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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第186話 この姉妹は遠慮しない

 ■帰路


 北条は、笑わなかった。


 巴さんは今のままでも素敵です、と言ってくれた。


 それは嬉しい。


 けれど、やはりまだ分からない。


 自分のままでいいと言われても、その自分がどう可愛いのか分からない。


 巴は、恒一、北条、千瀬と途中まで帰ったあと、家に荷物を置いた。そして、少し迷ってから前田家へ向かった。


 それは、千夜に相談するためだった。


 ■前田家 千夜私室


「それで?」


 前田千夜は、自室の床に座りながら巴を見た。


 隣には、なぜか千瀬もいる。


「どうして千瀬もいるの?」


「お姉ちゃんに呼ばれました」


「呼んだの?」


「呼んだ」


 千夜は平然と言った。


「面白そうだったから」


「千夜」


「話はちゃんと聞くよ」


「その前に面白そうと言った」


「言ったね」


「……」


 巴は少しだけ眉を寄せた。


 北条は笑わなかった。


 丁寧に聞いてくれた。


 真剣に受け止めてくれた。


 巴さんは今のままで素敵です、とまで言ってくれた。


 それなのに、この姉妹は最初から少し楽しそうだった。


 同じ人間でも、ずいぶん違う。


 人間性というより、反応の方向が違う。


 巴はそう思った。


「それで、巴姉」


 千瀬が身を乗り出す。


「可愛いの研究って、具体的に何をしたんですか?」


「まず、可愛いと思われている人物を調べた」


「はい」


「二年生だと、やはり北条が有力だった」


「真白姉は可愛いです」


「うん」


「でも、北条を直接観察するのは難しい」


「どうしてですか?」


「クラスが違う。休み時間にわざわざ見に行って、じっと観察するのは不自然」


「それは不自然ですね」


「だから、同じクラスの早咲南を観察した」


「観察」


 千夜が口元を押さえた。


「うん。困った時に小さく笑う。ノートを胸の前で持つ。飲み物を両手で持つ。相手を見るが、見すぎない」


「待って、巴」


「何?」


「それ、可愛いの研究?」


「うん」


「研究というか、解析だよね」


「そうかもしれない」


「可愛いを解析し始めた時点で、もう真白ちゃんにはなれないと思う」


「……そんなに?」


「全然違う」


 千夜はそこで耐えきれずに笑った。


 千瀬も、肩を震わせている。


「千瀬」


「はい」


「また、笑っている?」


「笑っていません」


「本当に?」


「すみません。笑っています」


「千瀬」


「だって、あまりに面白すぎるんで」


「面白い?」


「巴姉が真剣なのは分かるんです。でも、可愛い仕草を研究して、解析して、陸上部で実践するのは、面白すぎます」


「私は真面目に悩んでいる」


「はい。それが一番面白いです」


「千瀬」


「すみません」


「それに、昨日も男子生徒が逃げたんだよね?」


 千夜が言った。


 千瀬が、笑いをこらえながらうなずく。


「三人くらいです」


「巴姉が近づいたら、すぐ逃げました」


「……逃げた」


 巴は、少しうつむいて認めた。


「近づいただけで?」


「話を聞こうとしただけ。何もしてない」


 巴の声は、少しだけ不満そうだった。


 睨んだつもりもない。


 脅したつもりもない。


 ただ、困っている北条たちの様子を見て、声をかけようとしただけだった。


 それなのに、男子生徒三人は勝手に固まり、勝手に謝り、勝手に逃げていった。


「それは逃げるよ」


 千夜はあっさり言った。


「百九十センチ近くある巴が、無言で近づいてきたら、普通にびっくりする」


「百八十九!」


 巴は即座に言った。


 思ったより、声が大きかった。


 千夜と千瀬が同時に巴を見る。


 巴は少しだけ口を閉じた。


「……一年の時は、百八十九だった」


「そこ、すぐ訂正するんだ」


「大事なことだから!」


「百九十近くは、だいたい合ってると思うけど」


「全然違う」


「違うんだ」


「百八十九」


「分かった。百八十九」


 千夜はうなずいた。


 けれど、口元は少し笑っていた。


「でも、それ一年の時でしょ?」


「……うん」


「それから測ってないんでしょ?」


「測っていない、測りたくない!」


「じゃあ、今はもう少し伸びててもおかしくないよね」


