第191話 朝ごはんを作ってほしい
■二年A組
学校に着いてから、恒一は少し迷った。
電話でもよかった。
けれど、同じ教室にいるのだから、直接話した方が早い。
恒一は席に荷物を置き、近くの席にいる真白を見る。
真白は、恒一の視線に気づくとすぐに顔を上げた。
「恒一様」
「北条、ちょっといいか?」
「はい」
真白はすぐに姿勢を正した。
その反応があまりに自然で、恒一は少しだけ申し訳なくなる。
「朝から悪い」
「いえ。恒一様に呼ばれるのは、嬉しいです」
「そうか」
「はい」
真白は小さくうなずいた。
恒一は、なるべく普通に言うことにした。
「明日の朝なんだけど」
「はい」
「うちに来て、朝ごはんを作ってほしいんだ。真白に!」
言ってから、恒一は少し遅れて気づいた。
今、名前で呼んだ。
真白も気づいていた。
動きが止まっている。
白い頬に、じわりと赤みが差していた。
「……真白?」
恒一が声をかけると、真白は小さくうつむいた。
黒髪が、白い頬の横で小さく揺れる。
「名前で」
「え?」
「今、名前で、初めて呼ばれました」
「あ」
恒一は思わず視線を逸らした。
「悪い。家で父さんと母さんがずっと真白ちゃんって呼んでるから、つい」
「そう、ですか」
「嫌だったか?」
真白はすぐに首を横に振った。
「嫌ではありません」
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「嬉しいです」
恒一は一瞬、返事に困った。
真白はまだうつむいている。
耳まで赤い。
それなのに、膝の上でそろえた手は、どこか大事なものを抱えるようにぎゅっと握られていた。
「そ、そうか」
「はい」
「じゃあ、その……真白」
「はい」
「明日の朝、来られるか?」
「はい。伺います」
「無理なら断っていいからな、北条」
言ってから、また恒一は気づいた。
今度は北条に戻っている。
真白も気づいたのか、少しだけ口元を緩めた。
「はい」
「……呼び方、変だったか?」
「いえ」
真白は小さく首を振った。
「どちらでも、嬉しいです」
その答えに、恒一はますます困った。
どちらでも嬉しい。
それは、かなり返しづらい言葉だった。
「恒一」
横から声がした。
彩音だった。
彩音は机に頬杖をついたまま、にやにやと笑っている。
「今の、聞いていいやつ?」
「聞くな」
「名前呼びイベント発生してたよね?」
「発生してない」
「してたよ。今、真白って呼んだよね?」
「……聞くな」
「北条さん、完全に嬉しそうだったし」
「彩音さん……」
真白は赤い顔のまま、小さく抗議した。
だが、否定はしなかった。
彩音はそれを見て、さらに楽しそうに笑った。
「しかもその流れで、うちに来て朝ごはん作ってほしいって?」
「違う」
「何が違うの?」
「そういう意味じゃない」
「名前で呼んで、朝ごはん作ってほしい。ほとんどプロポーズじゃん」
「違う」
真白の顔が、さらに赤くなった。
そして、そのままうつむいた。
否定しない。
否定できない。
ただ、耳まで赤くしたまま、膝の上で小さく手を握っている。
「そういう意味じゃない」
「へえ」
「本当に違う」
「私は何も言ってないけど?」
「言っただろ」
「言ったね」
彩音は笑った。
恒一は小さく息を吐き、真白の方を見る。
真白はうつむいたままだった。
完全に誤解している、というより、誤解したいようにも見えた。
恒一は少し焦った。
「要は、真白のご飯が食べたいってことなんだ」
言ってから、恒一は自分の言葉を聞き返した。
違う。
それも少し違う。
だが、もう口に出してしまった。
「美味しいから」
真白の肩が、小さく揺れた。
顔は上がらない。
ただ、膝の上で握っていた手に、少しだけ力が入った。
「……ありがとうございます」
声は小さかった。
けれど、かなり嬉しそうだった。
彩音が机を叩いた。
「やっぱりプロポーズじゃん」
「違う」
「今のはもう無理だって、恒一」
「違う。父さんが食べたいって言ってるんだ」
「父親公認?」
「その言い方をやめろ」
「しかも手料理を食べたいって?」
「だから父さんが」
「朝ごはんを作ってほしいって?」
「だから」
「新婚じゃん」
「違う」
恒一は頭を押さえた。
説明すればするほど、変な方向に転がっている気がする。
「何だ何だ」
さらに、別の声が割り込んできた。
基樹だった。
鞄を机に置いたばかりらしく、状況を半分も分かっていない顔をしている。
「朝からずいぶん楽しそうだな」
「楽しくない」
恒一はすぐに返した。
「いや、楽しいでしょ」
彩音が笑う。
「恒一が北条さんを名前で呼んで、そのあと明日の朝うちに来て朝ごはんを作ってほしいって頼んでたところ」
「おい、言い方」
恒一は止めた。
だが、遅かった。
基樹は一瞬だけ黙った。
