第178話 明日の練習
体育祭の翌日は、振替休日だった。
学校は休み。
当然、陸上部の練習もない。
真田巴は、自室の床に座って、昨日使ったタオルを畳んでいた。
体は少し重い。
足にも、まだ疲れが残っている。
それは当然だった。
最後のクラス対抗リレーで、巴は全力で走った。
三年生を抜いた。
朝比奈恒一を抜いた。
そして、二年B組を一着にした。
昨日の歓声は、まだ耳の奥に残っている。
けれど、巴が何度も思い出してしまうのは、歓声そのものではなかった。
「先に行く」
バトンを受け取る直前、恒一がそう言った。
短い言葉だった。
挑発というほど強くはない。
でも、手加減する気もない。
先に行く。
だから追ってこい。
そんなふうに聞こえた。
思い出しただけで、胸の奥が少し熱くなる。
「……何回思い出してるのよ」
巴は小さく呟いた。
自分に呆れたつもりだった。
けれど、口元が少しだけ緩んでいた。
昨日の朝比奈は速かった。
派手ではない。
目立とうとしているわけでもない。
けれど、走り出すと空気が変わる。
まっすぐで、余計なものがなくて、前へ進むことだけに集中している。
あれを追うのは、楽しかった。
追いつくまでの数秒。
並んだ一瞬。
抜いた瞬間。
どれも、まだ体が覚えている。
巴は畳んだタオルを棚に置き、机の引き出しを開けた。
探し物をするつもりはなかった。
ただ、何となく手が伸びただけだった。
引き出しの奥。
そこに、ひとつの封筒がしまってある。
以前、朝比奈恒一から手渡されたラブレター。
ラブレター、と呼んでいいのかどうかは、今でも少し迷う。
甘い言葉はない。
気持ちを綴った長い文章もない。
便箋に書かれていたのは、ただ一行だけだった。
『朝比奈恒一です。』
それだけ。
本当に、それだけだった。
「……何なのよ、これ」
久しぶりに見ても、やっぱりそう思う。
普通、もっと何か書く。
好きです、とか。
ずっと見ていました、とか。
もしよければ返事をください、とか。
そういうものではないのか。
なのに、このラブレターには、それすらない。
ただ、自分の名前だけを差し出すように、朝比奈恒一です、と書かれている。
変な手紙だった。
とても変な手紙だった。
それでも巴は、それを捨てられなかった。
捨てられなかったどころか、ずっと大切にしまっている。
理由は、今でもうまく言えない。
ただ、あの時から、その名前だけは妙に目に残った。
朝比奈恒一。
クラスメイトでもない。
ただの陸上部の男子でもない。
その名前を、初めて自分の中で選んだような気がした。
昨日のリレーのあとでは、なおさらだった。
「すごく楽しかった」
ゴールのあと、恒一はそう言った。
息を切らしながら、まっすぐに。
負けたばかりなのに。
悔しいはずなのに。
それでも、楽しかったと言った。
巴は便箋を見つめたまま、少しだけ目を細める。そして、自分でも気づかないくらい小さく笑いそうになった。
「……だから、何で笑いそうになるのよ」
そう呟いて、巴は慌てて便箋を封筒へ戻した。その時、部屋の扉が軽く叩かれた。
「巴、入っていい?」
前田千夜の声だった。
巴は封筒を引き出しに戻そうとして、少しだけ手元を迷わせる。
奥へ押し込むのではなく、すぐに取り出せる場所へ戻した。
「いいよ」
巴が言うと、千夜が扉を開けた。
休日らしいラフな服装で、手には飲み物の入った袋を持っている。
「差し入れ」
「ありがとう」
「昨日の一着祝い」
「大げさ」
「大げさじゃないよ。三年生まで抜いたんだから」
千夜はそう言って、机の上に袋を置いた。
そしてすぐに、巴の顔を見た。
「何か、ちょっと笑ってなかった?」
「笑ってない」
「否定が早い」
「笑ってないから」
「でも、ちょっと嬉しそうだった」
「気のせい」
「ふうん」
千夜は楽しそうに目を細めた。
巴は少しだけ顔を背ける。
「何」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「昨日のこと、思い出してた?」