「千夜」


「怒らない怒らない」


「怒っていない」


「顔が怒ってる」


「怒っていない」


 巴は低く言った。


 その瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなった。


 千瀬の背筋が、ぴんと伸びる。


「あの」


「何?」


「もしかして、二メートル近くあったりするんじゃないですか、いまは」


 巴は、何も言わなかった。


 ただ、千瀬を見た。


 じっと見た。


 千瀬はすぐに目を伏せた。


「すみません」


「千瀬」


「はい」


「今のは、かなり余計」


「すみません」


 巴は小さく息を吐いた。


 また圧が出たかもしれない。


 そう思った。


 身長のことを言われると、どうしても少し反応してしまう。


 自分の体が大きいことは分かっている。


 それが強さにつながっていることも分かっている。


 けれど、可愛いを考えている時にそこを突かれると、少しだけ困る。


「とにかく」


 千夜が笑いをこらえながら言った。


「男子三人が逃げたのは、巴が悪いというより、巴が巴だったからだと思う」


「それは慰め?」


「半分」


「残り半分は?」


「事実」


「千夜」


「ごめん」


 千夜は、もう完全に笑っていた。


 巴は不満そうに二人を見る。


 北条は笑わなかった。


 それなのに、この姉妹は二人そろって大笑いしている。


 真白の丁寧さと、この姉妹の遠慮のなさ。


 同じ人間でも、ここまで違うものなのか。


「それで?」


 千夜が笑いをこらえながら聞いた。


「陸上部では何をしたの?」


「まず、困った時に小さく笑った」


「うん」


「佐藤に、獣の目と言われた」


「……獣?」


「何かを狙っている獣の目だと」


「……」


「私は自然に笑ったつもりだった」


「巴」


「何?」


「それは、自然じゃなかったんだと思う」


「そうかもしれない」


 千夜は口元を押さえた。


 千瀬も肩を震わせている。


「次に、タオルを両手で持って、少し首を傾け、かわいらしくした」


「うん」


「威嚇か何かかと言われた」


「……っ」


「何かを問い詰める前の間合いに見えるとも言われた」


「巴姉」


 千瀬が震えた声で言った。


「それは、可愛いの研究なんですよね?」


「うん」


「威嚇の研究ではなく?」


「違う」


「すみません」


「そのあと、圧があると言われた」


「圧」


「見たことのない圧だと」


「……それで?」


「だから、佐藤の胃の調子を見た」


「どうやって?」


「少し手が当たった」


「殴ったの?」


「殴ったというか」


「殴ったんでしょ?」


「……佐藤から見れば、そうかもしれない」


「佐藤くん、本当にかわいそう」


「余計なことを言うから」


「いや、今回は佐藤くんがかわいそう」


「少しだけ、そう思う」


「少しだけなんだ」


 千夜はまた笑った。


 千瀬もつられて笑う。


「それから、グラウンドでも少し試した」


「まだ試したんだ」


「佐藤の反応だけで結論を出すのは早いと思った」


「うん」


「朝比奈にも、少しだけ」


「それで?」


「普通だった」


「普通」


「驚きもしない。怖がりもしない。可愛いとも言わない」


「……」


「ただ、いつも通りだった」


「それはそれで朝比奈くんらしいね」


「うん」


「他には?」


「朝比奈を見て、すぐ逸らして、また見た」


「目線の研究?」


「うん。相手を見る。でも見すぎない」


「それで?」


「何か考えごとがあるのかと聞かれた」


「……」


「別に、考えごとがあったわけではない」


「巴」


「何?」


「それ、普通に何か考えごとがあるように見えるよ」


「やっぱり?」


「やっぱり」


「難しい」


「うん。難しいね」


 千夜は、笑いすぎて目元を押さえていた。


 千瀬も、口元を押さえたまま肩を震わせている。


「巴姉」


「何?」


「ちなみに、そのポーズは今できますか?」


「ポーズ?」


「タオルを両手で持って、少し首を傾げるやつです」


「……今?」


「はい」


「なぜ」


「見たいので」


「千瀬」


「すみません。でも、見たいです」


「私も見たい」


「千夜」


「話を聞くために必要な確認だと思う」


「絶対に違う、面白がってる」


「いいから」


 巴はしばらく黙った。


