第180話 呼び方ひとつで胃が痛い
佐藤忠一は、昨日のことを反省していた。
正確には、昨日の自分の油断を反省していた。
体育祭が終わった。
朝比奈恒一と真田巴の空気も落ち着いた。
陸上部も通常運転に戻った。
だから安心してもいい。
そう思ったのが間違いだった。
白石ひよりは恒一と巴を観察し始める。
一ノ瀬彩音は探偵として動き始める。
三浦基樹は助手として連れてこられる。
そして自分は、なぜか一年生に腹を心配される。
副部長とは何なのか。
佐藤は朝から、少しだけ哲学的な気分だった。
「……朝から胃が重い」
始業前。
二年A組前の廊下で、佐藤は小さく呟いた。別に、自分の教室へ行く途中ではない。
恒一に陸上部の連絡を伝えるため、わざわざ二年A組まで来ただけである。
来ただけなのに、すでに帰りたかった。
なぜなら、嫌な予感がしていたからだ。
「おはよう、佐藤」
教室から出てきた恒一に声をかけられ、佐藤は軽く手を上げた。
「ああ、おはよう、朝比奈」
恒一はいつも通りだった。
落ち着いている。
変に浮ついていない。
昨日の騒ぎを気にしている様子もない。
たぶん、何が起きていたのか本当に分かっていない。それはそれで問題だが、今はありがたかった。
「朝からどうした?」
「陸上部の連絡だ。今日の放課後、部室の片づけが少し残ってる」
「分かった。手伝う」
「そう言うと思った」
「何か問題か?」
「問題はない。むしろ助かる」
ここまでは普通だった。
ここまでは、平和だった。
佐藤は胸を撫で下ろしかけた。
よし。
このまま連絡だけして帰ればいい。
昨日の出来事は、ひよりと彩音が少し騒いだだけ。
自分が少し胃を痛めただけ。
恒一は何も知らない。
なら、このまま何事もなかったことにできる。
そう思った。
「ねえ、佐藤くん」
「……」
背後から声がした。
佐藤は、ゆっくり振り返った。
彩音がいた。
その横には、基樹がいる。
基樹はすでに諦めた顔をしていた。
「何だ」
「朝から警戒しすぎじゃない?」
「お前が声をかけてきた時点で警戒する」
「失礼ね」
「昨日の今日で信頼できるわけがないだろ」
「昨日は有意義な調査だったわ」
「俺の腹と胃が犠牲になったんだが」
「それも含めて有意義だった」
「含めるな」
佐藤は、廊下の壁に手をついて深く息を吐いた。
「で、今度は何だ」
「昨日の件だけど」
「終わった」
「終わってないわ」
「終わったことにしたい」
「探偵は、違和感を放置しないものなの」
「だから探偵をやめろ」
「無理ね」
「なぜだ」
「面白そうだから」
「本当に隠さないな、お前は」
基樹が横で小さくうなずいた。
「佐藤、諦めた方が早い」
「助手が諦めるな」
「俺はもうだいぶ前に諦めた」
「助手の年季を感じるな」
「感じたくなかったけどな」
彩音は二人のやり取りを聞き流し、恒一の方を見た。
恒一は教室の入口近くで、少し困ったように立っている。
何かを気にしている様子はない。
彩音は、にこりと笑った。
「恒一」
「ん?」
「ちょっと聞いていい?」
「ああ」
「巴のこと、いつまで名字で呼ぶの?」
「……え?」
恒一の動きが止まった。
佐藤の胃も止まりかけた。
「彩音」
「何?」
「朝から何を投げ込んでいる」
「質問よ」
「爆弾だ」
「小さめの爆弾よ」
「爆弾であることは認めるんだな」
恒一は、少し困ったように首をかしげた。
「真田は真田だろう」
「それはそうね」
「何かおかしいか?」
「おかしいというか」
彩音は楽しそうに目を細めた。
「体育祭で距離が縮まったなら、呼び方にも変化があってもいいんじゃないかなって」
「距離が縮まった?」
「縮まってないの?」
「いや……」
恒一は少し考えた。
