって言ってるだろ」
「私は落ち着いている」
「落ち着いてる人はそんな速さで玄関に行かない」
恒一は父を制し、玄関へ向かった。
扉を開ける。
そこには、真白が立っていた。
制服姿ではなく、家に来るための落ち着いた服装だった。
両手には、小さな手提げ袋を持っている。
久しぶりに朝比奈家の玄関に立つ真白は、学校で見る時とは少し違って見えた。
白い肌に、黒い髪がよく映える。
頬の横に落ちた黒髪の影が、その白さを余計に静かに見せていた。
小柄な身体で、手提げ袋を両手で持ち、きちんと背筋を伸ばしている。
緊張しているようにも見えた。
けれど、呼ばれた場所にきちんと立つ、そういう丁寧さがあった。
「おはようございます、恒一様」
「おはよう、北条」
「本日は、よろしくお願いいたします」
真白は深く頭を下げた。
黒髪がさらりと肩の前へ落ちる。
その動きまで、どこか丁寧だった。
「こちらこそ。朝早くから悪いな」
「いえ。呼んでいただけて、嬉しいです」
真白は顔を上げた。
少しだけ頬が赤い。
その表情を見て、恒一は昨日、教室で名前を呼んでしまった時のことを思い出しそうになった。
だが、その直後。
恒一の背後から父の声が飛んだ。
「真白ちゃん!」
真白が顔を上げる。
「おはようございます、お父様」
「おはよう!」
父は満面の笑みだった。
泣きそうでもあった。
かなり危なかった。
恒一はすぐに父を見る。
「父さん、泣くなよ」
「泣いてない」
「もう目が潤んでる」
「朝日がまぶしいだけだ」
「玄関に朝日は入ってない」
母もやって来た。
「真白ちゃん、おはよう」
「おはようございます、お母様」
「来てくれて嬉しいわ」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくていいのよ」
母は嬉しそうに真白を迎え入れた。
父は横で何度もうなずいている。
まるで式典だった。
朝比奈家の玄関が、真白一人の登場で完全にお迎え会場になっていた。
恒一は小さくため息をついた。
「北条、とりあえず上がって」
「はい。失礼いたします」
真白が靴をそろえて上がる。
靴の向きを整え、ほんの少しだけ端に寄せる。
それだけのことなのに、朝比奈家の玄関が、急にきちんとした場所になったように見えた。
その姿を見て、父が恒一の背中を叩いた。
ばしん。
「痛い」
「よくやった、恒一」
「何が」
「よく真白ちゃんを呼んだ」
「昨日、父さんが頼めって言ったんだろ」
「それでもよくやった」
ばしん。
「痛いって」
「今日はいい朝だ」
「俺の背中はよくない」
真白が心配そうに恒一を見る。
「恒一様、大丈夫ですか?」
「大丈夫。父さんがうるさいだけだから」
「うるさいとはなんだ」
父は真剣な顔で言った。
「感謝だ」
「感謝の仕方が痛い」
■朝比奈家・台所
台所に入ると、母がすでに下準備をしていた。
真白は手を洗い、すぐに母の横に立つ。
袖口を少し整え、黒髪が邪魔にならないように耳の後ろへかける。
白い指先が水に濡れ、布巾で丁寧に拭かれた。
「お手伝いします」
「ありがとう。じゃあ、お味噌汁をお願いしてもいい?」
「はい」
真白は丁寧にうなずいた。
その動きは、前に来ていた時よりも少し落ち着いていた。
無理に張り切っているというより、ここに立てること自体が嬉しいように見えた。
小柄な真白が台所に立つと、包丁も鍋も少し大きく見える。
だが、手元は危なげなかった。
白い肌と黒髪の可憐さに反して、味噌を溶く指先には落ち着きがある。
丁寧に積み重ねてきたものが、そのまま動きに出ているようだった。
父は台所の入口から、その様子を見ていた。
「父さん」
「なんだ」
「邪魔」
「見ているだけだ」
「その見ているだけが邪魔なんだよ」
「可愛い娘が料理をしている姿を見守るのは父の務めだ」
「娘じゃない」
「ほぼ娘だ!」
「違う」
真白が味噌汁の鍋を見ながら、小さく笑った。
黒髪の横顔に、湯気が薄くかかる。
白い頬が少しだけ赤くなっていた。
その横顔は、少しだけ嬉しそうだった。
母も楽しそうにしている。
朝比奈家の台所は、いつもよりずっと騒がしかった。
けれど、不思議と嫌な騒がしさではなかった。
■朝比奈家・食卓
朝食が並ぶと、父は椅子に座ったまま背筋を伸ばした。
焼き魚。
卵焼き。
味噌汁。
小鉢。
特別な料理ではない。
けれど、真白が手伝ったというだけで、父には特別な朝食に見えているらしい。
湯気の向こうで、真白は少し緊張した顔をしていた。
膝の上で白い指先をそろえている。
黒髪は頬の横で静かに落ちていて、いつもより少しだけ大人しく見えた。
それでも、恒一には分かった。
真白は、期待されていることを怖がっているのではない。
喜んでもらえるかを、真剣に気にしているだけだった。
「いただきます」
全員で手を合わせた。
父はまず味噌汁を飲んだ。
そして、目を閉じた。
「おいしい」
真白の肩が小さく揺れた。
