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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第182話 可愛いの研究

 昨夜のことだった。


 可愛いとは何か。


 真田巴は、その言葉をノートに書いた。


 書いた瞬間、自分でも何をしているのだろうと思った。


 けれど、消さなかった。


 朝比奈に可愛いと思われたい。


 今すぐでなくてもいい。

 いつか、可愛いと言われたい。


 それは巴にとって、かなり恥ずかしい願いだった。


 しかし、嘘ではなかった。


 だから、巴は決めた。


 分からないなら、調べればいい。


 走り方も、フォームも、会話の仕方も、分からないことは観察し、考え、反省してきた。ならば、可愛いも同じである。


 少し違う気もしたが、巴はそういうことにした。


 翌日。


 二年B組の教室で、巴は近くにいた女子生徒に声をかけた。


「少し聞いてもいい?」


「はい、巴様。何でしょうか」


 女子生徒は、少し緊張したように背筋を伸ばした。


 二年B組の女子は、だいたい巴を「巴様」と呼ぶ。


 巴としては普通に呼んでほしい気持ちもある。けれど、今さら全員に直してもらうのも難しい。


 だから最近は、あまり気にしないようにしていた。


 ただ、気にしないようにしているだけで、慣れたわけではない。


「この学年で、可愛い子って誰だと思う?」


「……可愛い子、ですか?」


「うん」


「巴様が、それをお聞きになるんですか?」


「そんなに変?」


「いえ、変というか、少し意外で」


「そう」


 巴は少しだけ視線を落とした。


 やはり、自分と可愛いは結びつかないのだろうか。


「あ、悪い意味ではありません」


「分かってる」


「巴様は、可愛いというより、格好いいとか、綺麗とか、凛としているとか、そういう感じなので」


「……そう」


「はい。すごく素敵だと思います」


「ありがとう」


 褒められている。


 それは分かる。


 けれど、今知りたいのはそこではなかった。


「それで、可愛い子は?」


「二年生だと、やっぱりA組の北条真白さんじゃないですか?」


「北条」


「はい。北条真白さんは、可愛いってよく言われてます。男子も女子も言ってますよ」


「人気なの?」


「うーん。可愛いとは言われてますけど、男子人気がすごいかって言われると、少し違うかもしれません」


「どうして?」


「だって、A組の朝比奈くんの婚約者だって話じゃないですか」


「……」


「可愛いとはいえ、婚約者がいる子に男子の好意は向きにくいですよね」


「それは違う!」


「え?」


「……何でもない」


 巴は、思わず相手を見てしまった。


 見た、というより、睨んでしまったのかもしれない。


 女子生徒の肩が、びくっと跳ねた。


「す、すみません」


「なぜ謝るの?」


「すごく怒っているように見えたので」


「怒っていない」


「そうなんですか?」


「怒っていない」


「本当にすみません」


「だから、謝らなくていい」


 巴は小さく息を吐いた。


 北条真白が朝比奈恒一の婚約者。


 その噂は、いまだ学校に残っている。


 最初の印象が強すぎたせいで、半分事実のように広がってしまっている。


 違う。


 少なくとも、巴はそう思っている。


 けれど、それをここで強く否定することもできない。なぜ自分がそこまで否定したいのかも、説明できない。


 それに、北条真白が可愛いと言われている理由は分かる。


 小柄で、丁寧で、可憐で、守りたくなるような雰囲気がある。


 研究対象としては、かなり有力だった。


 だが、北条はA組だ。


 わざわざA組まで行って、北条をじっと見ているのは明らかにおかしい。


 それに、北条のそばには千瀬がいることも多い。


 千瀬に「巴姉、真白姉をどうしてそんなに見ているんですか」と聞かれる未来が、かなりはっきり想像できた。


 それはできれば避けたい。


 巴は、気持ちを切り替えるように言った。


「じゃあ、B組では?」


「B組、ですか?」


「このクラスにはいないの?」


「えっと……早咲南さんとか」


「早咲南(はやさき みなみ)」


「はい。早咲さんは、仕草が柔らかいというか、笑い方がとても可愛いんです」


「仕草」


「ちょっと首を傾げたり、物を両手で持ったり、困った時に小さく笑ったり」


「なるほど」


「あと、話す時に相手の目を見るんですけど、見すぎないというか、距離感が自然で」


「見すぎない」


「はい」


「距離感」


「そうですね」


 巴は心の中でうなずいた。


 可愛いには、仕草が関係している。


 笑い方。


 物の持ち方。


 目線。


 距離感。


 これは、研究対象として成立する。


「ありがとう。参考になった」


