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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第192話 お迎えモードの朝

■朝比奈家・玄関


 翌朝。


 恒一が目を覚ました時、家の中はすでに落ち着きがなかった。


 普段より早い時間なのに、台所からは食器の音が聞こえる。


 玄関の方では、父が何度も時計を見ていた。


「父さん」


「なんだ」


「落ち着け」


「落ち着いている」


「全然落ち着いてない」


 父は玄関の前に立っていた。


 まるで大事な客人を迎える使用人のように、背筋を伸ばしている。


 いや、使用人というより、娘を迎える父親のようだった。


 かなり面倒な方の父親だった。


「真白が来るのはもう少し後だろ」


「知っている」


「じゃあ座って待てよ」


「迎える側が座ってどうする」


「普通に待てばいいだろ」


「真白ちゃんが来るんだぞ」


「分かってる」


「なら分かるだろ」


「分からない」


 母は台所から顔を出し、にこにこと笑った。


「お父さん、昨日から楽しみにしていたのよ」


「昨日からどころじゃない」


 父は真剣な顔で言った。


「真白ちゃんが来なくなってから、ずっとだ」


「重い」


 恒一がそう言った時、玄関のチャイムが鳴った。


 父が動いた。


 速かった。


 今朝一番の速さだった。


「待て、父さん。俺が出る」


「なぜだ」


「落ち着けって言ってるだろ」


「私は落ち着いている」


「落ち着いてる人はそんな速さで玄関に行かない」


 恒一は父を制し、玄関へ向かった。


 扉を開ける。


 そこには、真白が立っていた。


 制服姿ではなく、家に来るための落ち着いた服装だった。


 両手には、小さな手提げ袋を持っている。


 久しぶりに朝比奈家の玄関に立つ真白は、学校で見る時とは少し違って見えた。


 白い肌に、黒い髪がよく映える。


 頬の横に落ちた黒髪の影が、その白さを余計に静かに見せていた。


 小柄な身体で、手提げ袋を両手で持ち、きちんと背筋を伸ばしている。


 緊張しているようにも見えた。


 けれど、呼ばれた場所にきちんと立つ、そういう丁寧さがあった。


「おはようございます、恒一様」


「おはよう、北条」


「本日は、よろしくお願いいたします」


 真白は深く頭を下げた。


 黒髪がさらりと肩の前へ落ちる。


 その動きまで、どこか丁寧だった。


「こちらこそ。朝早くから悪いな」


「いえ。呼んでいただけて、嬉しいです」


 真白は顔を上げた。


 少しだけ頬が赤い。


 その表情を見て、恒一は昨日、教室で名前を呼んでしまった時のことを思い出しそうになった。


 だが、その直後。


 恒一の背後から父の声が飛んだ。


「真白ちゃん!」


 真白が顔を上げる。


「おはようございます、お父様」


「おはよう!」


 父は満面の笑みだった。


 泣きそうでもあった。


 かなり危なかった。


 恒一はすぐに父を見る。


「父さん、泣くなよ」


「泣いてない」


「もう目が潤んでる」


「朝日がまぶしいだけだ」


「玄関に朝日は入ってない」


 母もやって来た。


「真白ちゃん、おはよう」


「おはようございます、お母様」


「来てくれて嬉しいわ」


「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」


「そんなにかしこまらなくていいのよ」


 母は嬉しそうに真白を迎え入れた。


 父は横で何度もうなずいている。


 まるで式典だった。


 朝比奈家の玄関が、真白一人の登場で完全にお迎え会場になっていた。


 恒一は小さくため息をついた。


「北条、とりあえず上がって」


「はい。失礼いたします」


 真白が靴をそろえて上がる。


 靴の向きを整え、ほんの少しだけ端に寄せる。


 それだけのことなのに、朝比奈家の玄関が、急にきちんとした場所になったように見えた。


 その姿を見て、父が恒一の背中を叩いた。