巴は答えなかった。
千夜はベッドの端に腰を下ろす。
「昨日、すごい笑顔だったよ」
「私が?」
「うん。ゴールしたあと」
「勝ったからでしょ」
「それだけじゃないと思う」
「それだけ」
「じゃあ、朝比奈君と話してる時に赤くなってたのは?」
「赤くなってない」
「なってた」
「暑かっただけ」
「昨日、夕方だったけど」
「走ったあとだから」
「便利な言い訳だね」
千夜はにこにこしている。
巴は少しだけ顔を背けた。
昨日、赤くなっていたかどうかは分からない。
でも、楽しかったのは本当だ。
悔しかったのも本当。
勝ったのに、もっと走りたいと思ったのも本当。その相手が朝比奈だったから、余計に。
「明日から陸上部あるの?」
千夜が聞いた。
「ある」
「今日は振替休日だもんね」
「うん。今日は休み」
「明日から練習か」
「軽めだと思うけど」
「楽しみ?」
千夜が何気ない顔で聞く。
巴は一瞬だけ言葉に詰まった。
「普通」
「普通?」
「普通に練習するだけ」
「昨日あんなに楽しそうに走ってたのに?」
「体育祭と部活は違うでしょ」
「違うけど、朝比奈君もいるよ」
「……それは、いるけど」
「じゃあ、楽しみじゃん」
「そういう話じゃない」
「そういう話だと思う」
千夜は笑った。
巴は反論しようとして、やめた。
明日から陸上部がある。
いつも通りの練習。
ストレッチをして、軽く走って、フォームを確認して、必要ならメニューを組む。何度も繰り返してきた普通の放課後。
そのはずなのに。
昨日のリレーを走ったあとでは、少しだけ違って見える。
トラックに立った時、朝比奈はどんな顔をするのだろう。
昨日の話をするだろうか。
また走ろうと言ったことを、覚えているだろうか。
同じ側で走るのも楽しそうだと、言ったことを。
巴はそこまで考えて、自分で少し驚いた。
明日の練習を、待っている。
今までよりも、少しだけ。
「巴」
「何」
「今、ちょっと楽しみにしてた顔」
「してない」
「してた」
「してない」
「じゃあ、明日が普通の練習でも?」
「普通の練習でも」
「朝比奈君と一緒でも?」
「……普通」
「間があった」
「ない」
「ある」
千夜はくすっと笑った。
巴は、引き出しの方をちらりと見た。
そこには、名前だけのラブレターがしまってある。
朝比奈恒一です。
たったそれだけの一文。
なのに、その名前は昨日より少しだけ近くに感じた。
「でも、よかった」
「何が?」
「巴、昨日ほんとに楽しそうだったから」
「そんなに?」
「うん」
千夜は頷く。
「勝った顔っていうより、楽しかった顔だった」
その言葉に、巴は少しだけ黙った。
勝った顔。
楽しかった顔。
どちらも間違ってはいない。
でも、たぶん千夜の言う方が近かった。
「……楽しかったのは、本当」
巴は小さく言った。
千夜は何もからかわなかった。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、明日も楽しみだね」
巴はすぐには否定しなかった。
窓の外では、休日の午後の光が静かに揺れている。
体育祭は終わった。
歓声も、白線も、テントも、もう片づけられている。
けれど、最後の直線の感覚だけは、まだ巴の中に残っていた。
朝比奈の背中。
追いつくまでの距離。
抜いた瞬間の熱。
ゴールのあとに交わした握手。
また走ろう、朝比奈。
その言葉。
巴は、小さく息を吐いた。
「明日」
「うん」
「少しだけ、楽しみかも」
千夜はにやっと笑った。
「少しだけ?」
「少しだけ」
「本当に?」
「しつこい」
「はいはい」
千夜は楽しそうに肩をすくめた。
巴は窓の外を見る。
明日になれば、またトラックに立つ。
昨日とは違う。
体育祭ではない。
クラスも、歓声も、順位もない。
それでも、朝比奈恒一はそこにいる。
そう思うと、明日の練習が、いつもより少しだけ待ち遠しかった。