真田巴。
体育祭の間、何度も話した。
普段より長く一緒にいた。
頼られたし、頼った。
以前より自然に話せるようになった気はする。ただ、それを距離が縮まったと言われると、少し返答に困る。
「どうなんだろうな」
「恒一らしい反応ね」
「そうか?」
「うん。非常に恒一」
「それは褒めているのか?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「探偵の秘密」
「何だそれ」
佐藤は額を押さえた。
「朝比奈。気にするな。朝から変な話を聞く必要はない」
「変な話なのか?」
「変な話だ」
「でも、呼び方か……」
恒一は、少しだけ考え込んだ。
佐藤は嫌な予感がした。
やめろ。
考えるな。
こういう話は、考え始めると変な方向に行く。特に朝比奈恒一は、真面目に考えすぎる。
「たしかに、真田の家に行くなら、呼び方くらいは考えた方がいいのかもしれないな」
「朝比奈」
佐藤は即座に言った。
「その思考は一度止めろ」
「何でだ?」
「今ここで進めると、たぶん俺の胃が進まない」
「胃が進まない?」
「かなり悪化するという意味だ」
「大丈夫か?」
「大丈夫にしたいんだ」
その時、廊下の向こうから巴が歩いてきた。どうやら、用事があって二年A組に来たらしい。
「朝比奈」
「ああ、真田。どうした?」
「昨日話していた件だけど、父に確認した。来週以降なら、いつでも大丈夫らしい」
「分かった。俺も予定を確認しておく」
「うん」
普通の会話だった。
とても普通だった。
だが、今この空間には彩音がいる。
そして彩音は、普通の会話を普通のまま終わらせるほど親切ではなかった。
「ねえ、巴」
「……何?」
巴は、少し警戒した顔をした。
「恒一のこと、いつまで名字で呼ぶの?」
「……は?」
廊下の空気が、少し止まった。
恒一も巴も固まった。
佐藤は胃を押さえた。
基樹はそっと視線を逸らした。
「彩音」
「何?」
「お前は朝から何発爆弾を投げるつもりだ」
「まだ二発よ」
「数えるな」
「大丈夫。今日は軽めだから」
「これで軽めなのか」
「本命はまだ出してないわ」
「出すな」
巴は、彩音を見てから、恒一を見た。
「……呼び方?」
「うん」
「なぜ、急に」
「昨日、二人の距離が縮まったという有力証言が複数出たから」
「有力証言?」
「探偵としては見逃せないわ」
「また、それ?」
「また、それよ」
「基樹」
巴は基樹を見た。
「止めないの?」
「止まったことがない」
「……そう」
「ごめん」
「基樹が謝ることではないと思う」
「でも助手だから」
「助手なんだ」
「本人の意思とは関係なく」
巴は少しだけ困った顔をした。
恒一も同じような顔をしている。
佐藤は、二人の反応を見て思った。
気まずい。
これは気まずい。
だが、悪い気まずさではない。
どちらかというと、意識していなかったことを急に意識させられた時の気まずさだ。
つまり、かなり面倒なやつである。
「別に、名字でいいと思うけど」
巴が言った。
「俺もそう思う」
恒一もうなずいた。
佐藤はほっとした。
よし。
終わった。
この話は終わった。
「でも」
彩音が言った。
終わっていなかった。
「家に呼ぶくらい仲良くなったなら、名前で呼んでもいいんじゃない?」
「家に呼ぶのは、父が礼を言いたいと言っているからで」
「でも、家に呼ぶんでしょ?」
「それは……そうだけど」
「恒一も行くつもりなんでしょ?」
「都合が合えば」
「ほら」
「ほら、とは?」
「事件の匂いがする」
「しない」
巴は即答した。
だが、頬が少しだけ赤い。
恒一はそれを見て、さらに困った顔になった。
「真田」
「何?」
「嫌なら、無理に変えなくていいと思う」
