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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第177話 最後のリレー

 午後。


 体育祭は、終盤に近づくにつれて熱を増していた。


 午前中の借り人競走で、すでにいくつかの感情が動いている。


 北条真白は、真田巴を「尊敬している人」として連れていった。


 前田千瀬は、白石ひよりを「最近助けてもらった人」として連れていった。


 そして朝比奈恒一は、そのどちらにもあまり深く気づいていない顔で、午後の競技表を確認していた。


「恒一」


 基樹が声をかける。


「何だ」


「このあと、クラス対抗リレーだぞ」


「ああ」


「真田さんを見るなとは言わない」


「そうか」


「でも、見惚れるな」


「見惚れない」


「観察も禁止」


「観察も駄目なのか」


「今日は駄目」


「難しいな」


「難しくない」


 基樹はため息をついた。


 恒一は二年A組。


 巴は二年B組。


 同じ陸上部だが、今日は敵だった。


 午前から何度も確認しているはずなのに、恒一の顔はどこか楽しそうである。それが基樹には心配だった。


「恒一」


「何だ」


「真田さんが速くても、格好よくても、今回はA組が勝つことを考えろ」


「もちろんだ」


「本当か?」


「ああ。負けたくない」


 その答えだけは、まっすぐだった。


 基樹は少しだけ安心し、少しだけ不安になった。


 負けたくない。その言い方が、やっぱり楽しそうだったからだ。


 ■二年D組。


 佐藤忠一は、二年D組の走者として集合場所の近くにいた。


 午後のクラス対抗リレーでは、D組の走者が一人足を痛めたため、佐藤が代わりに入ることになっている。


「佐藤くん」


 前田千夜が声をかけた。


「出るんだよね」


「ああ」


「頑張って」


「普通に応援された」


「普通に応援するよ。同じD組だし」


「そうだったな」


「忘れないで」


 千夜は少し笑った。


 それから視線をB組側へ向ける。

 巴が、静かに準備をしていた。


 髪を結び直し、軽く足首を回している。

 いつも通り落ち着いているように見える。


 けれど、千夜には少しだけ違って見えた。


 巴は楽しみにしている。

 ただ勝ちたいだけではない。


 朝比奈恒一と走ることを。

 その彼との勝負を。


「巴、楽しそう」


 千夜が小さく言う。


「そう見えるか?」


「うん。少し怖いくらい」


 佐藤はA組側を見た。


 恒一も、静かに準備をしている。

 大きな声を出すわけでもない。


 周囲を煽るわけでもない。

 ただ、走る準備をしている。


 それだけで、空気が少し変わる。


「あの二人が走るのか」


 佐藤が呟く。


「うん」


 千夜は頷いた。


「見る方も、ちょっと緊張するね」


「走る方はもっとだ」


「佐藤くんも頑張って」


「ああ」


 佐藤は短く返事をした。

 それ以上、何も言わなかった。


 グラウンドの空気が、少しずつ最後の競技へ向かっていく。


 ■クラス対抗リレー。


 最後の競技は、クラス対抗リレーだった。


 グラウンドの空気が変わる。


 テントの下にいた生徒たちも立ち上がり、応援席の声が大きくなっていく。


 笛が鳴った。

 歓声が上がる。


 各クラスの走者が、次々にバトンを繋いでいく。先頭を走っているのは三年C組だった。


 そのすぐ後ろに三年D組。

 やはり三年生は速い。


 体格も、走り慣れも、声援の大きさも違う。二年A組と二年B組は、その少し後ろにいた。


 全体では三位と四位あたり。


 けれど、二年生の中ではほとんど差がなかった。


 A組がわずかに前。

 B組がそれを追う。


 そして、そのままアンカーへ近づいていく。


 A組のアンカーは恒一。

 B組のアンカーは巴。


 前の走者が戻ってくる。


 恒一が先にバトンを受け取った。走り出す直前、恒一はちらりとB組側を見た。


 少し遅れて、巴の前の走者が戻ってくる。


「真田」


 恒一が短く呼ぶ。


 巴が顔を上げる。


「先に行く」


 その言葉に、巴は一瞬だけ目を細めた。


 挑発ではない。

 本気で走る者の言葉だった。


「すぐ追いつく」


 巴はそう返して、バトンを受け取った。


 恒一が前へ出る。

 続いて、巴も走り出した。


 前には三年C組と三年D組。

 さらに、恒一の二年A組。


 簡単に届く距離ではない。


 恒一は前へ出た。

 無理に目立つ走りではない。


 ただ、真っ直ぐだった。