 ばしん。


「痛い」


「よくやった、恒一」


「何が」


「よく真白ちゃんを呼んだ」


「昨日、父さんが頼めって言ったんだろ」


「それでもよくやった」


 ばしん。


「痛いって」


「今日はいい朝だ」


「俺の背中はよくない」


 真白が心配そうに恒一を見る。


「恒一様、大丈夫ですか?」


「大丈夫。父さんがうるさいだけだから」


「うるさいとはなんだ」


 父は真剣な顔で言った。


「感謝だ」


「感謝の仕方が痛い」


■朝比奈家・台所


 台所に入ると、母がすでに下準備をしていた。


 真白は手を洗い、すぐに母の横に立つ。


 袖口を少し整え、黒髪が邪魔にならないように耳の後ろへかける。


 白い指先が水に濡れ、布巾で丁寧に拭かれた。


「お手伝いします」


「ありがとう。じゃあ、お味噌汁をお願いしてもいい?」


「はい」


 真白は丁寧にうなずいた。


 その動きは、前に来ていた時よりも少し落ち着いていた。


 無理に張り切っているというより、ここに立てること自体が嬉しいように見えた。


 小柄な真白が台所に立つと、包丁も鍋も少し大きく見える。


 だが、手元は危なげなかった。


 白い肌と黒髪の可憐さに反して、味噌を溶く指先には落ち着きがある。


 丁寧に積み重ねてきたものが、そのまま動きに出ているようだった。


 父は台所の入口から、その様子を見ていた。


「父さん」


「なんだ」


「邪魔」


「見ているだけだ」


「その見ているだけが邪魔なんだよ」


「可愛い娘が料理をしている姿を見守るのは父の務めだ」


「娘じゃない」


「ほぼ娘だ!」


「違う」


 真白が味噌汁の鍋を見ながら、小さく笑った。


 黒髪の横顔に、湯気が薄くかかる。


 白い頬が少しだけ赤くなっていた。


 その横顔は、少しだけ嬉しそうだった。


 母も楽しそうにしている。


 朝比奈家の台所は、いつもよりずっと騒がしかった。


 けれど、不思議と嫌な騒がしさではなかった。


■朝比奈家・食卓


 朝食が並ぶと、父は椅子に座ったまま背筋を伸ばした。


 焼き魚。


 卵焼き。


 味噌汁。


 小鉢。


 特別な料理ではない。


 けれど、真白が手伝ったというだけで、父には特別な朝食に見えているらしい。


 湯気の向こうで、真白は少し緊張した顔をしていた。


 膝の上で白い指先をそろえている。


 黒髪は頬の横で静かに落ちていて、いつもより少しだけ大人しく見えた。


 それでも、恒一には分かった。


 真白は、期待されていることを怖がっているのではない。


 喜んでもらえるかを、真剣に気にしているだけだった。


「いただきます」


 全員で手を合わせた。


 父はまず味噌汁を飲んだ。


 そして、目を閉じた。


「おいしい」


 真白の肩が小さく揺れた。


「ありがとうございます」


「真白ちゃん」


「はい」


「また来てくれるかい?」


「父さん、早い」


「大事なことは早めに言うべきだ」


「まだ一口目だろ」


 父は真剣だった。


 真白は少し赤くなりながら、うなずいた。


「ご迷惑でなければ」


「迷惑なわけがない」


 父は即答した。


「なあ、恒一」


「そこで俺に振るな」


「美味しいだろう」


「まあ、美味しいよ」


 ばしん。


 恒一の背中が叩かれた。


「痛い」


「よく言った」


「美味しいって言っただけだろ」


「真白ちゃんの料理をきちんと褒める。大事なことだ」


「叩くほどのことじゃない」


「いや、大事だ」


 ばしん。


「だから痛いって」


 真白が慌てて箸を置いた。


「お、お父様。恒一様が痛そうです」


「そうか」


 父はすぐに手を止めた。


「すまない、恒一」


「真白が言うとすぐ止まるんだな」


「当然だ」


「当然なのか」


 母は横で楽しそうに笑っている。


「賑やかね」


「賑やかすぎる」


 恒一はため息をつきながら、もう一口味噌汁を飲んだ。


 確かに美味しい。


 それは本当だった。


 真白は、恒一の反応を少し不安そうに見ている。


