第182話 可愛いの研究
昨夜のことだった。
可愛いとは何か。
真田巴は、その言葉をノートに書いた。
書いた瞬間、自分でも何をしているのだろうと思った。
けれど、消さなかった。
朝比奈に可愛いと思われたい。
今すぐでなくてもいい。
いつか、可愛いと言われたい。
それは巴にとって、かなり恥ずかしい願いだった。
しかし、嘘ではなかった。
だから、巴は決めた。
分からないなら、調べればいい。
走り方も、フォームも、会話の仕方も、分からないことは観察し、考え、反省してきた。ならば、可愛いも同じである。
少し違う気もしたが、巴はそういうことにした。
翌日。
二年B組の教室で、巴は近くにいた女子生徒に声をかけた。
「少し聞いてもいい?」
「はい、巴様。何でしょうか」
女子生徒は、少し緊張したように背筋を伸ばした。
二年B組の女子は、だいたい巴を「巴様」と呼ぶ。
巴としては普通に呼んでほしい気持ちもある。けれど、今さら全員に直してもらうのも難しい。
だから最近は、あまり気にしないようにしていた。
ただ、気にしないようにしているだけで、慣れたわけではない。
「この学年で、可愛い子って誰だと思う?」
「……可愛い子、ですか?」
「うん」
「巴様が、それをお聞きになるんですか?」
「そんなに変?」
「いえ、変というか、少し意外で」
「そう」
巴は少しだけ視線を落とした。
やはり、自分と可愛いは結びつかないのだろうか。
「あ、悪い意味ではありません」
「分かってる」
「巴様は、可愛いというより、格好いいとか、綺麗とか、凛としているとか、そういう感じなので」
「……そう」
「はい。すごく素敵だと思います」
「ありがとう」
褒められている。
それは分かる。
けれど、今知りたいのはそこではなかった。
「それで、可愛い子は?」
「二年生だと、やっぱりA組の北条真白さんじゃないですか?」
「北条」
「はい。北条真白さんは、可愛いってよく言われてます。男子も女子も言ってますよ」
「人気なの?」
「うーん。可愛いとは言われてますけど、男子人気がすごいかって言われると、少し違うかもしれません」
「どうして?」
「だって、A組の朝比奈くんの婚約者だって話じゃないですか」
「……」
「可愛いとはいえ、婚約者がいる子に男子の好意は向きにくいですよね」
「それは違う!」
「え?」
「……何でもない」
巴は、思わず相手を見てしまった。
見た、というより、睨んでしまったのかもしれない。
女子生徒の肩が、びくっと跳ねた。
「す、すみません」
「なぜ謝るの?」
「すごく怒っているように見えたので」
「怒っていない」
「そうなんですか?」
「怒っていない」
「本当にすみません」
「だから、謝らなくていい」
巴は小さく息を吐いた。
北条真白が朝比奈恒一の婚約者。
その噂は、いまだ学校に残っている。
最初の印象が強すぎたせいで、半分事実のように広がってしまっている。
違う。
少なくとも、巴はそう思っている。
けれど、それをここで強く否定することもできない。なぜ自分がそこまで否定したいのかも、説明できない。
それに、北条真白が可愛いと言われている理由は分かる。
小柄で、丁寧で、可憐で、守りたくなるような雰囲気がある。
研究対象としては、かなり有力だった。
だが、北条はA組だ。
わざわざA組まで行って、北条をじっと見ているのは明らかにおかしい。
それに、北条のそばには千瀬がいることも多い。
千瀬に「巴姉、真白姉をどうしてそんなに見ているんですか」と聞かれる未来が、かなりはっきり想像できた。
それはできれば避けたい。
巴は、気持ちを切り替えるように言った。
「じゃあ、B組では?」
「B組、ですか?」
「このクラスにはいないの?」
「えっと……早咲南さんとか」
「早咲南」
「はい。早咲さんは、仕草が柔らかいというか、笑い方がとても可愛いんです」
「仕草」
「ちょっと首を傾げたり、物を両手で持ったり、困った時に小さく笑ったり」
「なるほど」
「あと、話す時に相手の目を見るんですけど、見すぎないというか、距離感が自然で」
「見すぎない」
「はい」
「距離感」
「そうですね」
巴は心の中でうなずいた。
可愛いには、仕草が関係している。
笑い方。
物の持ち方。
目線。
距離感。
これは、研究対象として成立する。
「ありがとう。参考になった」
「いえ。お役に立てたなら嬉しいです、巴様」
