第189話 まだ白いままです
■縁の間
白い空間だった。
どこまでも白く、遠くも近くも分からない。
床があるようで、ないようで。
空があるようで、ないようで。
そこに、一人の少女が立っていた。
中学生くらいの少女だった。
まだ幼さは残っている。
けれど、その顔には、年齢に似合わない不安が浮かんでいた。
「神様」
少女は、目の前にいる白髪白ひげの老人を見上げた。
恋愛の神様は、いつものようにひげをくるくるといじっている。
「うむ。来たか」
「呼びました」
「呼ばれたのう」
「来てくれないかと思いました」
「わしはそこそこ忙しい神じゃぞ」
「でも、来てくれました」
「そこそこ優しい神でもある」
「自分で言うんですね」
「言わねば伝わらぬこともある」
神様は少し得意そうに胸を張った。
けれど、少女は笑わなかった。
「神様」
「なんじゃ」
「台帳を、見せてください」
神様のひげを撫でる手が、少しだけ止まった。
「またか」
「はい」
「台帳は、あまり見すぎぬ方がよい」
「どうしてですか」
「変わっておらぬものを見るたびに、心が削れることもある」
「でも、見ない方が不安です」
「見ても、不安になるだけかもしれぬぞ」
「それでも、見たいです」
少女は、まっすぐ神様を見た。
神様は小さく息を吐く。
「仕方ないのう」
神様が手を動かすと、白い表紙の台帳が現れた。
恋愛台帳。
少女のもの。
けれど、それは少女が自由に開けるものではない。
神様が管理し、必要な時にだけ見せてもらえるものだった。
神様は台帳を開く。
白い頁が、そこにあった。
いつもと同じだった。
どこまでも白い。
名前もない。
光もない。
かすかな線さえ見えない。
「……やっぱり」
少女の声が小さくなった。
「まだ、真っ白なままです」
「うむ」
「何もありません」
「そう見えるのう」
「神様」
「なんじゃ」
「本当に、ここに名前が載るんですか?」
少女は、白い頁を見つめたまま言った。
「いつか、本当に、私の頁にも誰かの名前が載るんですか」
「急ぐでない」
「小さい頃から、何度もここに来ています」
「うむ」
「でも、全然変わりません」
「お前はまだ十二じゃろう」
「十二です」
「十二の台帳が真っ白でも、何もおかしくない」
「でも、私は普通の十二歳ではないんですよね」
神様は黙った。
少女は、その沈黙を見て、少しだけ唇を噛んだ。
「私は、ずっとこのままではないんですか」
「決まっておらぬ」
「でも、変わるとも言えないんですよね」
「……」
「神様が何も言ってくれない時は、だいたい悪い時です」
「そんなことはない」
「あります」
「……少しある」
「やっぱり」
少女は、少しだけ怒ったように言った。
けれど、その声はすぐに弱くなった。
「昔は」
「うむ」
「真白さんも、一緒に見てくれました」
少女は、白い頁に視線を落とす。
「真白さんの頁も、真っ白でした」
「……」
「私の頁も、真っ白でした」
その頃のことを、少女はよく覚えている。
白い空間で、二人並んで座っていた。
真白は少し年上で、いつも静かで、優しかった。
二人で台帳を開いて、白い頁を見ていた。
何も書かれていない頁。
何も始まっていない頁。
それを二人で、ただ黙って眺めていた。
怖いですね、と少女が言うと、真白は小さく頷いた。でも、一人ではありません、と真白は言った。
その言葉だけで、少女は少し救われていた。
「二人で、ずっと白い頁を見ていました」
「うむ」
「何も言わない時もありました」
「うむ」
「それでも、真白さんが隣にいたから、まだ怖くありませんでした」
少女は台帳を抱きしめる。
「でも、もしかして」
「なんじゃ」
「真白さんは、知っていたんじゃないですか?」
「何をじゃ」
「ずっと真っ白なままかもしれないって」
神様はすぐには答えなかった。
「私たちの頁には、簡単には名前が載らないって」
「……」
「普通の人みたいには、いかないって」
「……」
「真白さんは、もしかして、ずっと前から分かっていたんじゃないですか」
「真白も、すべてを分かっていたわけではない」
