第179話 彩音ちゃんは動く
放課後
体育祭が終わった。
終わったはずだった。
少なくとも、佐藤忠一はそう思っていた。
クラス対抗の競技も終わった。
朝比奈恒一と真田巴の妙な空気も、ひとまず落ち着いた。
北条真白の周囲に漂っていた、何とも言えない張り詰めた空気も、少しだけ薄くなった気がする。
これで、ようやく日常が戻ってくる。
佐藤はそう信じていた。
ただ信じるだけなら自由である。
現実が、それに付き合ってくれるとは限らない。
「やっぱり、何かあったね」
部室棟の陸上部室前。
窓際に立った彩音が、中を見ながら言った。その隣で、基樹が心底面倒くさそうな顔をする。
「まだそのネタ続いてんの?」
「続いているんじゃないわ。必要な時に再開されるのよ」
「何その便利な設定」
「探偵とは、事件が起きた時に現れるものだから」
「自分で名探偵って言ってたやつが言うと、だいぶ怪しいんだよな」
「細かいことを気にしない。助手」
「その助手呼びも、まだ続いてんの?」
「当然でしょ。任期は無期限よ」
「契約した覚えないんだけど」
「前にも言った気がする」
「たぶん言ってない」
「じゃあ、今言った」
彩音は基樹の抗議を聞き流し、グラウンドへ視線を戻した。
グラウンドでは、体育祭後の通常練習が始まっていた。陸上部の生徒たちが、ストレッチをしたり、軽く走ったり、器具を片づけたりしている。
体育祭の熱気はすでに過ぎたが、部活の空気は少しだけ浮ついていた。
大きな行事が終わった直後の、妙な解放感。
それでも次の練習は始まるという、いつもの現実。
その中に、朝比奈恒一と真田巴の姿もあった。二人は特別なことをしているわけではない。
ただ、近くで話しているだけだった。
恒一が何かを確認し、巴が短く答える。
巴が少しだけ視線を外し、恒一が首をかしげる。
恒一がまた何か言うと、巴はほんの少しだけ口元を緩めた。
それだけだった。
それだけなのだが。
「なるほどね」
「何が?」
「体育祭を経て、二人の距離が縮まっている」
「まあ、それはそうかもな」
「基樹、見て。巴の反応」
「反応?」
「前より柔らかい」
「お前、よく見てんな」
「名探偵だから」
「その設定、本当にまだ生きてるんだ」
「生きてるわ。むしろ今が最盛期よ」
「最盛期、来るの早いな」
基樹は呆れたが、彩音は真剣だった。
いや、真剣というより、楽しそうだった。
彩音は情報通だ。
普段から人の様子をよく見ているし、噂も拾う。ただし、親切に全部を教えてくれるタイプではない。
面白いことが起きそうなら、自分で確かめる。分かったことを全部出さず、少し隠しながら反応を見る。
そうやって真相に近づいていく過程を楽しむ。
基樹は、それを知っていた。
そして知っているからこそ、嫌な予感がした。
「なあ、彩音」
「何?」
「今、何をどこまで知ってる?」
「いい質問ね、助手」
「嫌な予感しかしない」
「探偵が最初から全部話したら、物語が終わるでしょ」
「物語にするな」
「安心して。まだ仮説の段階だから」
「仮説?」
「体育祭の後、恒一と巴の距離が縮まった」
「それは見れば分かる」
「でも、本人たちの自覚はたぶん半分くらい」
「半分?」
「巴は気づき始めてる。恒一は……まあ、恒一」
「ひどい納得感がある」
「そして、見て」
「今度はどこだよ」
彩音が目で示した先に、白石ひよりがいた。
ひよりは一年生たちと一緒に片づけをしながら、ちらちらと恒一たちの方を見ている。
見ていないふりをしているが、明らかに見ている。
その表情は、怒っているわけではない。
悲しんでいるわけでもない。
ただ、落ち着かなさそうだった。
「白石さんも反応している」
「ひよりちゃん?」
「これは、かなり面白い」
「面白いって言うな」
「大丈夫。本人の前では言わないから」
「今、俺には言ったよな」
「助手は関係者だから」
「俺、関係者だったの?」
「前からそうよ」
「知らない間に深いところへ巻き込まれてる……」
彩音は、そこでにこりと笑った。
「ということで、現場に行くわよ」
「グラウンド行くの?」
「当然でしょ。上から見ているだけでは得られない情報があるもの」
「いや、やめとけって。本人たちに迷惑だろ」
「迷惑にならない範囲で聞くわ」
「お前の迷惑にならない範囲って、だいぶ信用できないんだよな」
「失礼ね」
「前科があるからな」
「助手、過去を蒸し返す男はモテないわよ」
「探偵ごっこしてる人にモテ判定されたくない」
そう言いながらも、基樹は結局ついていった。止めても無駄だと知っているからである。
グラウンド脇へ降りると、体育祭後の陸上部は思っていたより賑やかだった。
部員たちは練習をしながらも、体育祭の話をしている。誰が速かったとか、誰が意外と運動できたとか、誰が転びかけたとか。