「いえ。お役に立てたなら嬉しいです、巴様」


「助かった」


 女子生徒は、ほっとしたようにうなずいた。


 巴は、自分のノートを開いた。


 可愛いの研究。


 対象候補。


 早咲南。


 そう書いてから、巴はすぐに顔を上げた。


 早咲南は、友人と話していた。


 小柄というほどではないが、巴よりはかなり小さい。


 笑う時に少し肩をすくめる。


 話を聞く時、相手の方へほんの少し体を向ける。


 なるほど。


 確かに、柔らかい。


 巴は真面目に観察した。


 真剣に、見た。


 まじまじと。


 早咲南が、ふとこちらを向いた。


 目が合った。


 南は、びくっと肩を跳ねさせた。


 巴は、すぐに視線を落とした。


 しまった。

 見すぎたかもしれない。


 距離感が自然、という話を聞いたばかりなのに、いきなり見すぎた。


 巴はノートに書き足した。


 見すぎない。

 観察は自然に。


 自然に、というのが一番難しい気がした。


 休み時間。


 巴は廊下を歩きながら、さりげなく早咲南を観察しようとした。


 南は友人たちと話している。


「昨日の課題、難しくなかった?」


「難しかった。最後の問題、途中で分からなくなった」


「私も」


「えー、どうしよう」


 南は困ったように笑い、手に持っていたノートを胸の前で軽く抱えた。


 巴は、そっとメモを取る。


 困った時に小さく笑う。


 ノートを胸の前で抱える。


 南がまたこちらを向いた。


 巴は、廊下の掲示物を見るふりをした。


 やはり難しい。観察しようとすると、どうしても視線が鋭くなる。


 陸上でフォームを見る時の癖かもしれない。


 重心。


 肩の動き。


 手の位置。


 そういうものを見る時と同じ目になってしまう。


 可愛いの研究なのに、なぜかフォームチェックに近くなっている。


 巴は少し反省した。


 その頃。


 早咲南は、友人の袖をそっと引いて、囁いた。


「ねえ」


「何?」


「私、何かしたかな?」


「何が?」


「今日、巴様が、すごい目でよくこっち見てるの」


「巴様が?」


「うん。朝から何回か目が合って」


「え、すごいじゃん」


「すごいじゃないよ。怖いよ」


「巴様、格好いいよね」


「それは分かるけど、今そういう話じゃなくて」


「何か用があるんじゃない?」


「だったら直接言ってくれると思う」


「聞いてみれば?」


「怖くて聞けない」


「じゃあ、誰かに聞いてもらう?」


「誰かって誰?」


「男子とか」


「男子が巴様に聞けると思う?」


「……一応、頼んでみる?」


「頼むだけなら」


 南の友人は、近くにいた男子生徒に声をかけた。


「ねえ」


「何?」


「ちょっと巴様に聞いてきてくれない?」


「何を?」


「南が何かしたかどうか」


「何で俺が?」


「男子でしょ」


「男子って便利な言葉じゃないぞ」


「いいから、ちょっと聞いてきて」


「……聞くだけだぞ」


 男子生徒は、最初から無理とは言わなかった。少しだけ身を乗り出し、巴の方を見る。


 巴は、ちょうど南の仕草を思い出しながら、真剣に考え込んでいた。


 笑い方。


 持ち方。


 目線。


 距離感。


 そのすべてを頭の中で整理していた。


 当然、表情はかなり真剣だった。


 男子生徒は、巴の顔を見た。


 そして、すぐに戻ってきた。


「あれは無理だ」


「早い」


「無理なものは無理だ」


「まだ聞いてないじゃん」


「聞く前に分かった」


「何が?」


「目が怖い」


「そんなに?」


「獲物を狙うライオンみたいな目をしてる」


「ライオン」


「南、お前、一体何をしたんだ」


「何もしてないよ!」


「本当か?」


「本当だって!」


「でもあの目は、何かを見つけた目だぞ」


「何かって何?」


「分からない。分からないから怖い」


「聞いてきてよ」


「嫌だ」


「男子でしょ」


「男子でも無理なものは無理だ」


「弱い」


「弱くていい。ここにいると、俺まで睨まれてる気がしてくる」


「巴様は南を見てるんでしょ」


「あの視線の射程内にいる時点で危険なんだよ」


「射程内って」


「ここは危険地帯だ。俺は自分の席に戻る」


「逃げた」


「違う!これは生存戦略だ」


 男子生徒は、本当に自分の席へ戻っていった。


 南は小さく肩を落とした。


「どうしよう」


「どうしようね」


「私、本当に何かしたかな」


「たぶんしてないと思う」


「じゃあ何で見てるの?」


「分からない」


「わたし、怖い」


「分かる」


 巴は、もちろん知らない。


 巴はただ、真剣だった。


 早咲南の仕草を観察し、可愛いとは何かを理解しようとしているだけだった。


 ただ、その視線が少し本気すぎた。


 昼休み。


 巴は、さらに研究を続けた。


 南は弁当を食べながら、友人と話している。


