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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第188話 知りたくはないか

■縁の間


 白い空間に立った瞬間、朝比奈恒一は眉をひそめた。


 どこまでも白い。


 遠くも近くも分からない。


 床があるようで、ないようで。


 空があるようで、ないようで。


 何度来ても、慣れる場所ではなかった。


 そして、慣れたい場所でもなかった。


「……またかよ」


 恒一は、目の前にいる白髪白ひげの神様を見た。


 神様は、いつものように座り込んでひげを撫でている。


 ただ、今日はどこか表情が重かった。


「またとは何じゃ」


「そのままの意味」


 恒一は短く答えた。


「俺、何かしましたか」


「何もしておらぬ」


「なら帰ります」


 恒一は即答した。


 そして本当に、白い空間から帰ろうとする。


 この場所に呼ばれる時は、だいたいろくなことがない。


 恋愛の神様。


 恋愛台帳。


 縁。


 真白。


 聞かされる話はいつも重く、現実に戻っても簡単には忘れられない。


 だから、何もしていないなら帰る。


 恒一としては当然の判断だった。


「待て待て待て」


 神様が慌てたように手を上げる。


「せっかく呼んだのじゃ。少しは話を聞け」


「何もしていないんですよね」


「しておらぬ」


「なら帰ります」


「お前は本当に、わしに対して遠慮がないのう」


「神様が俺に遠慮してくれたことがあまりないので」


「あるじゃろうが」


「どこにですか」


 恒一は真顔で聞いた。


 神様はひげを撫でたまま、少しだけ目を逸らした。


「……少しはある」


「じゃあ、少しだけ聞きます」


「そこは全部聞け」


「内容によります」


 恒一は、その場で腕を組んだ。


 帰る姿勢は崩していない。


 神様は軽く息を吐いた。


「では、こう言えばよいか」


「何ですか」


「知りたくはないか」


 神様の声が、少しだけ低くなった。


「北条真白のことを」


 恒一の動きが止まった。


 帰ろうとしていた足が、白い空間の中で止まる。


 神様は、それを見て静かに続けた。


「あの娘が、なぜあれほど孤独でいようとしたのか」


「……」


「なぜ、大切な相手にまで、離れろと言うのか」


 恒一は振り返った。


 表情は大きく変わっていない。


 けれど、目だけは神様をまっすぐ見ていた。


「真白の話ですか」


「そうじゃ」


「何を知っているんですか」


「知っておることはある。じゃが、すべてを話せるわけではない」


「またそれですか」


 恒一の声に、わずかに不満が混じった。


「呼び出しておいて、肝心なことは話せない。前にも似たようなことがありましたよね」


「ある」


「認めるんですね」


「認めざるを得ぬ」


 神様は苦い顔をした。


「わしにも、話せることと話せぬことがある」


「神様なのに?」


「神だからこそじゃ」


 神様はひげを撫でる。


 その仕草はいつも通りに見えたが、手つきは少し重かった。


「わしは恋愛神じゃ。恋愛に関わる縁ならば、ある程度は見える。台帳に現れた縁を読むこともできる。じゃが、すべてを自由にできるわけではない」


「管轄外、ということですか」


「そういうものもある」


 神様は、はっきり言った。


「正直、わしが軽々しく踏み込んでよい話ではない」


「それでも話すんですか」


「話さねばならんところまで来ておる」


 恒一は黙った。


 神様からそう言われると、余計に嫌な予感がした。


「この前、おかしなことがあったじゃろう」


「この前?」


「後輩の娘のことじゃ」


 恒一の眉が少し動いた。


 神様は続けた。


「北条真白は、その後輩に言っておったな。好きだから、嫌いになってください、と」


 恒一の表情が、はっきりと変わった。


「あれを見ていたんですか」


「見えておった」


「趣味が悪いですね」


「必要があれば見る」


「それを趣味が悪いと言うんです」


 恒一はそう言ったが、すぐに視線を落とした。


 真白の声を思い出す。


 好きだから、嫌いになってください。


 あの言葉は、今でも耳に残っている。


 普通ではなかった。


 優しさでも、拒絶でも、ただの自己犠牲でもない。


 もっと追い詰められた何かだった。


「俺も、おかしいとは思っていました」


 恒一は言った。


「好きなら、大切なら、普通は近づこうとする。守ろうとする。少なくとも、嫌いになってくれとは言わない」


「うむ」


「でも、真白はそう言った」


 恒一は白い空間のどこかを見た。


「あれは、千瀬を嫌いだからじゃない。むしろ、好きだからだった」


「そうじゃ」


「何でですか」


 恒一は神様を見た。


「真白は、何を背負っているんですか」


 神様はすぐには答えなかった。


 その沈黙を見て、恒一はわずかに目を細める。


「やっぱり、言えないんですか」


「全部は言えぬ」


「全部じゃなくていいです」


「……」


「俺は、真白に関わっています。もう無関係ではありません」


