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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第184話 可愛いと巴

 部室棟を出ると、グラウンドにはすでに部員が集まり始めていた。


 陸上部のグラウンドに立つ巴は、やはり目立つ。


 百九十センチ近い長身に、道場で叩き込まれたまっすぐな背筋。


 肩の位置も、足の置き方も、無駄がない。


 ただ立っているだけでも、向かい合う相手には少し圧がある。


 巴自身は、それを怖がらせたいわけではない。


 だから今日は、その圧を少しでも消したかった。


 ここからは、いつもの自分に戻る。


 巴はそう思った。。


 だが、グラウンドの向こうから恒一が歩いてくるのが見えた瞬間、思考はまた少しだけ揺れた。


 朝比奈がいる。


 ここで一度くらい、反応を見てもいいのではないか。


 部室では失敗した。


 だが、佐藤相手だった。

 朝比奈なら、違うかもしれない。


 もちろん、何をしているかは言わない。


 言えるはずがない。


 ただ、ほんの少しだけ。


 昨日研究した仕草を、自然に混ぜる。


 それくらいなら、大丈夫かもしれない。


「佐藤、どうした?」


 恒一が、腹を押さえている佐藤を見て首をかしげた。


「朝比奈」


 佐藤は、すがるように恒一を見た。


「今日は真田を刺激するな」


「刺激?」


「特に、表情と仕草について何か言うな」


「表情と仕草?」


「言うな」


「分かった」


「素直で助かる」


 恒一は真面目にうなずいた。


 佐藤は腹を押さえたまま、深く息を吐いた。


「俺もさっき、真田に腹へパンチを二発も――」


 そこまで言いかけて、佐藤は止まった。


 恒一の後ろで、巴がこちらを見ていた。


 すごく見ていた。


 まるで獣が獲物を見つけた時のような目だった。いや、もしかすると、自分はもう獲物なのかもしれない。


 佐藤の胃が、きゅっと縮んだ。


「……いや」


「いや?」


「パンを二個もらった」


「パン?」


「ああ」


 佐藤は腹を押さえながら、必死に続けた。


「真田が、俺の胃腸を心配してな。腹に優しいパンを二個もらった」


「そうなのか」


 恒一は真面目にうなずいた。


「真田は気が利くな」


 巴は、ほんの少しだけ目を丸くした。


 それから、恒一に向かってにっこり笑う。


「うん」


 嬉しそうだった。

 それも、かなり嬉しそうだった。


 佐藤は、その笑顔を見て、さらに胃が痛くなった。


 恒一は、それから巴を見る。


「真田、体調が悪いのか?」


「悪くない」


「そうか?」


「うん」


「でも、いつもより少し考え込んでいるように見える」


「考え事はしている」


「練習のことか?」


「……少し違う」


「そうなのか」


「うん」


 巴は、少しだけ迷った。

 ここで朝比奈に試すべきだろうか。


 佐藤では失敗した。


 だが、佐藤は佐藤である。


 朝比奈とは違う。


 佐藤には威嚇に見えても、朝比奈には違って見えるかもしれない。


 巴はタオルを両手で持ち直した。


 胸の前に軽く寄せる。


 首を少しだけ傾げる。


 笑顔は、さっきよりさらに弱く。


 目は、見すぎない。


 ただし、逸らしすぎない。


 角度は自然に。


 圧は消す。


 圧を消す。


 巴は、できるだけ自然に恒一を見た。


「朝比奈」


「ああ」


「今日のフォーム、後で見てもらってもいい?」


「もちろん。どこか気になるところがあるのか?」


「少し」


「分かった」


 恒一は普通にうなずいた。


 普通だった。

 驚きもしない。


 怖がりもしない。

 可愛いとも言わない。


 ただ、いつも通りだった。


 巴は少しだけ肩を落とした。


 佐藤は、その様子を見ていた。


 そして、つい口を出した。


「朝比奈」


「何だ?」


「今のを見て、何も思わなかったのか?」


「今の?」


「真田が、タオルを両手で持って、首を傾げて、妙な角度で笑っていただろう」


 巴は静かに佐藤の方を見た。


 佐藤は、その視線を見て一歩引いた。


 今はまだ何もされていない。


 だが、腹はすでに痛かった。


「待て。今のは、ただの確認で――」


 佐藤は言いかけて、止まった。


 巴が見ていた。


 やはり、すごく見ていた。


 余計なことを言うな。


 その目は、そう語っていた。


「佐藤?」


 恒一が覗き込む。


「大丈夫か?」


「……」


 佐藤は口を開いた。


 しかし、すぐには声が出なかった。


 腹を押さえたまま、かすかに震えている。


 恒一はさらに心配そうな顔になった。


「かなり具合が悪そうだな」


「うん」


 巴は真面目な顔でうなずいた。


「佐藤は、今日は具合が悪いらしい」


 佐藤は、目だけで巴を見た。


 違う。


 違うだろう。


 そう言いたかった。


 だが、まだ声が出ない。


「佐藤先輩、大丈夫ですか……?」


 近くにいた一年生が、おずおずと声をかけた。


 佐藤は腹を押さえたまま、何とか顔を上げた。


 言いたいことはある。


 山ほどある。


 だが、ここで何かを言えば、もっと胃が痛くなる。


 その自信だけはあった。


 その時、巴がすっと佐藤の横にしゃがんだ。


 そして、佐藤の耳元に顔を寄せる。