 笑う時に口元へ手を添える。


 相手の冗談に少し遅れて笑う。


 飲み物を両手で持つ。


 巴はメモを取ろうとした。


 だが、手帳を開いた瞬間、近くにいた女子生徒に見られた。


「巴様、何を書いているんですか?」


「……少し、記録を」


「記録?」


「気にしないで」


「気になります」


「気にしないで」


 巴は優しく穏やかに言ったつもりだった。


 しかし、女子生徒は即座に頭を下げた。


「はい、すみませんでした!」


 素直にうなずいたものの、その視線は明らかに泳いでいた。


 おそらく、また見すぎてしまった。


 巴は手帳を静かに閉じた。


 これは難しい。


 学校で可愛いの研究をするのは、思っていた以上に人目がある。


 しかも、内容を見られたら説明が難しい。


 可愛いとは何か。


 早咲南の仕草。


 笑う時に口元へ手。


 こんなメモを見られたら、どう言い訳すればいいのか。陸上のフォーム分析と言えば通じるだろうか。


 通じない。


 絶対に通じない。


 巴は手帳をしまった。


 今日は観察だけにしよう。


 メモは後で記憶を頼りに書けばいい。


 そう決めた。


 そう決めたのだが。


 午後の休み時間には、巴はまた手帳を開いていた。


 記憶だけに頼ると、細かい動きが抜ける。観察した内容は、その場で書かなければ精度が落ちる。


 そう考えると、どうしてもメモを取りたくなる。


 巴は、教科書を読むふりをしながら、手帳の端に小さく書いた。


 笑う時、口元に手。

 相手の方へ体を向ける。


 飲み物は両手。

 困った顔から小さく笑う。


 見すぎない。

 距離感は自然に。


 書いていると、思ったより情報がまとまっていく。


 これはいい。


 巴は少し満足した。


 可愛いには型がある。


 まだ完全には分からないが、少なくとも観察可能な要素はある。


 ならば、研究できる。


 研究できるなら、改善できる。


 巴は真剣な顔で、さらにメモを書き足した。


 その時、少し離れた席で、南の友人が青ざめた。


「南」


「何?」


「やっぱり、何かしたんじゃない?」


「だから、何もしてないって」


「でも、巴様が今、すごい目で南のことを見ながらメモしてる」


「え」


 南は固まった。


「メモ?」


「うん」


「私のことを?」


「たぶん」


「たぶんって何?」


「だって、南の方を見て、手帳に何か書いてるから」


「……」


「しかも、すごい真面目な顔」


「……私、本当に何かしたのかな?」


「したんじゃない?」


「してないよ、たぶん」


「じゃあ何でメモされてるの?」


「分からないよ」


 南の目が、少しずつ潤んでいく。


「私、謝った方がいいのかな」


「何を?」


「分からないけど」


「南、分からない謝罪は危ないよ」


「でも、巴様にメモされてるんだよ?」


「たしかに危ない」


「どうしよう」


「どうしようね」


 南は、今にも泣きそうな顔で机に視線を落とした。


 巴は、もちろん気づいていない。


 むしろ、手帳の出来に満足していた。


 笑い方。


 物の持ち方。


 目線。


 距離感。


 困り方。


 仕草。


 書けば書くほど、可愛いというものが少しずつ形を持っていくような気がした。


 巴は手帳を見下ろし、小さくうなずいた。


 ただ、ここで新しい問題に気づく。


 可愛い仕草というものは、見ているだけではよく分からない。


 どこが可愛いのか。

 なぜ可愛いのか。


 自分が同じことをしたらどうなるのか。


 そこまで考えなければ、研究とは言えない。


 観察だけでは足りない。


 実践が必要。


 巴は、手帳にそう書いた。


 書いてから、自分で少し固まった。


 実践。


 つまり、自分でやってみるということだ。


 南のように、困った時に小さく笑う。


 ノートを胸の前で抱える。


 飲み物を両手で持つ。


 相手の目を見て、見すぎない。


 巴は、少しだけ想像した。


 自分がノートを胸の前で抱え、小さく首を傾げる。


 その姿を想像して、すぐに手帳を閉じた。


 無理かもしれない。


 いや、最初から諦めてはいけない。


 走り方も、最初からできたわけではない。


 フォームも練習で身につける。


 可愛いも、きっと練習できる。


 巴は、真面目にそう考えた。


 そして、何も知らない早咲南は、少し離れた席で、泣きそうな顔のまま小さく呟いた。


「……私、明日も学校に来て大丈夫かな」


 南の友人は、何も答えられなかった。


 巴の可愛い研究は、順調に進んでいた。


 少なくとも、巴の中では。


 そして、その研究が周囲に何をもたらしているのか。


 巴はまだ、まったく気づいていなかった。

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