第190話 真白ちゃんの朝ごはん
■朝比奈家・台所
朝。
恒一が台所に入ると、父が食卓に突っ伏していた。
正確には、泣いていた。
「……何してるんだ、父さん」
恒一は椅子に座りながら言った。
父は答えない。
食卓に額をつけたまま、肩だけを小さく震わせている。
その姿は、朝から見るには少し重かった。
「母さん」
「なあに?」
母は、いつも通り味噌汁をよそっている。
「父さん、どうしたの?」
「病気か?」
「病気というか」
母は少し困ったように笑った。
「真白ちゃんのご飯が食べたいらしいわ」
「……は?」
「最近、真白ちゃんが全然来ないでしょう?」
「まあ、そうだけど」
恒一は箸を取る手を止めた。
真白は少し前まで、朝から当然のように朝比奈家に来ていた。それどころか、台所に立って朝食を作ろうとしていた。
だが最近は、以前ほど頻繁には来ていない。
恒一がそう言ったからだ。
毎日のように来ると、真白も大変だろう。
そう思って、少し控えていいと伝えた。
真白はその時、少し寂しそうな顔をしたが、きちんとうなずいていた。
その結果が、これだった。
「まさか父さんが泣くとは思わなかった」
「泣いてない」
父が食卓に突っ伏したまま言った。
「泣いてるだろ」
「泣いてない」
「声が完全に泣いてる」
「泣いてない」
父は顔を上げなかった。
面倒くさい。
朝からかなり面倒くさい。
恒一は味噌汁を一口飲んだ。
「真白に、あんまり来なくていいって言ったの、俺なんだけど」
その瞬間、父が顔を上げた。
「なんでだ!」
声が低かった。
そして、顔が近かった。
いつの間にか父は、食卓の向こう側から身を乗り出していた。
「近い」
「なんでだ!」
「いや、真白も大変だろ。毎朝来るのは」
「お前は!」
父はさらに顔を近づけた。
「私が娘と会うのを邪魔するのか!!」
「娘じゃないし」
「私の可愛い娘だ!」
「違うだろ」
「あの娘はほぼ娘なんだ!」
「違う」
「お父様と呼ばれている!」
「それは真白が勝手に呼んでるだけだ」
「なら娘だ!」
「なら、じゃない」
恒一は朝食を食べる手を止めた。
父の目が本気だった。
冗談に見えるが、たぶん半分くらいは本気だった。
「私はな」
父は真剣な顔で言った。
「可愛い娘の朝ごはんを、ただ食べたいだけなんだ!」
「だから娘じゃない」
「朝から台所に立って、真白ちゃんが『お父様、お味噌汁の味はどうでしょうか』と聞いてくれる生活がほしいんだ!」
「そんな生活はない」
「前はあった」
「短期間だけだろ」
「幸せな短期間だった」
「それを、なぜ邪魔をする!!」
「……」
父はまた食卓に突っ伏した。
面倒くさい。
本当に面倒くさい父だ。
母はその横で、当然のように父の茶碗にご飯をよそっている。
「母さんも何か言ってよ」
「そうね」
母はにこにこしながら言った。
「真白ちゃんが来ると、朝が華やかになるものね」
「母さんまで」
「可愛いし、礼儀正しいし、礼儀正しいし、お料理も一生懸命だし」
「そうだぞ」
「わたしの可愛い娘を返せ!」
父が食卓に突っ伏したまま言った。
「……そうだぞ、じゃない」
「恒一」
母が優しい声で言った。
「真白ちゃんに電話してみたら?」
「朝から?」
「今日は無理でも、明日の朝に来られるか聞くだけでもいいでしょう?」
「……まあ、聞くだけなら」
恒一は少し考えた。
真白に無理をさせるつもりはない。
けれど、真白自身が来たいと思っているなら、止めすぎるのも違う気がする。
それに。
目の前の父が、食卓に突っ伏したまま動かない。
このまま放置すると、かなり面倒な一日になりそうだった。
「分かった。今日は無理だろうから、明日の朝来られるか聞いてみる」
父が顔を上げた。
「本当か!」
「聞くだけだぞ」
「電話番号は?」
「俺がかける」
「私にも教えなさい」
「なんで」
「父だからだ」
「父じゃない」
「ほぼ真白ちゃんの父だ!」
「違う」
恒一はため息をついた。
だが、父の目は真剣だった。
真剣すぎて、少し怖かった。
「変な時間にかけるなよ」
「かけない」
「毎日かけるなよ」
「かけない」
「真白が困るようなこと言うなよ」
「言わない」
「本当だな」
「私は紳士だ」
「その言い方が一番信用できない」
恒一は仕方なく、真白の携帯番号を父に教えた。内心、真白に謝りながら。
父はそれを丁寧に登録した。その動きは、さっきまで食卓に突っ伏して泣いていた人間とは思えないほど素早かった。
「よし」
父は背筋を伸ばした。
「お母さん、今日の朝ごはんはなんだい」
「焼き魚とお味噌汁よ」
「いい朝だ」
「さっきまで泣いてただろ」
「泣いてない」
「機嫌も体調も一瞬で直ってるじゃないか」
「人は希望があれば元気になる」
「真白頼みの希望すぎる」
父は満足そうに味噌汁を飲んだ。
母もにこにこしている。
恒一は二人を見ながら、急いで朝食を食べ始めた。
なんなんだ、この両親は。
どれだけ真白のことが好きなんだ。
そう思いながらも、恒一は携帯を手に取った。
登校前に、真白へ連絡しておいた方がいい。
明日の朝、来られるかどうか。
もちろん、無理なら断っていい。
そう伝えるつもりだった。
ただ、その前に一つだけ確認しておく必要がある。
「父さん」
「なんだい」
「真白が来ても、泣くなよ」
「泣かない」
「本当だな」
「嬉し泣きは別だ」
「別じゃない」
恒一は、深くため息をついた。
朝比奈家の朝は、今日も平和だった。
たぶん。
少なくとも、父にとっては。




