第181話 守られる側ではないらしい
放課後の昇降口近くは、いつも少し騒がしい。
部活へ向かう生徒。
友人を待つ生徒。
そのまま帰る生徒。
それぞれが好きな方向へ動くせいで、廊下には小さな人の流れができる。
巴は、その流れから少し外れたところを歩いていた。
陸上部の練習までには、まだ少し時間がある。
荷物を取りに行って、それからグラウンドへ向かうつもりだった。
その時、ふと見覚えのある黒髪が目に入った。
北条真白だった。
真白は昇降口の近くで、千瀬と一緒に立っていた。
その前に、男子生徒が三人いる。
知らない顔ではない。
同じ二年ではあるが、巴とはほとんど話したことのない男子たちだった。
男子生徒たちは、真白に何か話しかけている。
真白は丁寧に応じているが、少し困っているようにも見えた。
千瀬は、真白の半歩前に立っていた。
小柄な真白を守るように。
けれど、自分もそこまで大きいわけではないので、少し背伸びしたような立ち方だった。
「北条さん、ちょっとだけだから」
「いえ、あの」
「そんなに時間取らせないって」
「真白姉はこれから用事があります」
千瀬が言った。
「ご用なら、明日にしてください」
「いや、前田さんに言ってるわけじゃなくて」
「真白姉に言っているなら、なおさらです」
「そんな警戒しなくても」
「しています」
「はっきり言うなあ」
「はい」
千瀬は真顔だった。
男子生徒たちも、悪意があるようには見えない。
ただ、真白と話したい。
そういう程度なのだろう。
けれど、真白は明らかに困っている。
千瀬も、引く気がなさそうだった。
巴は、少しだけ足を止めた。
このまま見なかったことにして通り過ぎることもできる。
だが、それは違う気がした。
真白とは、いろいろあった。
朝比奈とのこともある。
体育祭前後の、あの何とも言えない空気もある。
それでも、困っているなら声をかける。
それだけの話だった。
巴は男子生徒たちの方へ一歩近づいた。
ただ、話しかけようとしただけだった。
だが、巴が近づくと、それだけで空気が少し変わった。
百九十センチ近い長身。
道場で鍛えられたまっすぐな背筋。
肩の位置も、足の置き方も、どこか隙がない。
本人は普通に歩いているつもりでも、向かい合う側からすれば、強い相手が間合いを詰めてきたように見える。
巴は声を荒らしたわけではない。
睨んだつもりもない。
ただ、真白たちの前に立つために近づいただけだった。
それなのに、男子生徒三人の肩が、びくっと跳ねた。。
それなのに、男子生徒三人の肩が、びくっと跳ねた。
「え」
「いや」
「俺たちは別に」
まだ何も聞いていない。
巴は少し眉を寄せた。
「何も言っていないけど」
「す、すみません」
「だから、何も言っていない」
「はい」
「北条たちに、何か用だったの?」
「いえ、あの」
「ちょっと話しかけただけで」
「本当に、それだけで」
「すみませんでした!」
三人は、ほとんど同時に頭を下げた。
そして、巴が次の言葉を出す前に、そそくさとその場を離れていった。
逃げた。
明らかに逃げた。
巴は、その背中を見送りながら、何とも言えない気持ちになった。
何かをしたつもりはない。
睨んだつもりもない。
ただ近づいて、話を聞こうとしただけである。
それなのに、男子生徒たちは逃げていった。
自分の体が大きいことは分かっている。
周囲から見れば、圧があるのかもしれない。
分かっている。
分かっているが、嬉しくはない。
「巴姉」
千瀬が、目を輝かせていた。
「やっぱりすごいね」
「何が?」
「男子生徒三人が逃げ出しました」
「……すごくない」
「しかも、ほとんど何も言ってないのに」
「千瀬」
「はい」
「それは褒めてる?」
「凄い褒めてます」
「褒めているように聞こえない」
「え、でもすごいですよ。何も言わずに、あの迫力だけで」
「千瀬」
「はい」
「うるさい」
「すみません」
千瀬は素直に謝った。
だが、顔はまだ少し楽しそうだった。
「怒ってますか?」
「怒っていない」
「でも、顔が怒ってます」
「お前はもう、何も言わない方がいい」
「はい」
「本当に分かった?」
「分かりました。巴姉は、何も言わなくても男子を追い払えるくらいすごいです」
「分かっていない」
「すみません」
巴は小さく息を吐いた。
真白は、そんな巴に向かって、丁寧に頭を下げた。
「巴さん、助けてくださってありがとうございます」
「助けたというほどではない」
「いえ。私たちだけでは、少し困っていたと思います」
「……そう」
「本当に、ありがとうございます」
真白の礼は、まっすぐだった。
からかいも、怯えもない。
ただ、助かったと伝えるための礼だった。
だから、巴は少しだけ落ち着いた。
千瀬とは違う。
いや、千瀬も悪気があるわけではないのだろう。ただ、言葉の方向が少しおかしいだけだ。
「これから、どこかへ行くの?」
巴は聞いた。
真白と千瀬は、明らかに誰かを待っている様子ではなかった。
むしろ、これからどこかへ向かう途中に、男子生徒たちに呼び止められたように見えた。
「はい」
真白はうなずいた。
「恒一様のところへ」
「朝比奈のところ?」
「はい。恒一様と一緒に帰る予定です」
「私も一緒に行きます」
千瀬がすぐに言った。
「真白姉を一人にするわけにはいきませんから」
「そう」
巴は、短く返した。
そうだろうとは思っていた。
真白が放課後に向かう場所として、一番自然なのは朝比奈のところだ。