 前へ進むことだけに、余計なものがない。


 恒一は前の走者を追う。

 じわじわと距離を詰める。


 歓声が大きくなる。


 残り半分を切ったところで、恒一は一人を抜いた。二年A組が二位に上がる。


 けれど、そのさらに後ろから、巴が来ていた。


 速い。

 ただ速いだけではない。

 走りが崩れない。


 追うほどに、むしろ姿勢が鋭くなっていく。巴は恒一の背中を見ていた。


 やっぱり速い。

 派手ではないのに、目を引く。


 追いつきたい。

 負けたくない。


 そして、その背中を追うことが、どうしようもなく楽しかった。


 巴は地面を蹴った。


 腕を振る。

 歩幅を伸ばす。

 周囲の歓声が遠くなる。


 前にいるのは、三年生の背中。


 そして、恒一の背中だった。


 恒一も気づいた。


 後ろから迫る足音。

 迷いのない気配。


 振り返らなくても分かる。

 真田だ。

 一人抜いて恒一に迫る。


 胸の奥が熱くなる。

 逃げ切りたい。


 負けたくない。


 でも、追ってくる相手が巴であることが、楽しかった。


 巴が並ぶ。

 恒一がさらに前へ出ようとする。


 巴も食らいつく。

 ほんの一瞬、二人の距離が並んだ。


 だが、巴はそこで終わらなかった。


 さらに前へ出る。

 恒一を抜く。


 二年B組の歓声が一気に大きくなった。


 巴はそのまま三年C組に迫る。前を走る三年生が気づき、必死に速度を上げる。


 それでも、巴は詰めた。


 残り数十メートル。


 さらに前へ出る。


 三年C組の背中が見える。


 グラウンド全体の声が、一つに膨れ上がった。恒一は三位の位置で走りながら、その背中を見た。


 巴が、前へ行く。

 自分を抜いて。


 三年生を抜いて。

 さらに先へ。


 悔しい。

 でも、目を離せなかった。


 巴は最後の直線で、三年C組に並んだ。


 相手も必死に粘る。


 巴も緩めない。


 ほとんど同時に見えた。

 だが、最後の一歩で巴が前に出た。


 そのままゴールへ飛び込む。


 一瞬、グラウンドが静かになった。


 すぐに審判の声が響く。


「一着、二年B組!」


 歓声が爆発した。

 少し遅れて三年C組。


 その後に、恒一が三位でゴールした。


 恒一は息を整えながら、ゴールの先で立ち止まった。


 負けた。

 巴に抜かれた。


 それでも、胸の奥に残っていたのは、悔しさだけではなかった。


「真田」


 恒一が声をかける。


 巴は振り返った。

 息を切らしていた。


 けれど、その顔は驚くほど明るかった。


 勝負が楽しかった。

 走ることが楽しかった。


 そんな気持ちが、そのまま笑顔になっているようだった。


 走っている巴は、美しかった。強くて、速くて、迷いがなくて、目を奪われるような走りだった。


 けれど、走り終えたあと、全身に熱を残したまま笑う巴も、同じくらい目を離せなかった。


「何?」


 巴が聞く。


「すごく楽しかった」


 恒一がそう言うと、巴は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、さらに嬉しそうに笑った。


「私も」


 短く、けれどはっきりと言った。


「楽しかった」


「負けたのは悔しいけど」


「うん」


「でも、追われるのは楽しかった」


「私は、追うのも楽しかった」


 巴はまだ息を整えきれていない。

 それでも、目はまっすぐ恒一を見ていた。


「お前、やっぱり速い」


「真田の方が速かった」


「今日はね」


「次は俺が勝つ」


「次も私が勝つ」


 二人は少しだけ笑った。


 競技が終わった直後の、まだ熱の残る笑いだった。


 巴が手を差し出す。


「また走ろう、朝比奈」


 恒一はその手を見た。


 それから、迷わず握る。


「ああ。また走ろう、真田」


「体育祭だけじゃなくて」


「部活でもか」


「うん。今度は、同じ側でもいい」


「それも楽しそうだ」


「でしょ」


 巴は笑っていた。


 恒一は、その顔をじっと見ていた。


 握った手は、すぐに離れた。けれど、恒一にはその短い時間が、少しだけ長く残った。


 勝ったのは巴だった。


 負けたのは恒一だった。


 それでも、走り終えたあと、二人の間にあった距離は、少しだけ近くなった気がした。


 夕方のグラウンドに、まだ歓声の名残が残っている。


 蒼ヶ崎市立東雲高校の体育祭は、こうして終わった。


 けれど、恒一の中には、あの最後の直線と、巴の笑顔だけが、しばらく消えずに残っていた。

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