「でも、何かは知っていました」
「……そうじゃな」
少女は、白い頁を見る。
「最後に真白さんに会った時」
少女の声が、少しだけ震えた。
「真白さんの頁に、初めて名前が載っていました」
「……」
「真白さんは、すごく嬉しそうでした」
その時のことを、少女は忘れられない。
白い頁に、初めて文字が浮かんでいた。
真白はそれを見て、泣きそうな顔で笑っていた。
怖がってもいた。
戸惑ってもいた。
でも、それ以上に、嬉しそうだった。
ずっと待っていたものが、やっと現れた人の顔だった。
「私は、おめでとうございますって言いました」
「うむ」
「それしか言えませんでした」
「うむ」
「本当に、嬉しかったんです。真白さんが嬉しそうだったから」
少女は、ぎゅっと台帳を抱いた。
「でも」
白い頁が、胸に触れる。
冷たいような気がした。
「正直、つらかったです」
神様は、何も言わなかった。
「真白さんだけ、先に行ってしまう気がしました」
「……」
「私だけ、ここに残される気がしました」
「……」
「一緒に幸せになりましょうって、言ってくれたのに」
「……」
「もしかしたら、忘れられてしまうんじゃないかって」
少女の声が小さくなる。
「真白さんは、忘れない人だと分かっています」
「うむ」
「でも、怖いんです」
「うむ」
「真白さんが現世で幸せになって」
「……」
「私のことを、少しずつ思い出さなくなって」
「……」
「気づいたら、私だけがここで白い頁を見ているんじゃないかって」
神様は、ひげを撫でる手を止めた。
その不安は、幼いものだった。
けれど、軽いものではなかった。
少女は本当に、真白を頼りにしていた。
同じ白い頁を持つ、たった一人の相手として。
「神様」
「なんじゃ」
「宿罪って、どういうことなんですか?」
神様の顔から、少しだけ表情が消えた。
「……お前には、もっと大きくなってから話すつもりだったんじゃがな」
「どうしてですか」
「まだ早いからじゃ」
「早い?」
「今のお前には、まだ早い」
神様は、白い台帳を見下ろした。
「お前はまだ十二じゃ。何も載っておらぬなら、今すぐ何かが決まるわけではない」
「でも、何も載っていないのも怖いです」
「うむ」
「何かが載るのも怖いです」
「うむ」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
神様は言葉に詰まった。
「宿罪があると、私に悪いことが起こるんですか」
「今は、まだ言えぬ」
「私の周りの人にもですか」
「……」
「私が好きになった人や、私の家族や、私自身に」
「……」
「そういうことが、起こるんですか?」
神様は、すぐには答えなかった。
少女はその沈黙を見て、台帳を胸に抱いた。
「教えてもらえませんか?」
「今は、まだ早い」
「また、それですか」
「すまぬ」
「真白さんにも、そう言ったんですか」
神様は、少しだけ目を伏せた。
「何度も言った」
「だから、真白さんはあんな顔をしていたんですね」
少女は、少しだけ目を伏せた。
「真白さんは、詳しくは何も言いませんでした」
「そうか」
「ただ、良いこととも言いませんでした」
「……」
「もう少し経てば分かります、と言っていました」
「真白が?」
「はい」
少女は、思い出すように手元の台帳を見つめた。
「その時、真白さんはとても辛そうな顔をしていました」
「……」
「私の頭を、撫でてくれました」
「……」
「優しく撫でてくれました。でも、笑ってはいませんでした」
少女の声が、小さくなる。
「だから、多分、とても辛いことなのだと思いました」
神様は何も言わなかった。
白い空間が、静まり返る。
少女は、台帳をさらに強く抱いた。
「知らなければ、こんなに怖くなかったかもしれません」
「うむ」
「でも、少しだけ知ってしまいました」
「うむ」
「それなのに、まだ何も分からないんです」
「……」
「だから、怖いんです」
少女は、白い頁を見下ろした。
「前は、真白さんがいました」
「うむ」
「ここで二人で話せました」
「うむ」