「ありがとうございます」
「真白ちゃん」
「はい」
「また来てくれるかい?」
「父さん、早い」
「大事なことは早めに言うべきだ」
「まだ一口目だろ」
父は真剣だった。
真白は少し赤くなりながら、うなずいた。
「ご迷惑でなければ」
「迷惑なわけがない」
父は即答した。
「なあ、恒一」
「そこで俺に振るな」
「美味しいだろう」
「まあ、美味しいよ」
ばしん。
恒一の背中が叩かれた。
「痛い」
「よく言った」
「美味しいって言っただけだろ」
「真白ちゃんの料理をきちんと褒める。大事なことだ」
「叩くほどのことじゃない」
「いや、大事だ」
ばしん。
「だから痛いって」
真白が慌てて箸を置いた。
「お、お父様。恒一様が痛そうです」
「そうか」
父はすぐに手を止めた。
「すまない、恒一」
「真白が言うとすぐ止まるんだな」
「当然だ」
「当然なのか」
母は横で楽しそうに笑っている。
「賑やかね」
「賑やかすぎる」
恒一はため息をつきながら、もう一口味噌汁を飲んだ。
確かに美味しい。
それは本当だった。
真白は、恒一の反応を少し不安そうに見ている。
だから、恒一はもう一度言った。
「北条」
「はい」
「本当に美味しい」
真白の顔が、ぱっと明るくなった。
白い頬に赤みが広がる。
黒髪の奥で、目元が少しだけ緩んだ。
「ありがとうございます」
ばしん。
「痛い!」
「よく言った」
「今のは分かってて叩いただろ」
「すまない。つい」
「ついで済ませるな」
父は満足そうに味噌汁を飲んだ。
真白は赤くなったまま、嬉しそうにうつむいている。
母はにこにこしている。
朝比奈家の朝は、完全にお祭り騒ぎだった。
■朝比奈家・玄関
朝食を終え、学校へ向かう時間になった。
真白は玄関で丁寧に頭を下げた。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそありがとう、真白ちゃん」
母が優しく言った。
「また来てね」
「はい」
父も真剣な顔でうなずいた。
「真白ちゃん、必ずまた来てくれ」
「はい。ご迷惑でなければ」
「迷惑なわけがない!」
父は言い切った。
それから、恒一の背中を叩いた。
ばしん。
「痛い」
「よくやった」
「だから何が」
「真白ちゃんを呼んだことだ」
「昨日も言ってただろ」
「何度でも言う」
ばしん。
「痛いって」
「恒一」
「何だよ」
「必ず予定を確認して、また連絡を取れ」
「命令か」
「父からの頼みだ」
「ほぼ命令だろ」
「大事なことだ」
父は真剣だった。
真剣すぎて、逆に面倒くさい。
「真白ちゃんも忙しいんだから、無理はさせるな」
「それは分かってる」
「だが、来られる時は来てもらえ」
「矛盾してないか」
「していない。真白ちゃんの都合を最優先しながら、最大限来てもらう」
「面倒な言い方だな」
「大事な調整だ」
真白が横で小さく笑った。
「私は、来られる時は伺いたいです」
父の顔が一瞬で明るくなった。
「聞いたか、恒一」
「聞いた」
「連絡を取れ」
「分かった」
ばしん。
「痛い!」
「よし」
「よしじゃない」
真白が心配そうに恒一の背中を見る。
「恒一様、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫。父さんが朝から騒がしいだけだから」
「すまない」
父は今度こそ少し反省した顔をした。
けれど、その顔はすぐに緩んだ。
「でも、今日はいい朝だった」
「それは否定しない」
恒一は小さく言った。
父は嬉しそうだった。
母も嬉しそうだった。
真白も嬉しそうだった。
背中は少し痛い。
かなり痛い。
だが、それ以外は悪くなかった。
「行こう、北条」
「はい、恒一様」
真白は丁寧に一礼し、恒一の隣に並んだ。
玄関の外へ出ると、朝の空気が少し冷たかった。
その風に、真白の黒髪がふわりと揺れた。
白い頬の横を、黒い髪が流れる。
さっきまで朝比奈家の台所にいたせいか、真白の表情にはまだ少しだけ温かさが残っていた。
真白は隣で、まだ少し嬉しそうにしている。
「北条」
「はい」
「朝から大変だっただろ」
「いえ」
真白は首を横に振った。
「とても嬉しかったです」
「そうか」
「はい。お父様にも、お母様にも、喜んでいただけました」
「かなり喜んでたな」
「はい」
真白は小さく笑った。
「私も、嬉しかったです」
その顔を見て、恒一は何も言えなくなった。
朝から父に背中を何度も叩かれた。
母は完全に真白を歓迎していた。
家の中はお祭り騒ぎだった。
けれど、真白がこれだけ嬉しそうなら。
まあ、いいか。
恒一はそう思うことにした。
ただし、次に来てもらう時は、父に背中を叩く回数を制限させる。
それだけは、心に決めた。
この朝を境に、恒一が真白を名前で呼ぶことは、少しずつ増えていった。
それが良いことなのか、まずいことなのか。
この時の恒一には、まだよく分かっていなかった。




