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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第187話 まだ気にしていたのか

 放課後。


 朝比奈恒一は、真田家に呼ばれていた。


 正確には、真田道場に顔を出すように言われていた。


 以前なら、それだけでかなり身構えていたと思う。


 今も、まったく緊張していないわけではない。けれど、真田家に行くことにも、真田道場で竹刀を振ることにも、少しずつ慣れてきている。


 ただ、呼ばれた理由が分からない時だけは、やはり少し緊張する。


「朝比奈」


 隣を歩いていた巴が、少し呆れたように言った。


「そんなに固くならなくてもいい」


「固くなってるか?」


「なってる」


「呼ばれた理由が分からないから」


「たぶん、大したことじゃない」


「たぶんか」


「私も詳しくは聞いてない」


 それは、あまり安心できない情報だった。


 恒一は、真田家の門を見上げた。


 真田家。


 巴の家。


 そして、真田道場。


 自分にとって、ここはただの友人の家ではない。


 何度も稽古をつけてもらった場所であり、巴との距離を考えるきっかけになった場所でもある。


 だからこそ、どうしても背筋が伸びる。


 巴はそんな恒一を見て、小さく息を吐いた。


「また面倒なこと考えてるでしょ」


「面倒なことかどうかは分からない」


「その返事がもう面倒」


「すまない」


「謝るほどじゃない」


「そうか」


「うん。だから、もう少し普通にして」


「普通に」


「そう」


 恒一は意識して肩の力を抜いた。


 抜いたつもりだった。


 巴はそれを見て、少しだけ眉を寄せる。


「……あまり変わってない」


「そうか」


「普通にするだけなのに」


「普通にするのが、一番難しい時もある」


「そういうところ」


「どこだ?」


「面倒なところ」


「……すまない」


「だから謝らなくていいって」


 巴はそう言いながらも、少しだけ笑っていた。


 大きな笑みではない。

 けれど、恒一にはそれで十分だった。


 道場に着くと、巴の祖父はすでに奥に座っていた。


 竹刀は持っていない。


 稽古着でもない。


 茶を飲みながら、静かに待っている。


 つまり、今日は稽古そのものよりも、話が目的らしい。


 恒一は深く頭を下げた。


「お邪魔します」


「来たか、朝比奈」


「はい」


「座れ」


「失礼します」


 恒一は正座した。


 巴も隣に座る。


 祖父はしばらく恒一を見ていた。


 その沈黙が、妙に長い。


 恒一は自然と背筋を伸ばした。


 巴が横から小声で言う。


「また固くなってる」


「すまない」


「だから」


「謝らなくていい」


「分かってるなら直して」


「努力する」


 祖父は二人のやり取りを見て、少しだけ目を細めた。


「前よりは、ましになったな」


「はい?」


「何でもない」


 祖父は湯呑みを置いた。


「朝比奈」


「はい」


「お前に、ひとつ言っておきたいことがある」


「はい」


 恒一は、さらに背筋を伸ばした。


 巴がまた横から見てくる。


 だが、今度は何も言わなかった。


「これからも、巴と仲良くしてやってほしい」


「……はい?」


 恒一は、一瞬だけ返事に詰まった。


 予想していた言葉と違いすぎた。


 もっと厳しい話をされると思っていた。


 巴との距離。


 昔の約束。


 北条真白が来てから変わった周囲の事情。


 そういうものについて、何か言われるのではないかと考えていた。だが、祖父はただ「仲良くしてやってほしい」と言った。


「聞こえなかったか?」


「いえ、聞こえました」


「なら返事は」


「あ、はい。もちろんです」


 恒一は慌てて頭を下げた。


 巴は隣で、少しだけ視線を逸らしている。


 耳が赤いような気がした。


「師匠」


「何だ」


「それは、その……巴に必要以上に近づかないという話とは」


「まだ気にしていたのか?」


「……はい」


「そうか」


 祖父は深く息を吐いた。


 巴も、ほとんど同時に息を吐いた。


「朝比奈」


「はい」


「あの話は、もうほとんど形だけだ」


「形だけ」


「ああ」


「では、守らなくてもいいということでしょうか」


「お前はすぐ、そうやって重くする」


「……すみません」


「謝るな。話が進まん」


「はい」


 恒一は口を閉じた。


 祖父は少し呆れた顔をする。


 巴は額に手を当てていた。


「あれは、巴と話すなという意味ではない」


「……そうなんですか」


「まだそこからか」


「すみません」


「謝るなと言ったばかりだ」


「はい」


「わしが言ったのは、恋に浮かれて何も見えなくなるな、ということだ。巴をまともに見られないまま騒ぐな、ということだ」


「はい」


「普通に話すなとは言っておらん。近づくなとも言っておらん」


「……はい」


「お前の中で、勝手に約束が増えておる」