それは分かっている。分かっているのに、胸の奥が少しだけ引っかかる。
「それに、さっきみたいな人たちがまた来るかもしれませんし」
「千瀬」
「はい」
「その言い方はやめた方がいい」
「どうしてですか?」
「私がずっと追い払う係みたいになる」
「違うんですか?」
「違う」
「すみません」
「本当にそう思ってる?」
「少しだけ」
「千瀬」
「すみません」
真白は困ったように千瀬を見た。
「千瀬さん」
「はい、真白姉」
「巴さんに失礼ですよ」
「すみません。でも、巴姉が来た瞬間、三人とも逃げたので」
「千瀬」
「はい」
「もう言わない」
「はい」
千瀬は口を閉じた。
閉じたが、やはり少しだけ笑っていた。
巴は全然嬉しくなかった。
強い。
怖い。
頼れる。
すごい。
そう言われることには、慣れている。
だが。
可愛いとは、誰も言わない。
巴は、真白と千瀬を見た。
小柄で丁寧な真白。
明るく遠慮なく懐いてくる千瀬。
二人とも、男子生徒に怖がられる側ではない。少なくとも、近づいただけで三人に逃げられることはない。
巴は、ほんの少しだけ胸の奥が重くなるのを感じた。
「じゃあ、朝比奈のところまで行くなら、気をつけて」
「はい。ありがとうございます、巴さん」
「ありがとうございます、巴姉」
「千瀬」
「はい」
「余計なことは言わないように」
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん?」
「すみません」
巴は、また小さく息を吐いた。
真白と千瀬は、並んで昇降口の方へ歩いていく。
その背中を見ながら、巴は逃げていった男子生徒たちのことを思い出した。
助けた。
たぶん、助けたのだと思う。
けれど、なぜか少しも誇らしくなかった。
むしろ、胸の奥に残ったのは別の感情だった。
羨ましい。
そんな言葉に近い感情だった。
真白は、守られるように見える。
千瀬も、何だかんだで周囲に構われる。
巴は違う。
巴は、守る側だ。
立っているだけで、相手が勝手に緊張する。
少し近づくだけで、男子生徒が謝る。
それはきっと、便利なことなのだろう。
役に立つことなのだろう。
けれど。
朝比奈は、どう思うのだろう。
巴は、ふとそんなことを考えてしまった。
朝比奈恒一は、巴の走りを綺麗だと言ってくれる。
努力を見てくれる。
強さを認めてくれる。
それは嬉しい。
とても嬉しい。
けれど、強いと思われることと、可愛いと思われることは、たぶん違う。
昨日の朝のことを思い出す。
呼び方の話。
自然でいい。
いつか変わるかもしれない。
自分でそう言った。
言ったあとで、少しだけ後悔した。
いや、後悔ではない。
あれは、たぶん期待に近かった。
いつか変わってもいい。
そう思っていることを、朝比奈に知られてしまった。
朝比奈も、嫌ではないと言っていた。
急に言われると困る。
そうも言っていた。
それは、自分も同じだった。
だから、今すぐではない。
今すぐではないが。
いつか、名前で呼べるようになるのなら。
いつか、名前で呼んでもらえるようになるのなら。
そのためには、今よりもう少し距離を縮めなければならないのではないか。
巴は、そう思ってしまった。
ただ一緒に走るだけではなく。
ただ頼られるだけではなく。
ただ強いと思われるだけでもなく。
もう少し、近い場所に立つために。
では、そのためにはどうすればいいのか。
巴は自分の手を見た。
大きな手だった。
竹刀も薙刀も弓も扱える手。
走る時には、強く腕を振る手。
誰かを助けることもできる手。
けれど、小さくて守りたくなるような手ではない。
朝比奈は、こういう手をどう思うのだろう。
頼れると思うのか。
強いと思うのか。
それとも。
可愛いとは、思わないのだろうか。
巴は、そこで自分の考えに少し驚いた。
可愛い。
自分が、そんなことを考えるとは思わなかった。
今まで、あまり深く考えたことはなかった。
格好いいと言われること。
綺麗だと言われること。
強いと言われること。
それが嫌だったわけではない。
むしろ、それは努力して手に入れてきたものでもある。
でも、可愛いと言われたことは、ほとんどない。
少なくとも、朝比奈にそう言われたことはない。
朝比奈が、可愛いと思ってくれるような方がいいのだろうか。
名前で呼べるくらい近づくためには。
名前で呼んでもらえるくらい自然になるためには。強いだけではなく、可愛い方がいいのだろうか。
巴は、真白と千瀬が消えた昇降口の方をもう一度見た。
真白は、可愛い。
それは分かる。
千瀬も、遠慮がなくて少し騒がしいが、どこか憎めない。
たぶん、ああいうのも可愛いのだろう。
では、自分はどうなのか。
巴は考え込んだ。
その答えは、すぐには出なかった。
ただ一つ分かったことがある。
男子生徒三人を何も言わずに逃がせることは、たぶん可愛いとは遠いだろう。
それだけは、分かった。
巴は気持ちを切り替えるように、荷物を持ち直した。
部活に向かわなければならない。
今は考えても仕方がない。
そう思った。
けれど、その日の夜まで、真白と千瀬の姿は頭の中から離れなかった。
そして同じくらい、千瀬の言葉も残っていた。
何も言わずに男子生徒三人を逃げ出させた。
すごい。
そんなふうに言われても、巴は少しも嬉しくなかった。
可愛いとは、何なのだろう。
朝比奈が可愛いと思うものは、何なのだろう。
その問いは、巴の中に静かに残り続けた。




