第183話 可愛いは威嚇ではない
陸上部部室
放課後。
真田巴は、二年B組の教室を出て、陸上部の部室へ向かっていた。
頭の中には、昼休みまでにまとめた可愛いの研究結果が残っている。
早咲南を観察して分かったこと。
可愛いには、どうやら仕草と表情が関係しているらしい。
もちろん、それだけで全てが分かったわけではない。むしろ、ほとんど分かっていない。
だが、観察だけで終わっていては意味がない。走り方も、フォームも、実際に試してみなければ身につかない。
ならば、可愛いも多分同じである。
少し不安な気もしたが、巴は取り敢えずそういうことにした。
問題は、誰の前で試すかだった。いきなり朝比奈に試すのは、大胆過ぎて危険すぎる。
それに、もし何をしているのか聞かれても答えられない。
「可愛く見えるか試している」
そんなことを、朝比奈本人に言えるわけがなかった。だから、まずは別の相手で試す必要がある。
同じ陸上部で、ある程度は巴に慣れている相手。多少おかしなことが起きても、大きく騒ぎすぎない相手。
朝比奈ほど、反応を気にしなくていい相手。そこまで考えて、巴は一人の顔を思い浮かべた。
佐藤忠一。
佐藤なら、何とかなる。
失敗しても、全然何とかなるし、出来る
胃を痛めるかもしれないが、それはいつものことだ。気にしなくていい。
巴は真面目にそう考えた。ひたむきに考えているからこそ、表情も自然と真剣になる。
だが、その時点で、すでに少し間違っていた。
陸上部の部室の扉を開ける。
中には、まだ人は少なかった。
グラウンドへ出るには少し早い時間で、部員たちもちらほらと集まり始めている程度だ。
棚にはタオルや記録用紙が置かれている。隅には、昨日片づけきれなかった用具も残っていた。
そして、部室の中ほどで、佐藤がメニュー表らしき紙を見ていた。
ちょうどいい。
巴はそう思った。
あくまで、機会があればと思っていただけだ。
だが、機会は向こうからやって来た。
それなら、逃がす理由は全くない。
巴は鞄を置き、棚から自分のタオルを取った。
まずは、自然な笑顔。
早咲南は、困った時に小さく笑っていた。
ただ笑えばいいわけではない。
角度に気をつけて、少しだけ顔を傾ける。
目元には力を入れすぎない。
口元を少し緩める。
見る。
でも、じっとは見すぎない。
巴は、頭の中で一つ一つ確認した。
その時、佐藤が顔を上げた。
「真田」
「何?」
「今日のメニューなんだが」
「うん」
巴は、できるだけ自然に笑った。
顔の角度を少しだけ変えてみた。
視線を強くしすぎないよう気をつけた。
口元もより緩める。
小さく可愛らしく微笑んでみた。
半日かけて観察した結果を、ここで全て使う。
佐藤の動きが止まった。
「……真田」
「何?」
「何か文句があるのか?」
「文句?」
「俺に?」
「ない」
「本当に?ないのか?」
「ない」
「なら、なぜそんな顔で見る」
「そんな顔?」
「笑っているようにも見えるが、目がまったく笑っていない」
「……」
「まるで獣の目だ」
「獣」
「ああ。何かを狙っている獣の目だ」
巴の表情が、止まった。
佐藤は少しだけ後ずさった。
「待て。黙るな。今の沈黙は怖い」
巴は、内心で反省した。
失敗。
笑顔は、獣の目。
自然な笑顔の実践は失敗である。
だが、一度の失敗で諦めるわけにはいかない。
修正して、次に生かす。
次は仕草だ。
巴は手に持っていたタオルを見た。
先程のメモ。
物を両手で持つ。
胸の前で軽く抱える。
少しだけ首を傾げる。
困ったように笑う。
これを組み合わせれば、可愛いに近づくはずだ。
巴はタオルを両手で持った。
胸の前に軽く寄せる。
首を少しだけ傾げる。
顔の角度も調整する。
笑顔は控えめに。
ただし、今度は目に力を入れすぎない。
これでもか、というくらい丁寧に、昨日研究した形を作った。
「佐藤」
「何だ」
「今日の練習、何から始めるの?」
巴としては、かなりうまくできたつもりだった。
声も少し抑えた。
タオルも両手で持っている。
首も傾げている。
笑顔も、さっきより調整した。
これなら、先ほどよりは良いはずだ。
佐藤は、しばらく無言だった。
そして、真顔で言った。
「真田」
「何?」
「それは、威嚇か何かか?」
「……」
「何か言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってくれ!」
「言いたいこと?」
「文句があるなら言ってくれ!頼む!」
「文句はない」
