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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第179話 彩音ちゃんは動く

放課後 


 体育祭が終わった。


 終わったはずだった。


 少なくとも、佐藤忠一はそう思っていた。


 クラス対抗の競技も終わった。


 朝比奈恒一と真田巴の妙な空気も、ひとまず落ち着いた。


 北条真白の周囲に漂っていた、何とも言えない張り詰めた空気も、少しだけ薄くなった気がする。


 これで、ようやく日常が戻ってくる。


 佐藤はそう信じていた。


 ただ信じるだけなら自由である。


 現実が、それに付き合ってくれるとは限らない。


「やっぱり、何かあったね」


 部室棟の陸上部室前。


 窓際に立った彩音が、中を見ながら言った。その隣で、基樹が心底面倒くさそうな顔をする。


「まだそのネタ続いてんの?」


「続いているんじゃないわ。必要な時に再開されるのよ」


「何その便利な設定」


「探偵とは、事件が起きた時に現れるものだから」


「自分で名探偵って言ってたやつが言うと、だいぶ怪しいんだよな」


「細かいことを気にしない。助手」


「その助手呼びも、まだ続いてんの?」


「当然でしょ。任期は無期限よ」


「契約した覚えないんだけど」


「前にも言った気がする」


「たぶん言ってない」


「じゃあ、今言った」


 彩音は基樹の抗議を聞き流し、グラウンドへ視線を戻した。


 グラウンドでは、体育祭後の通常練習が始まっていた。陸上部の生徒たちが、ストレッチをしたり、軽く走ったり、器具を片づけたりしている。


 体育祭の熱気はすでに過ぎたが、部活の空気は少しだけ浮ついていた。


 大きな行事が終わった直後の、妙な解放感。


 それでも次の練習は始まるという、いつもの現実。


 その中に、朝比奈恒一と真田巴の姿もあった。二人は特別なことをしているわけではない。


 ただ、近くで話しているだけだった。


 恒一が何かを確認し、巴が短く答える。


 巴が少しだけ視線を外し、恒一が首をかしげる。


 恒一がまた何か言うと、巴はほんの少しだけ口元を緩めた。


 それだけだった。


 それだけなのだが。


「なるほどね」


「何が?」


「体育祭を経て、二人の距離が縮まっている」


「まあ、それはそうかもな」


「基樹、見て。巴の反応」


「反応?」


「前より柔らかい」


「お前、よく見てんな」


「名探偵だから」


「その設定、本当にまだ生きてるんだ」


「生きてるわ。むしろ今が最盛期よ」


「最盛期、来るの早いな」


 基樹は呆れたが、彩音は真剣だった。


 いや、真剣というより、楽しそうだった。


 彩音は情報通だ。


 普段から人の様子をよく見ているし、噂も拾う。ただし、親切に全部を教えてくれるタイプではない。


 面白いことが起きそうなら、自分で確かめる。分かったことを全部出さず、少し隠しながら反応を見る。


 そうやって真相に近づいていく過程を楽しむ。


 基樹は、それを知っていた。


 そして知っているからこそ、嫌な予感がした。


「なあ、彩音」


「何?」


「今、何をどこまで知ってる?」


「いい質問ね、助手」


「嫌な予感しかしない」


「探偵が最初から全部話したら、物語が終わるでしょ」


「物語にするな」


「安心して。まだ仮説の段階だから」


「仮説?」


「体育祭の後、恒一と巴の距離が縮まった」


「それは見れば分かる」


「でも、本人たちの自覚はたぶん半分くらい」


「半分?」


「巴は気づき始めてる。恒一は……まあ、恒一」


「ひどい納得感がある」


「そして、見て」


「今度はどこだよ」


 彩音が目で示した先に、白石ひよりがいた。


 ひよりは一年生たちと一緒に片づけをしながら、ちらちらと恒一たちの方を見ている。