「助かった」
女子生徒は、ほっとしたようにうなずいた。
巴は、自分のノートを開いた。
可愛いの研究。
対象候補。
早咲南。
そう書いてから、巴はすぐに顔を上げた。
早咲南は、友人と話していた。
小柄というほどではないが、巴よりはかなり小さい。
笑う時に少し肩をすくめる。
話を聞く時、相手の方へほんの少し体を向ける。
なるほど。
確かに、柔らかい。
巴は真面目に観察した。
真剣に、見た。
まじまじと。
早咲南が、ふとこちらを向いた。
目が合った。
南は、びくっと肩を跳ねさせた。
巴は、すぐに視線を落とした。
しまった。
見すぎたかもしれない。
距離感が自然、という話を聞いたばかりなのに、いきなり見すぎた。
巴はノートに書き足した。
見すぎない。
観察は自然に。
自然に、というのが一番難しい気がした。
休み時間。
巴は廊下を歩きながら、さりげなく早咲南を観察しようとした。
南は友人たちと話している。
「昨日の課題、難しくなかった?」
「難しかった。最後の問題、途中で分からなくなった」
「私も」
「えー、どうしよう」
南は困ったように笑い、手に持っていたノートを胸の前で軽く抱えた。
巴は、そっとメモを取る。
困った時に小さく笑う。
ノートを胸の前で抱える。
南がまたこちらを向いた。
巴は、廊下の掲示物を見るふりをした。
やはり難しい。観察しようとすると、どうしても視線が鋭くなる。
陸上でフォームを見る時の癖かもしれない。
重心。
肩の動き。
手の位置。
そういうものを見る時と同じ目になってしまう。
可愛いの研究なのに、なぜかフォームチェックに近くなっている。
巴は少し反省した。
その頃。
早咲南は、友人の袖をそっと引いて、囁いた。
「ねえ」
「何?」
「私、何かしたかな?」
「何が?」
「今日、巴様が、すごい目でよくこっち見てるの」
「巴様が?」
「うん。朝から何回か目が合って」
「え、すごいじゃん」
「すごいじゃないよ。怖いよ」
「巴様、格好いいよね」
「それは分かるけど、今そういう話じゃなくて」
「何か用があるんじゃない?」
「だったら直接言ってくれると思う」
「聞いてみれば?」
「怖くて聞けない」
「じゃあ、誰かに聞いてもらう?」
「誰かって誰?」
「男子とか」
「男子が巴様に聞けると思う?」
「……一応、頼んでみる?」
「頼むだけなら」
南の友人は、近くにいた男子生徒に声をかけた。
「ねえ」
「何?」
「ちょっと巴様に聞いてきてくれない?」
「何を?」
「南が何かしたかどうか」
「何で俺が?」
「男子でしょ」
「男子って便利な言葉じゃないぞ」
「いいから、ちょっと聞いてきて」
「……聞くだけだぞ」
男子生徒は、最初から無理とは言わなかった。少しだけ身を乗り出し、巴の方を見る。
巴は、ちょうど南の仕草を思い出しながら、真剣に考え込んでいた。
笑い方。
持ち方。
目線。
距離感。
そのすべてを頭の中で整理していた。
当然、表情はかなり真剣だった。
男子生徒は、巴の顔を見た。
そして、すぐに戻ってきた。
「あれは無理だ」
「早い」
「無理なものは無理だ」
「まだ聞いてないじゃん」
「聞く前に分かった」
「何が?」
「目が怖い」
「そんなに?」
「獲物を狙うライオンみたいな目をしてる」
「ライオン」
「南、お前、一体何をしたんだ」
「何もしてないよ!」
「本当か?」
「本当だって!」
「でもあの目は、何かを見つけた目だぞ」
「何かって何?」
「分からない。分からないから怖い」
「聞いてきてよ」
「嫌だ」
「男子でしょ」
「男子でも無理なものは無理だ」
「弱い」
「弱くていい。ここにいると、俺まで睨まれてる気がしてくる」
「巴様は南を見てるんでしょ」
「あの視線の射程内にいる時点で危険なんだよ」
「射程内って」
「ここは危険地帯だ。俺は自分の席に戻る」
「逃げた」
「違う!これは生存戦略だ」
男子生徒は、本当に自分の席へ戻っていった。
南は小さく肩を落とした。
「どうしよう」
「どうしようね」
「私、本当に何かしたかな」
「たぶんしてないと思う」
「じゃあ何で見てるの?」
「分からない」
「わたし、怖い」
「分かる」
巴は、もちろん知らない。
巴はただ、真剣だった。
早咲南の仕草を観察し、可愛いとは何かを理解しようとしているだけだった。
ただ、その視線が少し本気すぎた。
昼休み。
巴は、さらに研究を続けた。