 恒一の声は静かだった。


 だが、引くつもりのない声だった。


「何も知らないまま、正しい判断なんてできません」


 神様は、長く息を吐いた。


「まったく、お前は厄介じゃな」


「呼んだのは神様です」


「そうじゃったな」


 神様は観念したように、白い空間の上を見る。


 そこには何もない。


 何もないはずなのに、何かに確認しているようにも見えた。


「北条真白はな」


 神様は、ゆっくりと言った。


「重いものを背負っておる」


「重いもの」


「うむ。今のあの娘が望んで背負ったものではない。今のあの娘が、この人生で何かをしたから背負わされたものでもない。じゃが、あの娘の奥には、昔から続く重荷がある」


 恒一は黙って聞いていた。


「その重荷は、あの娘が何かを大切に思うほど、そこへ伸びる」


「……」


「好きになったもの。守りたいもの。手放したくないもの。そういうものほど、あの娘にとっては失いやすい」


 恒一の顔が強張った。


「だから、千瀬にあんなことを言ったんですか」


「そうじゃ」


「自分が好きでいると、相手を失うと思っているから」


「そうじゃ」


「だから、好きだから嫌いになってくれと」


「うむ」


 恒一は、ゆっくり息を吐いた。


 怒りではない。


 呆れでもない。


 ただ、胸の奥に重いものが落ちるような息だった。


「そんなもの、背負わせるべきじゃないでしょう」


「そうじゃな」


「神様が言うんですか」


「言うしかあるまい」


 神様の声は苦かった。


「ひどい話じゃ。だが、ひどい話だからといって、なかったことにはできぬ」


「消せないんですか」


「わしには無理じゃ」


「管轄外だからですか」


「それもある」


「他にもあるんですね」


「ある」


 神様は答えたが、それ以上は言わなかった。


 恒一は追及しようとして、一度言葉を飲み込んだ。


 聞いても、今は答えない。


 その顔をしていた。


「一つ、分けて考えろ」


 神様は言った。


「何をですか」


「北条真白は、大切なものを遠ざけようとする。そこは間違っておらぬ」


「……はい」


「じゃが、お前に向けた行動は違う」


 神様は、そこだけははっきりと言った。


「あの娘は、お前に近づく道を選んでおる」


「それは、分かります」


 恒一は小さく答えた。


 真白は、朝比奈家へ来た。


 自分を婚約者だと名乗った。


 恒一を待っていた。


 恒一の家族とも関わろうとしている。


 少なくとも、恒一を遠ざけようとしている相手の行動ではない。


「でも、真白は千瀬には言いました」


 恒一は神様を見た。


「好きだから、嫌いになってくださいって」


「そうじゃ」


「大切な相手ほど離そうとするなら、どうして俺にはそうしないんですか」


「お前が、普通の相手ではないからじゃ」


「……」


「北条真白は、それを少しは知っておる」


「真白が?」


「こちらへ来る前に、わしが少しだけ話してある」


 神様は静かに言った。


「朝比奈恒一は、普通の存在ではないかもしれぬ、とな」


 恒一は黙った。


 真白が、何も知らずに恒一の前へ来たわけではない。


 婚約者と名乗った時も。


 恒一様と呼んだ時も。


 自分の料理を食べさせようとした時も。


 その奥には、神様から聞かされていた言葉があったのかもしれない。


 朝比奈恒一は、普通の存在ではないかもしれない。


「普通ではないって、どういう意味ですか」


「そこは、まだ分からぬ」


「神様にも?」


「わしにもじゃ」


 神様は、あっさりと言った。


「わしは何でも分かるわけではない。恋愛台帳の仕組みを管理しておるだけじゃ」


「だけ、ですか」


「だけ、と言うな。十分大変なのじゃぞ」


「それは知りません」


「冷たいのう」


 神様は少しだけ肩を落とした。


 その仕草はいつも通りだったが、すぐに表情を戻す。


「ただな」


「何ですか」


「北条真白の台帳に、お前の名が現れた。それ自体が、普通ではない」


 恒一は眉を寄せた。


「名前が載るだけで?」


「そうじゃ」


「それだけで、そんなにおかしいんですか」


「おかしい」


 神様は短く答えた。


「先ほども言うたじゃろう。あの娘が大切に思った相手は、失われやすい」


「……」


「普通なら、恋愛の縁として形になる前に、別の形で途切れることの方が多い」


 恒一は息を止めた。


 それは、あまりに静かな言葉だった。


 けれど、言っている内容は重かった。


「だから、真白は先に遠ざけようとする」


「うむ」


「でも、俺の名前は載った」


「載った」


 神様は台帳の表紙に手を置いた。


「そこが、わしにもまだ分からぬ」


「……」


「なぜ載ったのか。何がそうさせたのか。そこまでは、今の段階で断定できぬ」


「神様でも」


「神でもじゃ」


 神様は静かに言った。


「わしは台帳を管理しておる。縁の動きを見ることはできる。妙な動きがあれば気づくこともできる。じゃが、すべての縁をわしが作っておるわけではない」


「俺と真白の縁も?」


「わしが意図して結んだものではない」


「真白が、自分でそうしたわけでもない」


「少なくとも、あの娘が自分で仕組んだものではない」