 見ていないふりをしているが、明らかに見ている。


 その表情は、怒っているわけではない。


 悲しんでいるわけでもない。


 ただ、落ち着かなさそうだった。


「白石さんも反応している」


「ひよりちゃん?」


「これは、かなり面白い」


「面白いって言うな」


「大丈夫。本人の前では言わないから」


「今、俺には言ったよな」


「助手は関係者だから」


「俺、関係者だったの?」


「前からそうよ」


「知らない間に深いところへ巻き込まれてる……」


 彩音は、そこでにこりと笑った。


「ということで、現場に行くわよ」


「グラウンド行くの?」


「当然でしょ。上から見ているだけでは得られない情報があるもの」


「いや、やめとけって。本人たちに迷惑だろ」


「迷惑にならない範囲で聞くわ」


「お前の迷惑にならない範囲って、だいぶ信用できないんだよな」


「失礼ね」


「前科があるからな」


「助手、過去を蒸し返す男はモテないわよ」


「探偵ごっこしてる人にモテ判定されたくない」


 そう言いながらも、基樹は結局ついていった。止めても無駄だと知っているからである。


 グラウンド脇へ降りると、体育祭後の陸上部は思っていたより賑やかだった。


 部員たちは練習をしながらも、体育祭の話をしている。誰が速かったとか、誰が意外と運動できたとか、誰が転びかけたとか。


 そんな話があちこちから聞こえてくる。


 彩音は自然な顔でその輪の近くへ行き、まず二年生の女子に声をかけた。


「ねえ、ちょっと聞いていい?」


「何?」


「恒一と巴、最近どう思う?」


「ああ」


 女子はすぐに察したような顔をした。


「部長と副部長、体育祭で、ちょっと距離縮まった感じはするよね」


「やっぱり」


「前から仲は悪くなさそうだったけど、最近は何か、話す時の空気が違うっていうか」


「空気」


「うん。真田副部長が前より柔らかい気がする」


「なるほど」


「朝比奈部長は……まあ、朝比奈部長だけど」


「そこは変わらないのね」


「そこは変わらないね」


 彩音は満足そうにうなずいた。


「有力証言を得たわ」


「何の証言だよ」


 基樹が小声で突っ込む。


 だが、彩音は止まらない。


 次に別の生徒にも声をかけた。


「ねえ、恒一と巴って前からあんな感じだった?」


「え? 朝比奈先輩と真田先輩ですか?」


「そう」


「前から話してはいましたけど、最近の方が自然な感じはします」


「自然」


「真田先輩、ちょっと笑うようになったというか」


「なるほど」


「でも朝比奈先輩は、たぶん気づいてないです」


「分かる」


「分かるのかよ」


 基樹が呆れる。


 彩音は、聞いた情報を頭の中で整理しているらしい。ただし、それを基樹に全部話す気はなさそうだった。


「なあ、彩音」


「何?」


「今、何を考えてる?」


「言わない」


「何でだよ」


「助手の自然な反応も、調査対象だから」


「俺まで観察されてんの?」


「当然」


「最悪だな、この探偵」


 彩音は楽しそうだった。


 そして、その楽しそうな様子を見て、基樹は思った。これは止まらない。


 完全に、面白がっている時の顔だった。


 その時だった。


「お前ら二人、何やってんだ」


 背後から声がした。


 振り返ると、佐藤が立っていた。


 佐藤は、彩音と基樹を交互に見て、それからグラウンドを見た。


 最後に、恒一と巴の方を見る。そして、すぐに嫌な予感を覚えた顔になった。


「……何をしていた」


「調査」


「調査?」


「ええ。必要な調査よ」


「何の」


「それを今ここで言ったら、面白くないでしょ」


「面白さで情報を管理するな」


 佐藤の眉間にしわが寄る。


「待て。体育祭は終わったはずだ」


「終わったね」


「陸上部も、ようやく普通の練習に戻ったところだ」