「嫌というわけではない」
「そうなのか?」
「……ただ、急に言われると困る」
「それは分かる」
「朝比奈は?」
「俺も、急に言われると困る」
「うん」
「でも、嫌というわけではない」
「……そう」
「そうだな」
「……」
二人は、少しだけ黙った。
廊下の空気が、妙に静かになる。
彩音は楽しそうにその様子を見ていた。
基樹は横で小さく言った。
「お前、やっぱり楽しんでるだろ」
「もちろん」
「隠せ」
「探偵は正直なの」
「都合のいい時だけな」
佐藤は、頭を抱えた。
このままだと、何かが進む。
いや、進むこと自体は悪くない。
恒一と巴が仲良くなるのは良いことだ。
体育祭後、二人の空気が柔らかくなったことも、佐藤は安心材料だと思っていた。
だが、進み方が急だ。
周囲が押している。
しかも押している中心があの彩音である。
これは危険だ。
「朝比奈、真田」
佐藤は、できるだけ落ち着いた声で言った。
「無理に変える必要はない。呼び方なんて、自然に変わる時に変わればいい」
「佐藤」
恒一が少し感心したように見た。
「佐藤がまともなことを言うな」
「俺はいつもまともだ」
「そうだな。悪い」
「なぜ俺がまともなことを言うと驚かれるんだ」
「日頃の胃痛の印象じゃない?」
彩音が言った。
「俺の胃痛は人格ではない!」
巴は少しだけ笑った。
けれど、確かに笑った。
「でも、佐藤の言う通りだと思う」
「そうだろう」
「自然でいい」
「ああ」
「ただ」
「ただ?」
「いつまでも名字で呼ばなければならない、というわけでもないとは思う」
「……真田」
「何?」
「それは進めているのか止めているのか、どっちだ」
「私にも分からない」
「分からないのか」
「うん」
巴は、少しだけ視線を外した。
「でも、体育祭の前とは少し違うとは思う」
「……」
「だから、呼び方も、いつか変わるかもしれない」
「いつか?」
「いつか」
「今ではなく?」
「今ではない」
「なるほど」
恒一は真面目にうなずいた。
その反応に、巴は少しだけ困ったように眉を下げた。
「朝比奈は、本当に真面目だね」
「そうか?」
「うん」
「真田も、かなり真面目だと思うけど」
「そうかな」
「そうだと思う」
「……そう」
また、少しだけ沈黙が落ちる。
佐藤は、その空気を見て思った。
これは、たぶん悪くない。
急に名前呼びにはならなかった。
だが、二人とも嫌ではない。
ただ、まだ少し早いだけ。
そのくらいの距離感に落ち着いた。
これなら大丈夫だ。
佐藤は、ようやく息を吐いた。
「よし。この話はここまでだ」
「えー」
彩音が不満そうな声を出した。
「えーではない」
「ここからが面白いのに」
「面白さで人の呼び方を動かすな」
「探偵としては惜しいわ」
「もう探偵を引退しろ」
「無理ね」
「なぜだ」
「まだ真実にたどり着いていないから」
「呼び方の真実とは何だ?」
「それはまだ秘密」
「お前、何も決めてないだろ」
「探偵の秘密よ」
「便利な言葉だな、本当に」
その時だった。
廊下の向こうから、小さな声がした。
「あの……」
全員がそちらを見る。
白石ひよりが立っていた。
どうやら、恒一に用があって来たらしい。
けれど、廊下の空気を察したのか、少しだけ固まっている。
「白石?」
恒一が声をかけた。
「どうした?」
「あ、いえ。昨日の部活の片づけのことで、確認があって」
「ああ、分かった」
「でも……」
ひよりは、巴と恒一を交互に見た。
「今、呼び方の話をしていましたか?」
「していない」
佐藤は即答した。
「していましたよね」
「していないことにしたい」
「佐藤先輩の都合ですよね」
「一年生の正論が今日も痛い」
「痛いのは胃ですか?」