「なら、どうして」


 神様は答えなかった。


 答えない沈黙だった。


 恒一は、それ以上聞いても答えが返らないことを悟った。


「今は、そこまでですか」


「そうじゃ」


「本当に、知っていい範囲が狭いですね」


「狭いからこそ、言葉を選んでおる」


「選んだ結果がこれですか」


「これでも、かなり話した方じゃ」


 神様は疲れたようにひげを撫でた。


 恒一は、白い空間の中で息を吐く。


 真白は重いものを背負っている。


 大切なものほど失うと思っている。


 だから、千瀬にあんなことを言った。


 けれど、恒一には近づく道を選んでいる。


 恒一が普通の存在ではないかもしれないことも、少しは知っている。


 そして、真白の台帳に恒一の名前が現れた理由は、神様にもまだ断定できない。


 分かったことはある。


 分からないことは、それ以上に増えた。


「神様」


「なんじゃ」


「俺は、真白に何をすればいいんですか」


「何かをしようと急ぐな」


 神様は即答した。


「急ぐな、ですか」


「そうじゃ」


「でも、真白は」


「分かっておる」


 神様は、恒一の言葉を遮った。


「お前が放っておけぬ男だということも分かっておる。だが、今すぐ何かを変えようとすれば、あの娘はまた別の何かを手放そうとするかもしれぬ」


「……」


「大切にするほど失うと思っておる娘じゃ。その考え方は、簡単には変わらぬ」


 恒一は黙った。


 それは、分かる気がした。


 真白は、恒一から離れようとしているわけではない。


 けれど、他の何かを手放すことはある。


 自分が大切に思うほど、相手を守るために遠ざけようとする。


 その考え方は、簡単には変わらない。


「じゃあ、何もしない方がいいんですか」


「そうは言っておらぬ」


「難しいですね」


「難しいのじゃ」


 神様は静かに言った。


「お前は今まで通りでよい。約束を守れ。嘘をつくな。できることをやれ。無理なことは無理と言え」


「それだけですか」


「それだけが難しい」


 恒一は、何も言えなかった。


 簡単に聞こえる。


 だが、たぶん簡単ではない。


 真白に関わることは、いつも簡単ではない。


 それでも、関わらないという選択肢は、もう自分の中にはなかった。


「俺は、真白を急かすつもりはありません」


「ならよい」


「でも、放っておくつもりもありません」


「そう言うと思った」


「駄目ですか」


「駄目とは言わぬ」


 神様は静かに言った。


「ただ、あの娘が何を大切にし、何を手放そうとするのか。それを軽く見てやるな」


「分かっています」


「本当にか?」


「分かっているつもりです」


「つもり、か」


「全部分かったとは言えません」


 恒一は正直に言った。


「でも、真白が一人で背負おうとしていることくらいは分かります」


「ならよい」


 神様は頷いた。


 白い空間が、少しずつ薄くなる。


 戻る時間が近づいている。


「時間じゃな」


「まだ聞きたいことはあります」


「じゃろうな」


「でも言えないんですよね」


「うむ」


 恒一は深く息を吐いた。


「分かりました」


「怒らぬのか」


「怒ってます」


「そうか」


「ただ、怒っても答えが出ないことくらいは分かります」


「お前は本当に面倒なところで大人じゃな」


「褒めてますか」


「半分はな」


「残り半分は?」


「心配しておる」


 恒一は少しだけ黙った。


 心配。


 神様にそう言われると、余計に不安になる。


「神様」


「なんじゃ」


「最後に一つだけ」


「答えられることならな」


「真白の台帳に俺の名前が出たことは、悪いことなんですか」


 神様はすぐには答えなかった。


 それは、分からないからというより、言葉を探している沈黙だった。


「悪いこと、と決めつけるには早い」


「いいこととも言えない」


「そうじゃ」


「……」


「今は、断定できぬ」


 神様は言った。


「だからこそ、見誤るな」


「何をですか」


「北条真白をじゃ」


 神様の声が、少しだけ低くなった。


「あの娘が何を大切にし、何を手放そうとするのか。それを見誤るな」


「……分かりました」


「そして、忘れるな」


 神様は、最後に台帳へ視線を落とした。


「お前の名が現れた理由は、まだ分からぬ」


「……」


「だが、現れたことだけは事実じゃ」


 その言葉を最後に、白い空間は消えた。


 恒一の意識が、現実へ戻る。


 残された神様は、しばらく誰もいない白の中を見つめていた。


「まったく」


 神様は、低く呟いた。


「わしにも断定できぬことばかりじゃ」


 白い空間は、何も答えない。


 ただ、静かだった。


 神様は、膝の上の台帳に目を落とす。


 そこにある名前は、消えていない。


 北条真白。


 朝比奈恒一。


 現れた理由は、まだ分からない。


 それでも、現れたという事実だけは変わらない。


「知るには、まだ早いか」


 神様は、小さく呟いた。


 白い空間は、やはり何も答えなかった。

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