「そうだね」


「なのに、何かあるのか?」


「あるかもしれない」


「何が」


「大事件」


「何だと」


 佐藤の顔色が変わった。


 基樹が慌てて手を振る。


「いや、佐藤。たぶん彩音が勝手に面白がってるだけだから」


「“たぶん”なのか」


「まあ、でも何かありそうではある」


「お前まで不安を増やすな!」


 佐藤は腹のあたりを押さえた。


「俺は生き残れるのか」


「運が良ければ生き残れるんじゃない?」


「運任せなのか!」


「大丈夫よ、佐藤くん。人は簡単には死なないわ」


「胃は簡単に死ぬんだよ!」


「名言出たね」


「拾うな!」


 彩音は、佐藤の悲鳴を聞き流してグラウンドを見る。


 恒一と巴が話している。


 ひよりがそれを気にしている。


 周囲の生徒たちも、少しだけその空気に気づいている。


 彩音は、うんうんと頷いた。


「これは、やっぱり何かあったね」


「だから何がだ」


「名探偵の勘よ」


「勘で俺の寿命を削るな」


「大丈夫。佐藤くんは長生きしそう」


「その根拠は」


「苦労人はしぶといから」


「褒められてる気がしない」


 佐藤は、もう一度恒一たちの方を見た。


 たしかに、特別なことは起きていない。


 ただ、以前より距離が近い。

 以前より自然に話している。


 それだけだ。


 だが、それだけなのに、佐藤の胃は反応していた。これまでの経験が告げている。


 朝比奈恒一の周囲で、こういう小さな変化が起きた時は、たいてい後から大きな面倒が来る。


「やっと体育祭が終わったばかりだというのに……」


「恋愛に休みはないのよ」


「名言っぽく言うな」


「名探偵の勘も休まないわ」


「その勘、今すぐ休ませろ」


 彩音は、今度はひよりの方へ歩いていった。


 基樹が小声で言う。


「おい、そこ行くのか?」


「当然」


「やめといた方がよくないか?」


「大丈夫。核心は突かないわ」


「嘘つくな、絶対、突くだろ」


「突くか突かないかの境界を攻めるだけ」


「一番たち悪いやつだ」


 ひよりは一年生たちと片づけをしていたが、彩音に声をかけられて顔を上げた。


「白石さん」


「は、はい」


「ちょっと聞いてもいい?」


「何ですか?」


「あの二人、どう思う?」


「……あの二人?」


「恒一と巴」


「えっ」


 ひよりの動きが、分かりやすく止まった。


 彩音の目が光る。


 基樹は小声で言った。


「お前、容赦ないな」


「探偵に遠慮は不要よ」


「その探偵、たぶん嫌われるぞ」


 ひよりは少し迷ったあと、グラウンドの方を見た。恒一と巴は、まだ何かを話している。


「……仲は、いいと思います」


「うん」


「体育祭の時も、真田先輩、朝比奈先輩のことをよく見ていましたし」


「ほう」


「朝比奈先輩も、真田先輩には自然に話している感じがします」


「なるほど」


「でも」


 ひよりは、少しだけ頬を膨らませた。


「そういうのを、勝手に事件みたいに言うのはよくないと思います」


「え」


「本人たちがちゃんと考えることなので」


「……」


「周りが勝手に騒ぐと、真田先輩も困ると思います」


「……白石さん」


「はい」


「あなた、意外と強いわね」


「強くないです」


 ひよりはそう言ったが、目は逸らさなかった。


 彩音はしばらく黙っていた。


 それから、真面目な顔でうなずく。


「分かったわ」


「分かってくれましたか?」


「これは、事件であると同時に、慎重に扱うべき案件ね」


「分かってないです」


「表向きは静かに。裏で丁寧に調べるべきということね」


「もっと分かってないです」


「助手、記録して」


「記録しないし、俺はもう帰りたい」


 佐藤は、そのやり取りを見て静かに胃を押さえた。


「……俺は、一年生にまで正論を言われる世界で生きているのか」