そんな話があちこちから聞こえてくる。
彩音は自然な顔でその輪の近くへ行き、まず二年生の女子に声をかけた。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「何?」
「恒一と巴、最近どう思う?」
「ああ」
女子はすぐに察したような顔をした。
「部長と副部長、体育祭で、ちょっと距離縮まった感じはするよね」
「やっぱり」
「前から仲は悪くなさそうだったけど、最近は何か、話す時の空気が違うっていうか」
「空気」
「うん。真田副部長が前より柔らかい気がする」
「なるほど」
「朝比奈部長は……まあ、朝比奈部長だけど」
「そこは変わらないのね」
「そこは変わらないね」
彩音は満足そうにうなずいた。
「有力証言を得たわ」
「何の証言だよ」
基樹が小声で突っ込む。
だが、彩音は止まらない。
次に別の生徒にも声をかけた。
「ねえ、恒一と巴って前からあんな感じだった?」
「え? 朝比奈先輩と真田先輩ですか?」
「そう」
「前から話してはいましたけど、最近の方が自然な感じはします」
「自然」
「真田先輩、ちょっと笑うようになったというか」
「なるほど」
「でも朝比奈先輩は、たぶん気づいてないです」
「分かる」
「分かるのかよ」
基樹が呆れる。
彩音は、聞いた情報を頭の中で整理しているらしい。ただし、それを基樹に全部話す気はなさそうだった。
「なあ、彩音」
「何?」
「今、何を考えてる?」
「言わない」
「何でだよ」
「助手の自然な反応も、調査対象だから」
「俺まで観察されてんの?」
「当然」
「最悪だな、この探偵」
彩音は楽しそうだった。
そして、その楽しそうな様子を見て、基樹は思った。これは止まらない。
完全に、面白がっている時の顔だった。
その時だった。
「お前ら二人、何やってんだ」
背後から声がした。
振り返ると、佐藤が立っていた。
佐藤は、彩音と基樹を交互に見て、それからグラウンドを見た。
最後に、恒一と巴の方を見る。そして、すぐに嫌な予感を覚えた顔になった。
「……何をしていた」
「調査」
「調査?」
「ええ。必要な調査よ」
「何の」
「それを今ここで言ったら、面白くないでしょ」
「面白さで情報を管理するな」
佐藤の眉間にしわが寄る。
「待て。体育祭は終わったはずだ」
「終わったね」
「陸上部も、ようやく普通の練習に戻ったところだ」
「そうだね」
「なのに、何かあるのか?」
「あるかもしれない」
「何が」
「大事件」
「何だと」
佐藤の顔色が変わった。
基樹が慌てて手を振る。
「いや、佐藤。たぶん彩音が勝手に面白がってるだけだから」
「“たぶん”なのか」
「まあ、でも何かありそうではある」
「お前まで不安を増やすな!」
佐藤は腹のあたりを押さえた。
「俺は生き残れるのか」
「運が良ければ生き残れるんじゃない?」
「運任せなのか!」
「大丈夫よ、佐藤くん。人は簡単には死なないわ」
「胃は簡単に死ぬんだよ!」
「名言出たね」
「拾うな!」
彩音は、佐藤の悲鳴を聞き流してグラウンドを見る。
恒一と巴が話している。
ひよりがそれを気にしている。
周囲の生徒たちも、少しだけその空気に気づいている。
彩音は、うんうんと頷いた。
「これは、やっぱり何かあったね」
「だから何がだ」
「名探偵の勘よ」
「勘で俺の寿命を削るな」
「大丈夫。佐藤くんは長生きしそう」
「その根拠は」
「苦労人はしぶといから」
「褒められてる気がしない」
佐藤は、もう一度恒一たちの方を見た。
たしかに、特別なことは起きていない。
ただ、以前より距離が近い。
以前より自然に話している。
それだけだ。
だが、それだけなのに、佐藤の胃は反応していた。これまでの経験が告げている。
朝比奈恒一の周囲で、こういう小さな変化が起きた時は、たいてい後から大きな面倒が来る。
「やっと体育祭が終わったばかりだというのに……」
「恋愛に休みはないのよ」
「名言っぽく言うな」
「名探偵の勘も休まないわ」
「その勘、今すぐ休ませろ」
彩音は、今度はひよりの方へ歩いていった。
基樹が小声で言う。
「おい、そこ行くのか?」
「当然」
「やめといた方がよくないか?」
「大丈夫。核心は突かないわ」
「嘘つくな、絶対、突くだろ」
「突くか突かないかの境界を攻めるだけ」
「一番たち悪いやつだ」
ひよりは一年生たちと片づけをしていたが、彩音に声をかけられて顔を上げた。
「白石さん」
「は、はい」
「ちょっと聞いてもいい?」
「何ですか?」
「あの二人、どう思う?」
「……あの二人?」
「恒一と巴」
「えっ」
ひよりの動きが、分かりやすく止まった。
彩音の目が光る。
基樹は小声で言った。
「お前、容赦ないな」
「探偵に遠慮は不要よ」
「その探偵、たぶん嫌われるぞ」