「……そうかもしれません」


「そうだ」


 容赦がなかった。


 恒一は反論できなかった。


 思い当たることが、多すぎた。


 言われたことを守ろうとする。


 それは悪いことではないと思っていた。


 でも、自分は時々、言葉を必要以上に重くする。守るべきものを増やしてしまう。


 そのせいで、かえって相手との距離を見失うことがある。


 巴とのことは、まさにそうだったのかもしれない。


「北条さんが来た時点で」


 祖父は続けた。


「お前たちの周りの事情は、大きく変わった」


「……はい」


「学校でも、部活でも、道場でも、お前はもう巴と普通に話しておる」


「はい」


「なら今さら、必要以上だの何だのと細かく考えても仕方あるまい」


「……はい」


「少なくとも、今のお前たちを縛るほどのものではない」


「……分かりました」


 巴は、黙って二人の話を聞いていた。


 最後の約束。


 朝比奈が、ずっと重く抱えていたもの。


 それは、いつの間にか形を失っていた。


 北条が来たからだ。


 北条真白が転校してきて、恒一様と呼び、朝比奈の隣に立った。そのせいで、巴は何度も胸をざわつかせた。


 今でも、北条に対して完全に穏やかな気持ちでいられるわけではない。


 けれど、その一点だけは違う。


 北条が来なければ、朝比奈はきっと、まだあの約束を重く抱えたままだった。


 必要以上に近づかない。見るに足る男になるまでは、巴の前に出ない。


 そんなふうに勝手に考えて、勝手に遠ざかっていたかもしれない。


 けれど、北条が来た。


 周りが動いた。


 朝比奈も、巴も、何も変わらないままではいられなくなった。


 その結果、最後の約束は、もう二人を縛るだけの力を失った。


 それは、少し悔しい。


 北条のおかげだと認めるのは、もっと悔しい。


 けれど。そのことには、巴も少しだけ感謝していた。


 口に出すつもりはない。

 たぶん、しばらくは言えない。


 それでも、心の中では分かっていた。


 北条が来たことで、朝比奈はようやく少しだけ、巴の近くに戻ってきたのだ。


「真田」


 恒一が、隣の巴を見た。


「何」


「俺は、まだ少し気にしていた」


「……うん」


「普通に話しているつもりでも、どこかで約束のことを考えていたと思う」


「うん」


「それで、また変に距離を取っていたなら」


「……」


「ごめん」


「……もういい」


 巴は小さく答えた。


「本当に?」


「くどい」


「すまない」


「謝らない」


「……分かった」


「本当に?」


「努力する」


「そこはすぐ頷いて」


 巴は少しだけ呆れたように言った。


 だが、怒ってはいなかった。


 祖父は、そんな二人を見て、また湯呑みに手を伸ばした。


「朝比奈」


「はい」


「巴を見るなら、きちんと見ろ」


「はい」


「勝手に遠ざかって、勝手に苦しむな」


「はい」


「巴も、そんなに器用ではない」


「師匠」


 巴が低い声で言った。


「余計なことを言わないで」


「事実だ」


「事実でも言わないで」


「なら、自分で言え」


「……」


「言えんだろう」


「……師匠」


「だから言っておる」


 巴は黙った。


 耳が少し赤い。


 恒一はそれを見て、何となく胸の奥が熱くなった。


「真田」


「何」


「これからは、もう少し普通に話す」


「今も話してる」


「もっと普通に」


「……何それ」


「分からないけど」


「分からないのに言ったの?」


「ああ」


「朝比奈らしい」


 巴は、ほんの少しだけ笑った。


 大きな笑みではない。


 けれど、たしかに笑っていた。


 恒一は、その顔を見て少しだけほっとした。


 約束が完全に消えたわけではない。けれど、今の二人を縛るものではなくなっている。


 真白が来て、周囲が動いて、体育祭があって、部活でも何度も話した。


 気づけば、昔の約束は、今の二人には少し古くなっていた。


 それでも恒一だけは、まだどこかで大事に抱えていた。


 抱えなくていいものまで。


 大事そうに。


 巴は、それを見てまた小さく息を吐いた。


「本当に、面倒」


「ごめん」


「でも」


「うん」


「ちゃんと話すなら、いい」


「分かった」


「黙るのは禁止」


「師匠にも言われた」


「なら、守って」


「守る」


「それは重く受け取りすぎないで」


「……難しい」


「そこが難しいの?」


「約束は守るものだと思ってるから」


「だから、それが重いんだって」


「すみま……」


「謝らない」


「分かった」


 祖父は、二人のやり取りを見て、少しだけ目を細めた。


「まあ、よい」


「よいんですか」


「今の方が前よりましだ」


「前より」


「ああ。前のお前は、勝手に遠くへ下がっておった」


「……はい」


「今は、少なくとも巴の隣に座っておる」


「……」


「それでよい」


「はい」


 恒一は深くうなずいた。


 すると、祖父は何でもないことのように言った。


「それと、朝比奈」


「はい」