「佐藤先輩は何も言われてないです」


「見ているだけで胃に来るんだ」


「大丈夫ですか?」


「大丈夫だった時期が思い出せない」


「かわいそうです」


「一年生の同情が一番効く……」


 佐藤は軽くうなだれた。


 その時、グラウンドの向こうで恒一がこちらに気づいた。何をしているんだ、とでも言いたげな顔で見ている。


 巴もこちらを見た。


 その視線は冷静だった。

 冷静だったが、何となく圧があった。


 彩音は、にこりと笑って手を振った。


「調査中よ!」


「何のだ!」


 恒一の声が飛んできた。


 巴は無言で目を細めた。


 ひよりは慌てて視線を逸らした。


 基樹は空を見上げた。


 佐藤は悟った。


 平穏は、戻ってこない。


「……俺は、生き残れるのか」


「運が良ければ」


「だから運任せにするな!」


 彩音は楽しそうに笑った。


「でも、分かったことはあるわ」


「何が分かったんだよ」


「体育祭で、恒一と巴の距離は確実に縮まった」


「まあ、それは見てれば分かる」


「白石さんは、それをちゃんと気にしている」


「……それも、まあ」


「周囲も少しずつ気づき始めている」


「嫌な流れだな」


「そして佐藤くんは、今日も胃が痛い」


「最後の情報はいらない!」


「重要よ。佐藤くんの胃は、恋愛異変を察知する観測装置だから」


「俺を装置にするな!」


 基樹が、少しだけ気の毒そうに佐藤を見る。


「でも、佐藤の胃が痛い時って、だいたい何か起きるよな」


「お前まで言うな」


「名探偵の助手としては、貴重な証言ね」


「だから助手じゃない」


「前から助手でしょ」


「それを当然みたいに言うな」


 彩音は満足げにうなずいた。


「これは、まだ序章ね」


「何の序章だ」


「それはまだ秘密」


「また隠すのか」


「探偵は、真実にたどり着く過程も楽しまないと」


「楽しんでばかりだな、そろそろやめろ」


「無理ね」


「無理なのか」


「面白そうだから」


「本音が出たぞ」


 佐藤の声は、ほとんど悲鳴だった。


 基樹は、そんな彩音を横から見て、少しだけため息をついた。


「なあ、彩音」


「何?」


「あんまり人の恋愛話を面白おかしくしてると、今にひどい目に遭うぞ」


 彩音はきょとんとした顔をした。


「ひどい目?」


「そう。自分の番になった時とかな」


「私の番?」


「お前だって、完全に無関係な立場じゃないだろ」


「……」


 彩音の視線が、一瞬だけ基樹から外れた。


 それを見て、基樹は眉を上げる。


「今、ちょっと動揺した?」


「してない」


「絶対しただろ」


「助手が探偵を観察しない」


「いや、俺は助手じゃないし、今のは普通に見えた」


「見えてない」


「見えてた」


「見えてないったら、見えてない」


 彩音はそう言って、わざとらしく咳払いをした。


「とにかく、今は恒一と巴の件よ」


「逃げたな」


「逃げてない。捜査対象を戻しただけ」


「便利な言い方だな」


 基樹は呆れたように言った。


 佐藤は、そのやり取りを聞きながら、また胃のあたりを押さえた。


「……俺は今、別方向の火種を見た気がする」


「佐藤くん、気のせいよ」


「気のせいで胃は痛くならない」


「佐藤先輩、本当に大丈夫ですか?」


「白石、一年生の優しさが今はしみる……」


 ひよりは困ったように眉を下げた。


 体育祭は終わった。


 けれど、陸上部の周辺は、まだ少しも落ち着いていなかった。


 そして彩音は、久しぶりに動き始めた。


 それが本当に事件なのか。

 ただの勘違いなのか。


 それはまだ、誰にも分からない。


 少なくとも佐藤には、分かりたくもなかった。

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