「本当に?」
「ない」
「なら、なぜそんな圧を出す。こっちは不安で仕方ない」
「圧?」
「見たことのない圧だ。何かを問い詰める前の間合いに見える」
「問い詰める」
「真田がその格好で黙っていると、俺が何かやらかして、その証拠を握られているような気分になる」
「……」
「黙るな。その顔と目だ!今まさに証拠を握っている顔になっている」
巴は、静かに佐藤を見た。
「佐藤」
「何だ」
「胃の調子は大丈夫?」
「胃?」
「うん」
「……まあ、大丈夫だ」
「そう」
次の瞬間、巴はさっと間合いを詰めていた。
佐藤が反応するより早く、巴の拳が腹に入る。
強くはしていない。
巴としては、かなり抑えた。
しかし、佐藤の体はくの字に折れた。
「ぐぅ……っ」
佐藤は低く、唸り声のような声を上げた。
部室にいた一年生が、ぎょっとして振り返る。
「佐藤先輩、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ」
「全然大丈夫そうじゃないです」
「男には、大丈夫と言わなければならない時がある」
「今が、そうですか?」
「そう、それが今だ……」
佐藤は腹を押さえながら、ゆっくり体を起こした。
「真田」
「何?」
「今のは普通に入った」
「すまない、少し手が当たった」
「当たったというより、入った」
「佐藤の胃の調子を少し見ただけ」
「何で胃の調子を見るのに腹に拳が入るんだ」
「佐藤の胃は大丈夫そうだ」
「俺の声を聞いてそう判断したのか?」
「うん」
「判断基準がおかしい」
近くにいた一年生が、おずおずと巴を見る。
「あの、真田先輩」
「何?」
「今のは、少し謝った方がいいんじゃ……」
「少し手が当たっただけ」
「え」
「佐藤の胃の調子を確認しただけ」
「そ、そうなんですか?」
「うん」
巴は真顔でうなずいた。
一年生はその巴の顔をみて、もう何も言えなくなった。
佐藤はその様子を見て、低い声で言った。
「真田、後輩を黙らせるな」
「黙らせていない」
「今、完全に怖がっていた」
「怖がっていない」
「怖がっている。俺も正直怖い。お前が次何をするのか…」
「佐藤」
「何だ」
「うるさい!!」
「はい」
佐藤は素直に黙った。
一年生も素直に黙った。
部室の空気が、少しだけ重くなる。
巴は、内心で記録した。
両手持ち。
首傾げ。
角度つき笑顔。
結果、威嚇。
理由、圧が出る。
改善点、圧を消す。
次は圧を消す。
巴はその言葉を心の中で繰り返した。
だけど、圧とは何なのか。
どうすれば消えるのか。
分からない。
分からないが、分からないからこそ研究する意味がある。
「真田」
「何?」
「その顔で考え込むな」
「どうして?」
「次にまた何をされるのか分からなくて怖い」
「何もしない」
「さっき何かしただろう」
「胃の調子を見ただけ」
「それで、まだ押し通すのか?」
「大丈夫そうだった」
「俺は大丈夫じゃなかった」
「でも、立っている」
「立っているから大丈夫とは限らない」
佐藤は胃のあたりを押さえた。
巴は、タオルを握り直した。
部室での実践は、失敗だった。
だが、これは佐藤相手だからかもしれない。
佐藤は余計なことを言う。
佐藤は必要以上に怯える。
佐藤はすぐ胃を押さえる。
つまり、佐藤の反応だけで結論を出すのはまだ早い。
朝比奈なら、違うかもしれない。
そう思ったところで、巴は一度視線を落とした。
いきなり、朝比奈に試すのはまだ危険、そう考えて佐藤で試した。
結果は失敗。
しかし、研究に失敗はつきものだ。
陸上でも、一度の失敗で終わりではない。
半日かけて観察した。
メモも取った。
部室で一度実践した。
なら、次はもう少し調整してみるべきではないか。
巴は、そう結論づけた。
少なくとも、朝比奈の反応を一度も見ないままでは、研究の方向が合っているか分からない。
「そろそろグラウンドへ出るか」
佐藤が言った。
「うん」
「真田」
「何?」
「頼むから、外では普通にしてくれ」
「普通」
「ああ。いつもの真田でいてくれ」
「いつもの」
「今日の真田は、何か酷く怖い」
「いつもは怖くない?」
「今、それを聞くのか」
「答えて」
「……いつもは、怖いというより迫力がある」
「佐藤」
「悪かった。今のは完全に言葉を間違えた」
「行く」
「ああ。行こう。部室から出よう。できれば平和にしよう」
佐藤は腹を押さえたまま、メニュー表を持って部室を出た。
巴もタオルを持ち、後に続く。