「怖い話を聞いても、真白さんがいてくれたから、まだ耐えられました」
少女の声が、少しずつ小さくなる。
「でも、今は一人です」
神様は何も言わなかった。
「神様がいてくれても」
「うむ」
「神様は、答えてくれないことが多いです」
「……すまぬ」
「だから、余計に怖いんです」
少女は、白い頁を見下ろした。
「真白さんは、最近どうしていますか?」
「現世で、いろいろ向き合っておる」
「それは、良いことですか」
「良いことでもあり、危ういことでもある」
「またそういう言い方」
「実際、そうなのじゃ」
「真白さんは、進んでいるんですね」
「……少しは、動いておる」
少女は唇を噛んだ。
「そうですか」
「うむ」
「やっぱり、私だけまだなんですね」
「そう決めるでない」
「でも、真白さんは動いています」
「うむ」
「私は、白いままです」
「うむ」
「何も、始まっていません」
少女は、白い頁をもう一度見た。
真白の頁に初めて名前が載った時の顔を思い出す。
あんなに嬉しそうな真白を見たのは、初めてだった。
だから、言えなかった。
寂しいです、と。
置いていかないでください、と。
私も一緒に行きたいです、と。
言えなかった。
「真白さんに、会いたいです」
少女は、ぽつりと言った。
その一言を言うだけで、胸の奥が痛くなった。
「会って、聞きたいです」
「何をじゃ」
「私の台帳は、このままなのか」
「……」
「私たちは、本当に幸せになれるのか」
「……」
「宿罪とは何なのか」
「……」
「真白さんは、今も私と一緒に幸せになろうと思ってくれているのか」
最後の言葉は、とても小さかった。
神様は、困った顔をした。
少女の問いに、神様は答えられない。
答えれば、嘘になるかもしれない。
否定すれば、安心させるだけの慰めになるかもしれない。
肯定すれば、少女を傷つけてしまうかもしれない。
だから、神様に言えることは少なかった。
「真白に、伝えておこう」
ようやく、神様は言った。
少女の顔が上がる。
「本当ですか」
「うむ」
「必ずですか」
「必ず伝える」
「真白さん、来てくれますか?」
「それは真白次第じゃ」
「……」
「じゃが、伝えはする」
「約束ですか?」
「約束じゃ」
少女は、台帳を抱きしめた。
「ありがとうございます」
「礼を言うには早い」
「でも、何もないよりは、少しだけいいです」
「そうか」
「はい」
少女は、白い頁をもう一度見た。
真っ白なまま。
何も書かれていない。
何も始まっていないようにも見える。
何も始まらないようにも見える。
「神様」
「なんじゃ」
「私の台帳は、ずっとこのままですか」
「……今は、分からぬ」
「そうですか」
「すまぬ」
「神様が謝るんですね」
「たまにはな」
少女は少しだけ笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「じゃあ、真白さんを待ちます」
「うむ」
「来てくれなかったら、また神様を呼びます」
「それは少し困るのう」
「困ってください」
「今日は手厳しい」
「不安なので」
「……そうじゃな」
神様は、それ以上ふざけなかった。
白い空間が、少しずつ薄くなっていく。
戻る時間らしい。
少女は台帳を神様へ返した。
神様はそれを受け取る。
白い台帳は、神様の手の中で淡く消えた。
「急ぐな」
神様は言った。
「お前は、まだ十二じゃ」
「でも、怖いです」
「怖ければ、また来い」
「はい」
「真白には、伝えておく」
「約束です」
「うむ」
視界が白くにじむ。
少女は最後まで、白い台帳が消えた場所を見ていた。
自分の台帳は、まだ真っ白だった。
白いままなら安心だと思いたかった。
けれど、何も書かれていないこともまた、怖かった。
書かれても怖い。
書かれなくても怖い。
神様は、ほとんど何も答えてくれなかった。
ただ、真白へ伝えることだけは約束してくれた。
だから少女は、その約束だけを胸に抱いて、白い空間から戻っていった。
目が覚める直前まで、真っ白な頁の冷たさだけが、胸の奥に残っていた。