 だが、説明するには実演した方が早いのも事実だった。


 巴は近くにあったクッションを両手で持った。


 胸の前で軽く抱える。


 そして、少しだけ首を傾げた。


「……こう」


 千夜と千瀬が沈黙した。


 次の瞬間、二人は同時に吹き出した。


「千夜」


「ごめん、無理」


「千瀬」


「すみません、巴姉。でも、これは、これは」


「何?」


「可愛いというより、これから何かを始める武道家みたいです」


「武道家」


「はい。すごく姿勢がいいです」


「それは悪いこと?」


「悪くはないです。でも可愛い仕草としては、圧が強いです」


「圧」


 千夜は笑いながらうなずいた。


「真白ちゃんがやったら、守ってあげたくなる仕草かもしれないけど、巴がやると、守る側が身構えてしまう」


「そんなに違う?」


「違う」


「全然違います」


 千瀬まで即答した。


 巴はクッションを下ろした。


「……結局、私は北条にはなれないらしい」


「なれないよ」


 千夜はあっさり言った。


「そもそも、なる必要もない」


「あなたはあなたでいいって、前にも言ったじゃん」


「……」


「真白ちゃんみたいになる必要も、早咲さんみたいになる必要もない。巴が巴じゃなくなったら、それはもう巴の可愛さじゃないでしょ」


「巴の可愛さ」


「そう」


「それが分からないから困っている」


「分からなくてもいいんだよ」


「いいの?」


「いいよ。少なくとも、今日みたいに真面目に可愛いを研究して、全部違う方向に行って、最後に落ち込んでる巴は、かなり巴らしい」


「可愛い?」


「可愛い」


「本当に?」


「本当」


「でも、佐藤には獣の目と言われた」


「佐藤くんは被害者だから」


「威嚇とも言われた」


「それも佐藤くんは被害者だから」


「問い詰める前の間合いとも言われた」


「言葉選びはひどいけど、たぶん相当怖かったんだと思う」


「朝比奈には考えごとがあるのかと聞かれた」


「朝比奈くんは普通に心配してる」


「……」


「ね?」


「何が?」


「みんな、巴を見てるってこと」


「……」


「怖がったり、心配したり、笑ったりしてるけど、見てる」


「可愛いとは思われていない」


「そこはまだ分からない」


「分からない」


「うん。分からない。でも、誰かの真似をして可愛くなるのは、たぶん違う」


「違う」


「たぶんね」


「……結局、可愛いは自分には向いていなかったのかもしれない」


「違う違う」


 千夜は首を横に振った。


「向いてないのは、真白ちゃんや早咲さんの真似をすること」


「真似」


「そう。巴の可愛さは、巴の中にあるんだよ」


「難しい」


「難しいね」


「研究が必要」


「また研究に戻る」


「駄目?」


「駄目じゃない」


 千夜は笑った。


「でも次は、佐藤くんを殴らない研究から始めよう」


「殴ったつもりはない」


「佐藤くんから見たら殴られてるよ」


「……そうかもしれない」


「そこから直そう」


「努力する」


「やめるとは言わないんだ」


「余計なことを言われなければ」


「佐藤くん、本当にかわいそう」


 千夜はまた笑った。


 千瀬も笑っている。


 巴はむっとした。


 けれど、不思議と気持ちは少し軽かった。


 真白のようにはなれない。

 早咲南のようにもなれない。


 可愛い仕草を真似しても、自分がやると別のものになる。


 それは、少し残念だった。


 でも。


 北条も、千夜も、同じことを言った。


 巴は巴のままでいい。


 それが本当なのかは、まだ分からない。


 けれど、今日ひとつだけ分かったことがある。


 可愛い仕草を真剣に解析すると、可愛いから遠ざかるらしい。


 そしてもうひとつ。

 前田姉妹は、真白ほど遠慮してくれない。


 巴はそう結論づけた。


 その夜、巴は自室の机に向かい、ノートを開いた。


 可愛いとは何か。


 その下に、今日の結論を書く。


 北条にはなれない。


 早咲にもなれない。


 佐藤には明日謝る。


 そして、最後に少しだけ迷ってから、もう一行書き足した。


 自分のままで、可愛いとは何か。


 答えは、まだ遠い。


 けれど、考えることをやめる気にはなれなかった。


 恒一に可愛いと思われたいという気持ちは、まだ消えそうになかった。



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