「余計なことは喋らないように」


 声は小さかった。

 けれど、佐藤の胃にははっきり響いた。


 佐藤は、反射的に小さくうなずいた。


「……分かった」


 ようやく出た声は、かなり弱かった。


 一年生がさらに心配そうな顔になる。


「本当に大丈夫ですか?」


「……大丈夫だ」


 佐藤は、腹を押さえながら言った。


「ちょっと、胃の調子が悪いだけだ」


 巴は真面目な顔でうなずいた。


「そうらしい」


「……」


「佐藤は今日は具合が悪いみたいだから、練習はここまでにした方がいい」


 佐藤は巴を見た。


 違う。


 具合が悪かったんじゃない。


 具合を悪くされたんだ。


 そう言いたかった。


 だが、巴の目を見て、黙った。


「保健室に連れていく」


 巴が言った。


 恒一は少し驚いたように巴を見る。


「真田が?」


「うん」


「助かる。真田は優しいな」


 佐藤は目を見開いた。


 朝比奈。

 騙されるな。


 その女は優しさで俺を保健室に連れていくんじゃない。


 証拠を処理しようとしているだけだ。


 そう叫びたかった。


 しかし、声は出なかった。


 巴は佐藤の腕を取る。


「立てる?」


「……立つ」


「無理しなくていい」


「立つ」


 佐藤は、ほとんど意地だけで立ち上がった。


 周囲の一年生たちは、完全に動きを止めている。


 誰も何も言わない。


 言えない。


 その時、一人の一年生が、おずおずと手を上げた。


「あの、真田副部長」


 巴が、ゆっくり振り向いた。


「何?」


「今日の練習メニューなんですけど……」


 巴は、佐藤の腕を支えたまま、その一年生を見た。


「今、取り込み中!」


「す、すみません……!」


 一年生は涙目になって、すぐに下がった。


 佐藤はその様子を見て、心の中で頷いた。


 正しい判断だ。


 今の真田に近づいてはいけない。


 今日は危険だ。


 巴は佐藤に肩を貸すようにして、保健室の方へ歩き出した。


 その様子を見て、恒一がぽつりと言った。


「少し羨ましいな」


 佐藤は、思わず足を止めかけた。


「……朝比奈」


「何だ?」


「お前は本当に、平和なやつだな」


「そうか?」


「そうだ」


 佐藤は力なく言った。


「お前はもう少し、人を疑うことを覚えた方がいい」


「真田をか?」


「いや」


 佐藤は、巴に肩を貸されながら首を横に振った。


「今の発言は忘れろ」


「そうなのか?」


「ああ」


 巴が、佐藤の耳元で静かに言った。


「保健室まで、ちゃんと歩ける?」


「……歩ける」


「無理しなくていい」


「歩ける」


 佐藤は意地だけで答えた。


 恒一は心配そうに見ている。


「本当に大丈夫か?」


「大丈夫だ」


「さっきから腹を押さえているけど」


「ああ」


 佐藤は腹を押さえたまま、少しだけ遠い目をした。


「腹の調子を見てもらった」


「真田に?」


「ああ」


「どうだった?」


「やっぱり、調子が悪いみたいだ」


「そうか」


 恒一は真剣な顔でうなずいた。


「それなら無理しない方がいいな」


「ああ」


 佐藤は力なく答えた。


「だから、保健室に行く」


「分かった。真田、頼む」


「うん」


 巴は佐藤を支え直した。


 その動きだけ見れば、本当に具合の悪い部員を気遣う副部長だった。


 佐藤は、支えられながら心の中で呟いた。


 朝比奈。


 お前は、もう少し人を疑うことを覚えろ。


 そして俺は、もう少し真田の視線を読むことを覚える。


 佐藤はそう決意しながら、巴に支えられて保健室の方へ歩いていった。


 巴は、佐藤を支えながら歩いていた。


 今日の研究は、可愛いという意味では失敗だった。


 笑顔は、獣の目。

 両手持ちと首傾げは、威嚇。


 目線は、文句があるように見える。


 角度をつけた笑顔は、妙な角度と言われた。


 佐藤には、命の危険を感じさせた。


 後輩には、怖がられた。


 恒一には、真剣に何かを練習していると思われた。


 しかし、可愛いとは言われなかった。


 可愛いは、ただ形を真似すればいいものではないらしい。


 それは分かった。


 分かったが、どうすればいいのかは分からない。


 やはり、自分一人で考えても限界がある。


 可愛いと思われている相手に聞くしかない。


 北条に聞いてみよう。


 どうすれば、北条のようになれるのか。


 どうすれば、守りたくなるように見えるの

 か。


 それを聞くのは、かなり恥ずかしい。


 けれど、ここまで来たら仕方がない。


 可愛いの研究は、まだ終わっていない。


 むしろ、始まったばかりだった。


 ただ、今日一日を失敗で終わらせるほど、巴は落ち込んでいなかった。


 朝比奈には、優しいと言われた。


 気が利くとも言われた。


 可愛いではない。


 だが、悪くない。


 巴は、佐藤を支えながら小さく息を吐いた。


 今日は、そういうことにしておく。


 少しだけ満足して、巴は保健室へ向かった。


 その日、陸上部の一年生たちの間では、静かに一つの認識が広まった。


 真田先輩は、優しい。


 ただし、逆らってはいけない。


 そして佐藤先輩は、たぶん何かをした。


 誰も口には出さなかったが、全員がそう思っていた。

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