第187話 まだ気にしていたのか
放課後。
朝比奈恒一は、真田家に呼ばれていた。
正確には、真田道場に顔を出すように言われていた。
以前なら、それだけでかなり身構えていたと思う。
今も、まったく緊張していないわけではない。けれど、真田家に行くことにも、真田道場で竹刀を振ることにも、少しずつ慣れてきている。
ただ、呼ばれた理由が分からない時だけは、やはり少し緊張する。
「朝比奈」
隣を歩いていた巴が、少し呆れたように言った。
「そんなに固くならなくてもいい」
「固くなってるか?」
「なってる」
「呼ばれた理由が分からないから」
「たぶん、大したことじゃない」
「たぶんか」
「私も詳しくは聞いてない」
それは、あまり安心できない情報だった。
恒一は、真田家の門を見上げた。
真田家。
巴の家。
そして、真田道場。
自分にとって、ここはただの友人の家ではない。
何度も稽古をつけてもらった場所であり、巴との距離を考えるきっかけになった場所でもある。
だからこそ、どうしても背筋が伸びる。
巴はそんな恒一を見て、小さく息を吐いた。
「また面倒なこと考えてるでしょ」
「面倒なことかどうかは分からない」
「その返事がもう面倒」
「すまない」
「謝るほどじゃない」
「そうか」
「うん。だから、もう少し普通にして」
「普通に」
「そう」
恒一は意識して肩の力を抜いた。
抜いたつもりだった。
巴はそれを見て、少しだけ眉を寄せる。
「……あまり変わってない」
「そうか」
「普通にするだけなのに」
「普通にするのが、一番難しい時もある」
「そういうところ」
「どこだ?」
「面倒なところ」
「……すまない」
「だから謝らなくていいって」
巴はそう言いながらも、少しだけ笑っていた。
大きな笑みではない。
けれど、恒一にはそれで十分だった。
道場に着くと、巴の祖父はすでに奥に座っていた。
竹刀は持っていない。
稽古着でもない。
茶を飲みながら、静かに待っている。
つまり、今日は稽古そのものよりも、話が目的らしい。
恒一は深く頭を下げた。
「お邪魔します」
「来たか、朝比奈」
「はい」
「座れ」
「失礼します」
恒一は正座した。
巴も隣に座る。
祖父はしばらく恒一を見ていた。
その沈黙が、妙に長い。
恒一は自然と背筋を伸ばした。
巴が横から小声で言う。
「また固くなってる」
「すまない」
「だから」
「謝らなくていい」
「分かってるなら直して」
「努力する」
祖父は二人のやり取りを見て、少しだけ目を細めた。
「前よりは、ましになったな」
「はい?」
「何でもない」
祖父は湯呑みを置いた。
「朝比奈」
「はい」
「お前に、ひとつ言っておきたいことがある」
「はい」
恒一は、さらに背筋を伸ばした。
巴がまた横から見てくる。
だが、今度は何も言わなかった。
「これからも、巴と仲良くしてやってほしい」
「……はい?」
恒一は、一瞬だけ返事に詰まった。
予想していた言葉と違いすぎた。
もっと厳しい話をされると思っていた。
巴との距離。
昔の約束。
北条真白が来てから変わった周囲の事情。
そういうものについて、何か言われるのではないかと考えていた。だが、祖父はただ「仲良くしてやってほしい」と言った。
「聞こえなかったか?」
「いえ、聞こえました」
「なら返事は」
「あ、はい。もちろんです」
恒一は慌てて頭を下げた。
巴は隣で、少しだけ視線を逸らしている。
耳が赤いような気がした。
「師匠」
「何だ」
「それは、その……巴に必要以上に近づかないという話とは」
「まだ気にしていたのか?」
「……はい」
「そうか」
祖父は深く息を吐いた。
巴も、ほとんど同時に息を吐いた。
「朝比奈」
「はい」
「あの話は、もうほとんど形だけだ」
「形だけ」
「ああ」
「では、守らなくてもいいということでしょうか」
「お前はすぐ、そうやって重くする」
「……すみません」
「謝るな。話が進まん」
「はい」
恒一は口を閉じた。
祖父は少し呆れた顔をする。
巴は額に手を当てていた。
「あれは、巴と話すなという意味ではない」
「……そうなんですか」
「まだそこからか」
「すみません」
「謝るなと言ったばかりだ」
「はい」
「わしが言ったのは、恋に浮かれて何も見えなくなるな、ということだ。巴をまともに見られないまま騒ぐな、ということだ」
「はい」
「普通に話すなとは言っておらん。近づくなとも言っておらん」
「……はい」
「お前の中で、勝手に約束が増えておる」
「……そうかもしれません」
「そうだ」
容赦がなかった。
恒一は反論できなかった。
