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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第186.5話 佐藤には謝った

 ■陸上部部室


 翌日の放課後。


 巴は陸上部の部室の前で、一度足を止めた。


 昨日のことは、やはり謝った方がいい。


 前田千夜にも言われた。


 佐藤くんから見たら殴られている。


 その言葉は、少しだけ胸に残っていた。


 巴としては、強く殴ったつもりはない。


 佐藤の胃の調子を少し見ただけ。


 けれど、それは言い訳なのかもしれない。


 巴は小さく息を吐き、部室の扉を開けた。


「佐藤」


 部室の中には、佐藤だけがいた。


 メニュー表を見ていた佐藤は、巴の声を聞いた瞬間、びくっと肩を跳ねさせた。


「真田か」


「うん」


「今日は何をするつもりだ?」


「何を?」


「昨日は笑顔から始まり、威嚇に移り、最後は胃に拳が入った」


「……」


「今日は何から始まるんだ」


「始まらない」


「本当か?」


「本当」


 佐藤は、メニュー表を盾のように持っていた。


 紙なので、盾にはならない。


 だが、気持ちは分からなくもなかった。


「佐藤」


「何だ」


「昨日のことを謝りに来た」


「……謝る?」


「うん」


「真田が?」


「うん」


「俺に?」


「うん」


 佐藤は、しばらく巴を見ていた。


 そして、一歩だけ後ろへ下がった。


「何を企んでいる?」


「企んでいない」


「信じられない」


「どうして」


「昨日、俺のことを獲物を見るような目で見ていた女が、翌日いきなり謝りに来たんだぞ」


「獲物を見るような目」


「自分で覚えていないのか?」


「覚えている」


「なら分かるだろ」


「分からない」


「分かってくれ」


 佐藤は胃のあたりを押さえた。


「昨日の真田は、俺にとって完全に危険人物だった」


「危険人物」


「ああ」


「私は、可愛いを研究していただけ」


「その研究の結果が危険人物なのか?」


「……」


「黙るな。今の沈黙も怖い」


 巴は、少しだけ視線を落とした。


 確かに、昨日の自分はおかしかったかもしれない。


 笑顔は獣の目。


 両手持ちは威嚇。


 首傾げは問い詰める前の間合い。


 最後に、胃の調子を見た。


 並べると、謝るべきことしかない気がしてきた。


「佐藤」


「何だ」


「改めて、昨日は悪かった」


 巴は頭を下げた。


 部室が、少しだけ静かになる。


 佐藤は驚いたように巴を見ていた。


「……本当に謝っているのか?」


「うん」


「何かの実験ではなく?」


「違う」


「可愛い謝罪の研究でもなく?」


「違う」


「そうか」


 佐藤は、まだ疑うような顔をしていた。


 しかし、少しだけメニュー表を下ろした。


「なら、分かった」


「ありがとう」


「ただ、一つ聞いていいか」


「何?」


「昨日のあれは、結局何だったんだ?」


「だから可愛いの研究」


「それは聞いた」


「うん」


「なぜ急に、可愛いを研究し始めた」


 巴は、少しだけ黙った。


 佐藤はその沈黙を見て、すぐに身構えた。


「待て。答えにくいなら答えなくていい」


「いや」


「本当にいい。俺は深追いしない。胃のほうが大事だからな」


「朝比奈に」


「朝比奈?」


「可愛いと思われたいと、少し思った」


 言ってから、巴は少し顔が熱くなるのを感じた。


 部室の空気が止まった。


 佐藤も止まった。


 メニュー表を持ったまま、完全に固まっている。


「……なるほど」


「何?」


「つまり、半分は朝比奈のせいか」


「違う!!」


 巴は即座に言った。


 思ったより、声が低く強くなった。


 佐藤の背筋が、ぴんと伸びる。


「すまない」


「佐藤」


「はい」


「これは、私の問題」


「分かった」


「朝比奈は悪くない」


「分かった。分かったから、その目をやめてくれ」


「目?」


「今、昨日と同じ獣の目になっている」


「……」


「黙るな。圧が増える」


 巴は、少しだけ息を止めた。


 まただ。

 また圧が出たかもしれない。


 ただ、朝比奈のせいだと言われたくなかっただけだった。


 別に佐藤を怖がらせるつもりはなかった。


 けれど、佐藤はすでに胃のあたりを押さえている。


「佐藤」


「何だ」


「今のも、悪かった」


「ああ」


「昨日のことも、悪かった」


「分かった。本当に分かった」


「分かったなら、そんなに怯えなくてもいい」


「怯えるだろう」


「どうして」


「謝罪に来たはずの相手が、途中で圧を出してきたからだ」


「出すつもりはなかった」


「それが一番怖い」


「……」


「無自覚の圧力が一番怖い」


 巴は、何も言えなかった。


 佐藤の言葉は失礼だった。


 だが、間違っていない気もした。


「とにかく」


 巴は言った。


「昨日は悪かった。次からは気をつける」


「できれば、気をつけるではなく、殴らないと約束してほしい」


「それについては、努力する」


「約束ではないのか」


「余計なことを言われなければ」


「それは俺次第ということか?」


「うん」


「怖いな」


「佐藤」


「すまない」


 佐藤はすぐに謝った。


 謝らせるつもりはなかった。


 だが、結果的にまた謝らせてしまった。


 巴は、小さく息を吐く。


「私は、先に更衣室へ行く」


「ああ。その方がいい」


「その方がいい?」


「いや、違う。そういう意味ではなく」


「佐藤」


「すまない」


 佐藤は、また胃のあたりを押さえた。


「謝罪は受け取った。昨日のことも、もういい」


「本当に?」


「ああ。だから、今日は平和に練習しよう」


「うん」


「あと、可愛いの研究をするなら、俺以外で頼む」


「それは難しい」


「難しいのか」


「朝比奈には、いきなり試せない」


「俺ならいいのか」


「佐藤なら、何とかなる」


「ならない」


「胃は大丈夫そうだし……」


「大丈夫じゃない」


 佐藤は力なく言った。


 巴は、少しだけ反省した。


 謝罪に来たはずだった。


 それなのに、結局また佐藤の胃に負担をかけている。


「佐藤」


「何だ」


「今日は何もしない」


「本当だな?」


「本当」


「信じるぞ」


「うん」


 巴はうなずき、部室を出た。


 女子更衣室の方へ向かいながら、巴は自分の手を見た。


 昨日は、可愛く見せようとして失敗した。


 今日は、謝ろうとして失敗しかけた。


 ただ謝るだけのつもりだった。


 それなのに、佐藤は身構えた。


 怯えた。


 胃を押さえた。


 そして、謝罪の途中でも圧が出た。


 圧とは、やはり難しい。


 可愛いも難しい。


 それでも、謝罪は受け取ってもらえた。


 たぶん。


 少なくとも、佐藤は分かったと言っていた。


 なら、今日はそれでいい。

 巴はそう思うことにした。


 可愛いは難しい。


 謝罪も、少し難しい。


 そして佐藤の胃は、思ったより繊細らしい。


 巴はそんなことを考えながら、更衣室へ向かった。

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