そして、真白を見た。
真白はまだ赤い顔でうつむいている。
次に、恒一を見た。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「恒一」
「何だ」
「お前、朝から攻めるな」
「違う」
「いや、かなり攻めてるだろ」
「違う」
「名前で呼んで、北条さんの手料理が毎朝食べたいってことなんだろ?」
「父さんがだ!」
「父親公認か」
「お前もそれを言うな」
彩音が楽しそうに手を叩いた。
「ほら、基樹も同じ反応」
「普通そうなるだろ」
「ならない」
「なるって」
基樹は真顔で言った。
「朝、家に来て、朝ごはんを作ってほしい。しかも美味しいから食べたい。これはもう、かなりのものだ」
「かなりのものって何だ」
「覚悟だな」
「何の覚悟だ」
「家庭を持つ覚悟」
「持ってない」
真白が、さらに深くうつむいた。
さっきよりも耳が赤い。
恒一は慌てて真白の方を向いた。
「北条、こいつらの言うことは気にしなくていい」
「……はい」
真白は小さく答えた。
声は弱い。
だが、嫌そうではない。
むしろ、少し嬉しそうだった。
それがさらに誤解を深くしている。
「真白」
「はい」
呼んでから、恒一はまた少しだけ詰まった。
真白も、少しだけ肩を震わせた。
けれど、今度は顔を上げている。
「無理なら断っていいからな」
「無理ではありません」
真白は、まだ赤い顔のまま答えた。
だが、その目は真面目だった。
「分かりました」
「いいのか?」
「はい。明日の朝、伺います」
「助かる」
「私でよければ、朝食を作らせていただきます」
「父さんが喜ぶ」
「お母様も、でしょうか」
「もちろん」
「では」
真白は、少しだけ背筋を伸ばした。
「心を込めて作ります」
彩音が、また楽しそうに声を上げた。
「心を込めて!」
基樹もすぐに乗った。
「これはもう決まりだな」
「何も決まってない」
「朝食から始まる新生活」
「始まらない」
「タイトルみたいだね」
彩音が笑う。
「『恒一様のために朝ごはんを作ります』」
「違う」
「北条さん、今のタイトルどう?」
彩音が尋ねると、真白はうつむいたまま、小さく答えた。
「……恐れ多いです」
「否定の仕方が違う」
恒一は思わず言った。
基樹が腹を抱えて笑った。
「だめだ、北条さんも否定しきれてない」
「否定しています」
真白は小さく言った。
「でも、朝食は作ります」
「ほら」
彩音がまた机を叩いた。
「そこは作るんだ」
「お世話になっていますから」
真白は真面目に言った。
「お父様にも、お母様にも、恒一様にも」
「ほら、家族枠」
基樹が言った。
「違う」
恒一はすぐに否定した。
けれど、真白はその言葉に少しだけ嬉しそうな顔をした。
そして、またうつむいた。
「じゃあさ」
彩音が手を上げた。
「私も行っていい?」
「ダメだ!」
恒一は即答した。
今までで一番強い声だった。
彩音が目を丸くする。
「そんなに強く断る?」
「ダメだ」
「二回言った」
「父さんがさらに面倒なことになる」
「それはちょっと見たいけど」
「見なくていい」
彩音はしばらく恒一を見て、それから楽しそうに笑った。
「分かった、分かった。家族団欒は邪魔しないよ」
「家族団欒じゃない」
恒一はすぐに否定した。
だが、真白が小さく反応した。
「……家族」
声は、ほとんど吐息のように小さかった。
けれど、恒一には聞こえた。
真白はうつむいたまま、膝の上で手をそろえている。
白い指先に、少しだけ力が入っていた。
「北条?」
「いえ」
真白は慌てたように首を横に振った。
「何でもありません」
「そうか?」
「はい」
そう答えた真白の声は、どこか嬉しそうだった。
彩音はその反応を見逃さなかった。
「ほら」
「何がほらだ」
「北条さん、完全に家族枠って言葉に反応してる」
「彩音さん……」
真白は困ったように彩音を見た。
だが、やはり否定はしなかった。
基樹が肩をすくめる。
「恒一、これはもう諦めろ」
「何を」
「お前の家、北条さんのこと受け入れすぎだろ」
「俺のせいじゃない」
「でも呼んだのは恒一だろ」
「父さんに頼まれたんだ」
「頼まれて呼ぶ時点で、だいぶ家族寄りなんだよな」
「違う」
恒一は何度目か分からない否定をした。
彩音がにやにやしている。
基樹も楽しそうに笑っている。
真白は赤くなったまま、うつむいている。
恒一だけが、深くため息をついた。
朝から父に振り回され、学校では彩音と基樹に冷やかされる。
明日の朝食の約束を取りつけただけのはずなのに、なぜか妙に疲れた。
それでも、真白は嬉しそうだった。
なら、まあいいか。
恒一はそう思うことにした。
ただし、明日の朝、父が泣いた場合は、絶対に真白の前で止める。
それだけは、心に決めた。