南は弁当を食べながら、友人と話している。
笑う時に口元へ手を添える。
相手の冗談に少し遅れて笑う。
飲み物を両手で持つ。
巴はメモを取ろうとした。
だが、手帳を開いた瞬間、近くにいた女子生徒に見られた。
「巴様、何を書いているんですか?」
「……少し、記録を」
「記録?」
「気にしないで」
「気になります」
「気にしないで」
巴は優しく穏やかに言ったつもりだった。
しかし、女子生徒は即座に頭を下げた。
「はい、すみませんでした!」
素直にうなずいたものの、その視線は明らかに泳いでいた。
おそらく、また見すぎてしまった。
巴は手帳を静かに閉じた。
これは難しい。
学校で可愛いの研究をするのは、思っていた以上に人目がある。
しかも、内容を見られたら説明が難しい。
可愛いとは何か。
早咲南の仕草。
笑う時に口元へ手。
こんなメモを見られたら、どう言い訳すればいいのか。陸上のフォーム分析と言えば通じるだろうか。
通じない。
絶対に通じない。
巴は手帳をしまった。
今日は観察だけにしよう。
メモは後で記憶を頼りに書けばいい。
そう決めた。
そう決めたのだが。
午後の休み時間には、巴はまた手帳を開いていた。
記憶だけに頼ると、細かい動きが抜ける。観察した内容は、その場で書かなければ精度が落ちる。
そう考えると、どうしてもメモを取りたくなる。
巴は、教科書を読むふりをしながら、手帳の端に小さく書いた。
笑う時、口元に手。
相手の方へ体を向ける。
飲み物は両手。
困った顔から小さく笑う。
見すぎない。
距離感は自然に。
書いていると、思ったより情報がまとまっていく。
これはいい。
巴は少し満足した。
可愛いには型がある。
まだ完全には分からないが、少なくとも観察可能な要素はある。
ならば、研究できる。
研究できるなら、改善できる。
巴は真剣な顔で、さらにメモを書き足した。
その時、少し離れた席で、南の友人が青ざめた。
「南」
「何?」
「やっぱり、何かしたんじゃない?」
「だから、何もしてないって」
「でも、巴様が今、すごい目で南のことを見ながらメモしてる」
「え」
南は固まった。
「メモ?」
「うん」
「私のことを?」
「たぶん」
「たぶんって何?」
「だって、南の方を見て、手帳に何か書いてるから」
「……」
「しかも、すごい真面目な顔」
「……私、本当に何かしたのかな?」
「したんじゃない?」
「してないよ、たぶん」
「じゃあ何でメモされてるの?」
「分からないよ」
南の目が、少しずつ潤んでいく。
「私、謝った方がいいのかな」
「何を?」
「分からないけど」
「南、分からない謝罪は危ないよ」
「でも、巴様にメモされてるんだよ?」
「たしかに危ない」
「どうしよう」
「どうしようね」
南は、今にも泣きそうな顔で机に視線を落とした。
巴は、もちろん気づいていない。
むしろ、手帳の出来に満足していた。
笑い方。
物の持ち方。
目線。
距離感。
困り方。
仕草。
書けば書くほど、可愛いというものが少しずつ形を持っていくような気がした。
巴は手帳を見下ろし、小さくうなずいた。
ただ、ここで新しい問題に気づく。
可愛い仕草というものは、見ているだけではよく分からない。
どこが可愛いのか。
なぜ可愛いのか。
自分が同じことをしたらどうなるのか。
そこまで考えなければ、研究とは言えない。
観察だけでは足りない。
実践が必要。
巴は、手帳にそう書いた。
書いてから、自分で少し固まった。
実践。
つまり、自分でやってみるということだ。
南のように、困った時に小さく笑う。
ノートを胸の前で抱える。
飲み物を両手で持つ。
相手の目を見て、見すぎない。
巴は、少しだけ想像した。
自分がノートを胸の前で抱え、小さく首を傾げる。
その姿を想像して、すぐに手帳を閉じた。
無理かもしれない。
いや、最初から諦めてはいけない。
走り方も、最初からできたわけではない。
フォームも練習で身につける。
可愛いも、きっと練習できる。
巴は、真面目にそう考えた。
そして、何も知らない早咲南は、少し離れた席で、泣きそうな顔のまま小さく呟いた。
「……私、明日も学校に来て大丈夫かな」
南の友人は、何も答えられなかった。
巴の可愛い研究は、順調に進んでいた。
少なくとも、巴の中では。
そして、その研究が周囲に何をもたらしているのか。
巴はまだ、まったく気づいていなかった。