ひよりは少し迷ったあと、グラウンドの方を見た。恒一と巴は、まだ何かを話している。
「……仲は、いいと思います」
「うん」
「体育祭の時も、真田先輩、朝比奈先輩のことをよく見ていましたし」
「ほう」
「朝比奈先輩も、真田先輩には自然に話している感じがします」
「なるほど」
「でも」
ひよりは、少しだけ頬を膨らませた。
「そういうのを、勝手に事件みたいに言うのはよくないと思います」
「え」
「本人たちがちゃんと考えることなので」
「……」
「周りが勝手に騒ぐと、真田先輩も困ると思います」
「……白石さん」
「はい」
「あなた、意外と強いわね」
「強くないです」
ひよりはそう言ったが、目は逸らさなかった。
彩音はしばらく黙っていた。
それから、真面目な顔でうなずく。
「分かったわ」
「分かってくれましたか?」
「これは、事件であると同時に、慎重に扱うべき案件ね」
「分かってないです」
「表向きは静かに。裏で丁寧に調べるべきということね」
「もっと分かってないです」
「助手、記録して」
「記録しないし、俺はもう帰りたい」
佐藤は、そのやり取りを見て静かに胃を押さえた。
「……俺は、一年生にまで正論を言われる世界で生きているのか」
「佐藤先輩は何も言われてないです」
「見ているだけで胃に来るんだ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だった時期が思い出せない」
「かわいそうです」
「一年生の同情が一番効く……」
佐藤は軽くうなだれた。
その時、グラウンドの向こうで恒一がこちらに気づいた。何をしているんだ、とでも言いたげな顔で見ている。
巴もこちらを見た。
その視線は冷静だった。
冷静だったが、何となく圧があった。
彩音は、にこりと笑って手を振った。
「調査中よ!」
「何のだ!」
恒一の声が飛んできた。
巴は無言で目を細めた。
ひよりは慌てて視線を逸らした。
基樹は空を見上げた。
佐藤は悟った。
平穏は、戻ってこない。
「……俺は、生き残れるのか」
「運が良ければ」
「だから運任せにするな!」
彩音は楽しそうに笑った。
「でも、分かったことはあるわ」
「何が分かったんだよ」
「体育祭で、恒一と巴の距離は確実に縮まった」
「まあ、それは見てれば分かる」
「白石さんは、それをちゃんと気にしている」
「……それも、まあ」
「周囲も少しずつ気づき始めている」
「嫌な流れだな」
「そして佐藤くんは、今日も胃が痛い」
「最後の情報はいらない!」
「重要よ。佐藤くんの胃は、恋愛異変を察知する観測装置だから」
「俺を装置にするな!」
基樹が、少しだけ気の毒そうに佐藤を見る。
「でも、佐藤の胃が痛い時って、だいたい何か起きるよな」
「お前まで言うな」
「名探偵の助手としては、貴重な証言ね」
「だから助手じゃない」
「前から助手でしょ」
「それを当然みたいに言うな」
彩音は満足げにうなずいた。
「これは、まだ序章ね」
「何の序章だ」
「それはまだ秘密」
「また隠すのか」
「探偵は、真実にたどり着く過程も楽しまないと」
「楽しんでばかりだな、そろそろやめろ」
「無理ね」
「無理なのか」
「面白そうだから」
「本音が出たぞ」
佐藤の声は、ほとんど悲鳴だった。
基樹は、そんな彩音を横から見て、少しだけため息をついた。
「なあ、彩音」
「何?」
「あんまり人の恋愛話を面白おかしくしてると、今にひどい目に遭うぞ」
彩音はきょとんとした顔をした。
「ひどい目?」
「そう。自分の番になった時とかな」
「私の番?」
「お前だって、完全に無関係な立場じゃないだろ」
「……」
彩音の視線が、一瞬だけ基樹から外れた。
それを見て、基樹は眉を上げる。
「今、ちょっと動揺した?」
「してない」
「絶対しただろ」
「助手が探偵を観察しない」
「いや、俺は助手じゃないし、今のは普通に見えた」
「見えてない」
「見えてた」
「見えてないったら、見えてない」
彩音はそう言って、わざとらしく咳払いをした。
「とにかく、今は恒一と巴の件よ」
「逃げたな」
「逃げてない。捜査対象を戻しただけ」
「便利な言い方だな」
基樹は呆れたように言った。
佐藤は、そのやり取りを聞きながら、また胃のあたりを押さえた。
「……俺は今、別方向の火種を見た気がする」
「佐藤くん、気のせいよ」
「気のせいで胃は痛くならない」
「佐藤先輩、本当に大丈夫ですか?」
「白石、一年生の優しさが今はしみる……」
ひよりは困ったように眉を下げた。
体育祭は終わった。
けれど、陸上部の周辺は、まだ少しも落ち着いていなかった。
そして彩音は、久しぶりに動き始めた。
それが本当に事件なのか。
ただの勘違いなのか。
それはまだ、誰にも分からない。
少なくとも佐藤には、分かりたくもなかった。