思い当たることが、多すぎた。
言われたことを守ろうとする。
それは悪いことではないと思っていた。
でも、自分は時々、言葉を必要以上に重くする。守るべきものを増やしてしまう。
そのせいで、かえって相手との距離を見失うことがある。
巴とのことは、まさにそうだったのかもしれない。
「北条さんが来た時点で」
祖父は続けた。
「お前たちの周りの事情は、大きく変わった」
「……はい」
「学校でも、部活でも、道場でも、お前はもう巴と普通に話しておる」
「はい」
「なら今さら、必要以上だの何だのと細かく考えても仕方あるまい」
「……はい」
「少なくとも、今のお前たちを縛るほどのものではない」
「……分かりました」
巴は、黙って二人の話を聞いていた。
最後の約束。
朝比奈が、ずっと重く抱えていたもの。
それは、いつの間にか形を失っていた。
北条が来たからだ。
北条真白が転校してきて、恒一様と呼び、朝比奈の隣に立った。そのせいで、巴は何度も胸をざわつかせた。
今でも、北条に対して完全に穏やかな気持ちでいられるわけではない。
けれど、その一点だけは違う。
北条が来なければ、朝比奈はきっと、まだあの約束を重く抱えたままだった。
必要以上に近づかない。見るに足る男になるまでは、巴の前に出ない。
そんなふうに勝手に考えて、勝手に遠ざかっていたかもしれない。
けれど、北条が来た。
周りが動いた。
朝比奈も、巴も、何も変わらないままではいられなくなった。
その結果、最後の約束は、もう二人を縛るだけの力を失った。
それは、少し悔しい。
北条のおかげだと認めるのは、もっと悔しい。
けれど。そのことには、巴も少しだけ感謝していた。
口に出すつもりはない。
たぶん、しばらくは言えない。
それでも、心の中では分かっていた。
北条が来たことで、朝比奈はようやく少しだけ、巴の近くに戻ってきたのだ。
「真田」
恒一が、隣の巴を見た。
「何」
「俺は、まだ少し気にしていた」
「……うん」
「普通に話しているつもりでも、どこかで約束のことを考えていたと思う」
「うん」
「それで、また変に距離を取っていたなら」
「……」
「ごめん」
「……もういい」
巴は小さく答えた。
「本当に?」
「くどい」
「すまない」
「謝らない」
「……分かった」
「本当に?」
「努力する」
「そこはすぐ頷いて」
巴は少しだけ呆れたように言った。
だが、怒ってはいなかった。
祖父は、そんな二人を見て、また湯呑みに手を伸ばした。
「朝比奈」
「はい」
「巴を見るなら、きちんと見ろ」
「はい」
「勝手に遠ざかって、勝手に苦しむな」
「はい」
「巴も、そんなに器用ではない」
「師匠」
巴が低い声で言った。
「余計なことを言わないで」
「事実だ」
「事実でも言わないで」
「なら、自分で言え」
「……」
「言えんだろう」
「……師匠」
「だから言っておる」
巴は黙った。
耳が少し赤い。
恒一はそれを見て、何となく胸の奥が熱くなった。
「真田」
「何」
「これからは、もう少し普通に話す」
「今も話してる」
「もっと普通に」
「……何それ」
「分からないけど」
「分からないのに言ったの?」
「ああ」
「朝比奈らしい」
巴は、ほんの少しだけ笑った。
大きな笑みではない。
けれど、たしかに笑っていた。
恒一は、その顔を見て少しだけほっとした。
約束が完全に消えたわけではない。けれど、今の二人を縛るものではなくなっている。
真白が来て、周囲が動いて、体育祭があって、部活でも何度も話した。
気づけば、昔の約束は、今の二人には少し古くなっていた。
それでも恒一だけは、まだどこかで大事に抱えていた。
抱えなくていいものまで。
大事そうに。
巴は、それを見てまた小さく息を吐いた。
「本当に、面倒」
「ごめん」
「でも」
「うん」
「ちゃんと話すなら、いい」
「分かった」
「黙るのは禁止」
「師匠にも言われた」
「なら、守って」
「守る」
「それは重く受け取りすぎないで」
「……難しい」
「そこが難しいの?」
「約束は守るものだと思ってるから」
「だから、それが重いんだって」
「すみま……」
「謝らない」
「分かった」
祖父は、二人のやり取りを見て、少しだけ目を細めた。
「まあ、よい」
「よいんですか」
「今の方が前よりましだ」
「前より」
「ああ。前のお前は、勝手に遠くへ下がっておった」
「……はい」
「今は、少なくとも巴の隣に座っておる」
「……」
「それでよい」
「はい」
恒一は深くうなずいた。
すると、祖父は何でもないことのように言った。
「それと、朝比奈」
「はい」