「稽古には、もう少し来い」


「……はい」


「最近、少し間が空いておる」


「すみません」


「陸上部が忙しいのは分かる。体育祭の件も確かにあった」


「はい」


「だが、来ると言ったなら来い」


「はい」


「巴と仲良くするのもよい。だが、稽古も忘れるな」


「分かりました」


「よし」


 祖父は満足そうにうなずいた。


 恒一は、そこでようやく少し肩の力を抜いた。重大な話ではなかった。


 少なくとも、今さら何かを禁じられる話ではなかった。


 ただ、古い約束がもう今の二人には合わなくなっていることを、あらためて確認されただけだった。


 そして、稽古にはもっと来いと言われただけだった。それはそれで、別の意味で逃げられない話だった。


「師匠」


「何だ」


「稽古には来ます」


「うむ」


「ただ、陸上部もありますので」


「分かっておる」


「ありがとうございます」


「陸上部だったな」


「はい」


「剣道部ではないのだな」


「違います」


「だが、竹刀は振っておる」


「振っています」


「なら、剣の道でもあるまいか」


「少なくとも、部活は陸上部です」


「……そうか」


「はい」


「陸上部で、何をしている」


「部長をしています」


「……部長?」


「はい」


 祖父は、そこで完全に黙った。


 巴も黙った。


 そして、ゆっくり恒一を見る。


「朝比奈」


「何だ?」


「そこ、まだ言ってなかったの?」


「聞かれなかったから」


「言いなよ」


「そうなのか?」


「そうでしょ」


「師匠にも言われそうだな」


「今から言われると思う」


 祖父は、ゆっくり湯呑みに手を伸ばした。


 お茶を飲む。


 そして、静かに置いた。


「お前も、言葉が足らん!」


「すみません」


「わしも、少し足らんかった」


「いえ」


「だが、お前の方が足らん」


「はい」


「陸上部部長」


「はい」


「そこは覚えた」


「ありがとうございます」


 何に対する礼なのか、自分でもよく分からなかった。


 巴は隣で、少しだけ笑っていた。


「朝比奈らしい」


「そうなのか」


「うん」


「褒めてる?」


「少し」


「少し」


「かなり呆れてる」


「それは褒めていない」


「うん」


 巴はまた笑った。


 その顔を見て、恒一は思った。

 やはり、普通に話せる方がいい。


 約束の意味が薄れていたとしても。


 最初から、自分が重くしすぎていただけだったとしても。


 こうして話せるなら、それでいい。


 真田家に呼ばれた理由は、思っていたより大ごとではなかった。だが、恒一の中にまだ残っていた古い約束を、少しだけ軽くするには十分だった。


 そして巴にとっても、同じだった。


 北条真白が来たことを、全部よかったとは思えない。そんなに簡単に割り切れるほど、巴は大人ではなかった。


 けれど。


 北条が来たから、朝比奈は動いた。


 朝比奈が動いたから、最後の約束は古くなった。


 そのことだけは、たぶん悪くなかった。


 巴は、隣に座る恒一をちらりと見る。


 恒一は、まだ少し真面目な顔で祖父の話を聞いている。普通にしているつもりで、普通になりきれていない顔だった。


 本当に、面倒な人だと思う。


 でも。


 その面倒な人が、自分の隣にいる。


 昔よりも、ずっと近い場所にいる。


 それだけで、巴は少しだけ胸の奥が軽くなった。


「朝比奈」


「何だ?」


「稽古、ちゃんと来なよ」


「ああ」


「でも、陸上部もちゃんとやる」


「分かってる」


「それから」


「うん」


「余計なことを考えすぎない」


「努力する」


「そこは、はいって言って」


「はい」


「よし」


 巴は少しだけ満足そうにうなずいた。


 祖父も、それを見て静かにうなずいた。


「では、せっかく来たのだ」


「はい」


「少し振っていけ」


「……はい」


「何だ、その間は」


「話だけだと思っていたので」


「道場に来て、話だけで帰れると思ったのか」


「……思っていました」


「甘い」


「はい」


 恒一は素直に頭を下げた。


 巴は、とうとう小さく吹き出した。


「朝比奈」


「何だ?」


「頑張って」


「ああ」


「今日は、ちゃんと見てるから」


「……分かった」


 恒一は立ち上がる。


 竹刀を手に取る。


 その背中を、巴は見ていた。


 昔よりも、少し近い距離で。


 約束は、もうほとんど意味をなくしている。けれど、何かが完全に消えたわけではない。


 ただ、古くなったものを、今の二人に合わせて持ち直しただけだ。


 それでいい。

 たぶん、今はそれでいい。


 竹刀の音が、夕方の道場に響いた。


 乾いた音。


 踏み込む音。


 息を吐く音。


 巴はその音を聞きながら、静かに思った。


 北条に感謝するのは、やっぱり少し悔しい。


 でも、少しだけなら。


 本当に少しだけなら。


 感謝してもいいのかもしれない。

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