「心もだ」
ひよりは少し困った顔をした。
だが、その視線は明らかに恒一と巴へ向いている。
彩音が、すっとひよりの隣へ移動した。
「白石さん」
「はい」
「あなたはどう思う?」
「何がですか?」
「恒一と巴が名前で呼び合う件」
「件にしないでください」
「では、可能性」
「可能性にもしないでください!」
「強いわね」
「強くないです」
ひよりは、少しだけ迷った。
そして、小さく言った。
「……本人たちが、そうしたいなら、いいと思います」
「ほう」
「でも、周りが急かすのは違うと思います」
「正論ね」
「正論です」
「探偵としては、正論に弱いわ」
「なら、やめてください」
「それは無理」
「どうしてですか」
「面白そうだから」
「やっぱり強引です」
「よく言われるわ」
佐藤は、ひよりに向かって静かにうなずいた。
「白石。今のはとても正しい」
「ありがとうございます」
「だから、その正しさでこの自称探偵を止めてくれ」
「無理だと思います」
「即答か」
「昨日、分かりました」
「一年生に諦められる探偵……」
基樹が横で言った。
「俺は前から分かってた」
「助手の重みが違うな」
「嬉しくない重みだけどな」
恒一は、少し困ったように笑った。
「何だか、大げさな話になっているな」
「朝比奈が大げさにしているわけではない」
巴が言った。
「主に彩音」
「そうね」
「私?」
彩音はわざとらしく首をかしげた。
「私は少し観察しているだけよ」
「少しではないと思う」
「巴まで強い」
「強くはない」
「みんな強くないって言うわね」
「彩音が強引すぎるんだ」
基樹が言った。
巴は、少しだけ息を吐いた。
それから恒一を見た。
「朝比奈」
「ああ」
「呼び方は、自然でいい」
「分かった」
「でも」
「でも?」
「……そのうち、変えてもいいとは思っている」
「そうか」
「うん」
「じゃあ、そのうち考える」
「うん」
それだけだった。
けれど、巴は少しだけ顔を赤くした。
恒一も、どこか真面目な顔でうなずいている。
ひよりは、それを見て少しだけ複雑そうな顔をした。
彩音は、何かを見つけたように目を輝かせた。
基樹は諦めたように息を吐いた。
そして佐藤は、胃を押さえた。
「……終わったのか?」
「終わったように見えるわね」
彩音が言った。
「なら終わりだ」
「でも、次につながったわ」
「つなげるな」
「呼び方は、いずれ変わるかもしれない」
「言語化するな」
「巴本人もそう言ったし」
「言ったが、静かに扱え、楽しむな」
「表向きはね」
「裏でも静かにしろ」
「努力するわ」
「やめるとは言わないんだな」
「探偵だから、諦めない!」
「便利な言い訳だな!」
佐藤は、深く息を吐いた。
体育祭が終わって、ようやく落ち着いたと思っていた。恒一と巴の距離が縮まり、空気も穏やかになった。
それ自体は良いことだ。
良いことなのに。
それに気づく者がいる。
面白がる者がいる。
少し複雑な顔をする者がいる。
巻き込まれる者がいる。
そして、その中心に自分がいる気がする。
なぜだ。
「佐藤」
恒一が声をかけた。
「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「大丈夫ということにしてくれ」
「分かった」
「朝比奈」
「ん?」
「お前は本当に素直だな」
「そうか?」
「その素直さで、いろいろ巻き起こしている自覚はあるか?」
「ない」
「だろうな」
佐藤は、諦めたように空を見上げた。
呼び方は、まだ変わらない。
だが、いつか変わるかもしれない。
その小さな予感だけを残して、朝の騒動は一応終わった。
一応である。
佐藤忠一の胃は、それをよく知っていた。