「稽古には、もう少し来い」
「……はい」
「最近、少し間が空いておる」
「すみません」
「陸上部が忙しいのは分かる。体育祭の件も確かにあった」
「はい」
「だが、来ると言ったなら来い」
「はい」
「巴と仲良くするのもよい。だが、稽古も忘れるな」
「分かりました」
「よし」
祖父は満足そうにうなずいた。
恒一は、そこでようやく少し肩の力を抜いた。重大な話ではなかった。
少なくとも、今さら何かを禁じられる話ではなかった。
ただ、古い約束がもう今の二人には合わなくなっていることを、あらためて確認されただけだった。
そして、稽古にはもっと来いと言われただけだった。それはそれで、別の意味で逃げられない話だった。
「師匠」
「何だ」
「稽古には来ます」
「うむ」
「ただ、陸上部もありますので」
「分かっておる」
「ありがとうございます」
「陸上部だったな」
「はい」
「剣道部ではないのだな」
「違います」
「だが、竹刀は振っておる」
「振っています」
「なら、剣の道でもあるまいか」
「少なくとも、部活は陸上部です」
「……そうか」
「はい」
「陸上部で、何をしている」
「部長をしています」
「……部長?」
「はい」
祖父は、そこで完全に黙った。
巴も黙った。
そして、ゆっくり恒一を見る。
「朝比奈」
「何だ?」
「そこ、まだ言ってなかったの?」
「聞かれなかったから」
「言いなよ」
「そうなのか?」
「そうでしょ」
「師匠にも言われそうだな」
「今から言われると思う」
祖父は、ゆっくり湯呑みに手を伸ばした。
お茶を飲む。
そして、静かに置いた。
「お前も、言葉が足らん!」
「すみません」
「わしも、少し足らんかった」
「いえ」
「だが、お前の方が足らん」
「はい」
「陸上部部長」
「はい」
「そこは覚えた」
「ありがとうございます」
何に対する礼なのか、自分でもよく分からなかった。
巴は隣で、少しだけ笑っていた。
「朝比奈らしい」
「そうなのか」
「うん」
「褒めてる?」
「少し」
「少し」
「かなり呆れてる」
「それは褒めていない」
「うん」
巴はまた笑った。
その顔を見て、恒一は思った。
やはり、普通に話せる方がいい。
約束の意味が薄れていたとしても。
最初から、自分が重くしすぎていただけだったとしても。
こうして話せるなら、それでいい。
真田家に呼ばれた理由は、思っていたより大ごとではなかった。だが、恒一の中にまだ残っていた古い約束を、少しだけ軽くするには十分だった。
そして巴にとっても、同じだった。
北条真白が来たことを、全部よかったとは思えない。そんなに簡単に割り切れるほど、巴は大人ではなかった。
けれど。
北条が来たから、朝比奈は動いた。
朝比奈が動いたから、最後の約束は古くなった。
そのことだけは、たぶん悪くなかった。
巴は、隣に座る恒一をちらりと見る。
恒一は、まだ少し真面目な顔で祖父の話を聞いている。普通にしているつもりで、普通になりきれていない顔だった。
本当に、面倒な人だと思う。
でも。
その面倒な人が、自分の隣にいる。
昔よりも、ずっと近い場所にいる。
それだけで、巴は少しだけ胸の奥が軽くなった。
「朝比奈」
「何だ?」
「稽古、ちゃんと来なよ」
「ああ」
「でも、陸上部もちゃんとやる」
「分かってる」
「それから」
「うん」
「余計なことを考えすぎない」
「努力する」
「そこは、はいって言って」
「はい」
「よし」
巴は少しだけ満足そうにうなずいた。
祖父も、それを見て静かにうなずいた。
「では、せっかく来たのだ」
「はい」
「少し振っていけ」
「……はい」
「何だ、その間は」
「話だけだと思っていたので」
「道場に来て、話だけで帰れると思ったのか」
「……思っていました」
「甘い」
「はい」
恒一は素直に頭を下げた。
巴は、とうとう小さく吹き出した。
「朝比奈」
「何だ?」
「頑張って」
「ああ」
「今日は、ちゃんと見てるから」
「……分かった」
恒一は立ち上がる。
竹刀を手に取る。
その背中を、巴は見ていた。
昔よりも、少し近い距離で。
約束は、もうほとんど意味をなくしている。けれど、何かが完全に消えたわけではない。
ただ、古くなったものを、今の二人に合わせて持ち直しただけだ。
それでいい。
たぶん、今はそれでいい。
竹刀の音が、夕方の道場に響いた。
乾いた音。
踏み込む音。
息を吐く音。
巴はその音を聞きながら、静かに思った。
北条に感謝するのは、やっぱり少し悔しい。
でも、少しだけなら。
本当に少しだけなら。
感謝してもいいのかもしれない。