 だから、恒一はもう一度言った。


「北条」


「はい」


「本当に美味しい」


 真白の顔が、ぱっと明るくなった。


 白い頬に赤みが広がる。


 黒髪の奥で、目元が少しだけ緩んだ。


「ありがとうございます」


 ばしん。


「痛い!」


「よく言った」


「今のは分かってて叩いただろ」


「すまない。つい」


「ついで済ませるな」


 父は満足そうに味噌汁を飲んだ。


 真白は赤くなったまま、嬉しそうにうつむいている。


 母はにこにこしている。


 朝比奈家の朝は、完全にお祭り騒ぎだった。


■朝比奈家・玄関


 朝食を終え、学校へ向かう時間になった。


 真白は玄関で丁寧に頭を下げた。


「本日はありがとうございました」


「こちらこそありがとう、真白ちゃん」


 母が優しく言った。


「また来てね」


「はい」


 父も真剣な顔でうなずいた。


「真白ちゃん、必ずまた来てくれ」


「はい。ご迷惑でなければ」


「迷惑なわけがない!」


 父は言い切った。


 それから、恒一の背中を叩いた。


 ばしん。


「痛い」


「よくやった」


「だから何が」


「真白ちゃんを呼んだことだ」


「昨日も言ってただろ」


「何度でも言う」


 ばしん。


「痛いって」


「恒一」


「何だよ」


「必ず予定を確認して、また連絡を取れ」


「命令か」


「父からの頼みだ」


「ほぼ命令だろ」


「大事なことだ」


 父は真剣だった。


 真剣すぎて、逆に面倒くさい。


「真白ちゃんも忙しいんだから、無理はさせるな」


「それは分かってる」


「だが、来られる時は来てもらえ」


「矛盾してないか」


「していない。真白ちゃんの都合を最優先しながら、最大限来てもらう」


「面倒な言い方だな」


「大事な調整だ」


 真白が横で小さく笑った。


「私は、来られる時は伺いたいです」


 父の顔が一瞬で明るくなった。


「聞いたか、恒一」


「聞いた」


「連絡を取れ」


「分かった」


 ばしん。


「痛い!」


「よし」


「よしじゃない」


 真白が心配そうに恒一の背中を見る。


「恒一様、本当に大丈夫ですか?」


「大丈夫。父さんが朝から騒がしいだけだから」


「すまない」


 父は今度こそ少し反省した顔をした。


 けれど、その顔はすぐに緩んだ。


「でも、今日はいい朝だった」


「それは否定しない」


 恒一は小さく言った。


 父は嬉しそうだった。


 母も嬉しそうだった。


 真白も嬉しそうだった。


 背中は少し痛い。


 かなり痛い。


 だが、それ以外は悪くなかった。


「行こう、北条」


「はい、恒一様」


 真白は丁寧に一礼し、恒一の隣に並んだ。


 玄関の外へ出ると、朝の空気が少し冷たかった。


 その風に、真白の黒髪がふわりと揺れた。


 白い頬の横を、黒い髪が流れる。


 さっきまで朝比奈家の台所にいたせいか、真白の表情にはまだ少しだけ温かさが残っていた。


 真白は隣で、まだ少し嬉しそうにしている。


「北条」


「はい」


「朝から大変だっただろ」


「いえ」


 真白は首を横に振った。


「とても嬉しかったです」


「そうか」


「はい。お父様にも、お母様にも、喜んでいただけました」


「かなり喜んでたな」


「はい」


 真白は小さく笑った。


「私も、嬉しかったです」


 その顔を見て、恒一は何も言えなくなった。


 朝から父に背中を何度も叩かれた。


 母は完全に真白を歓迎していた。


 家の中はお祭り騒ぎだった。


 けれど、真白がこれだけ嬉しそうなら。


 まあ、いいか。


 恒一はそう思うことにした。


 ただし、次に来てもらう時は、父に背中を叩く回数を制限させる。


 それだけは、心に決めた。


この朝を境に、恒一が真白を名前で呼ぶことは、少しずつ増えていった。


 それが良いことなのか、まずいことなのか。


 この時の恒一には、まだよく分かっていなかった。

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