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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第176話 借り人競走は危険です

 体育祭当日。


 蒼ヶ崎市立東雲高校のグラウンドは、朝からいつもと違う空気に包まれていた。


 白線の引かれたトラック。

 クラスごとに並ぶテント。

 団ごとに分かれた旗。


 放送席では、体育委員がマイクの確認をしている。


 体操服の上からクラスTシャツを着た生徒たちは、競技表を見たり、応援用のタオルを首にかけたり、すでに落ち着かない様子だった。


 そして、落ち着かないというより、すでに疲れている者もいた。


 佐藤忠一である。


「佐藤、大丈夫か?」


 朝比奈恒一が声をかける。


「大丈夫ではある」


「ではある?」


「本番が始まる前から、すでに忙しい」


「体育祭だからな」


「その一言で全てを片づけるな!」


 佐藤は競技進行表を見ながら、胃のあたりを押さえた。


 陸上部は、体育祭当日も仕事が多い。


 招集の手伝い。

 リレーのバトン確認。

 部活動対抗リレーの走順確認。


 競技に出るだけで終わらない。


「朝比奈、お前はこのあと何だ?」


「午前は借り人競走の招集補助。午後はクラス対抗リレーと部活動対抗リレーだ」


「多いな」


「そうか?」


「多いんだよ」


 佐藤は深く息を吐いた。


 恒一は競技進行表を見て、ふと顔を上げる。


「そういえば、佐藤」


「何だ」


「今日はお前も敵だな」


 恒一が真面目な顔で言うと、佐藤は一瞬だけ黙った。


「朝比奈」


「ああ」


「お前はいつも俺の胃腸の敵だ」


「胃腸」


「そうだ。味方だったことはない。いつも俺をやきもきさせて、いつも振り回して、いつも胃を痛くさせる」


「それは悪かった」


「謝るなら、少しは自覚してくれ」


「自覚はしているつもりだ」


「そのつもりが一番怖いんだよ」


 佐藤は疲れた顔で言った。


 恒一は少し考えたが、よく分からなかった。


 そこへ、二年B組の真田巴が通りかかった。体操服の上にB組のクラスTシャツを着ている。


 シンプルな服装なのに、彼女が着ると妙に様になる。背筋が伸び、歩き方に無駄がない。


「朝比奈」


「真田」


「今日は敵ね」


「ああ。負けないように走る」


「私も」


 巴は短く返した。


 その声はいつも通りだったが、どこか楽しそうでもあった。 佐藤は、その二人を見て小さくつぶやく。


「爽やかなはずなのに、胃が痛い」


「佐藤?」


「何でもない」


 巴は少しだけ笑って、自分のクラスのテントへ戻っていった。


 すぐ横で、基樹がじっと恒一を見る。


「恒一」


「何だ」


「今日は敵だからな」


「分かっている」


「真田さんが走っても、見惚れる前に勝つことを考えろよ」


「見惚れない」


「昨日、見惚れてた」


「観察していた」


「それ、今日は禁止な」


 基樹はそう言って、恒一の肩を軽く叩いた。


「今日だけは、真面目にやれ」


「真面目にやる」


「その真面目の方向を間違えるな」


「難しいな」


「難しくない」


 基樹は呆れた顔をした。


 ■午前競技。


 開会式と準備体操が終わると、競技は順番に進んでいった。


 短距離走。

 大縄跳び。


 綱引き。

 障害物競走。


 グラウンドは少しずつ熱を帯びていく。


 二年A組では、北条真白も大縄跳びに出た。最初は縄に入るタイミングを迷っていたが、彩音に背中を軽く押され、何とか合わせることができた。


「北条さん、真剣すぎ」


 彩音が笑う。


「失敗すると全員で『あー』となると聞きましたので」


「確かになるけど」


「それは避けたいです」


「かわいい理由ね」


 真白は少しだけ困った顔をした。体育祭の熱気は、真白にとって少し不思議だった。


 騒がしくて、慌ただしくて、何もかもが予定通りには進まない。けれど、嫌ではなかった。


 ■借り人競走。


 午前の終盤。


 借り人競走の招集が始まった。


 真白は二年A組の女子枠で出ることになっていた。本人はそこまで乗り気ではなかったが、欠員が出たことで名前が入ってしまった。


 それでも、断らなかった。


 恒一は招集補助として、スタート付近に立っている。


「北条さん」


「はい」


「無理に急がなくていい。紙を見てから、落ち着いて探せばいい」


「分かりました」


「転ばないように」


「はい」


「人を連れて戻る時は、相手の速度も考えて」


「はい」


 真白は真面目に頷いた。


 それを聞いていた基樹が横から言う。


「恒一」


「何だ」


「借り人競走の説明まで部活っぽい」


「走る競技だからな」


「体育祭だぞ」


「体育祭でも走るだろ」


「そうだけど」


 基樹はため息をついた。


 真白は、そのやり取りを見て少しだけ表情を緩める。緊張が、少し薄れた。


 やがて、笛が鳴った。


 真白たちが走り出す。

 真白の走りは速いわけではない。


 けれど、姿勢は綺麗だった。

 小柄な体が、真っ直ぐ前へ進む。


 途中で紙を拾い、開く。


 真白は、そこに書かれた文字を見て止まった。


『尊敬している人』


 恒一様。


 その名前が浮かばなかったわけではない。

 けれど、真白の目は別の場所へ向かった。


 二年B組のテント。


 そこにいる、真田巴。


 昨日見た走り。

 強く、美しく、真っ直ぐな人。


 真白は紙を握りしめ、そちらへ向かった。


「巴さん」


 呼ばれた巴が、少し驚いた顔をする。


「北条さん?」


「来ていただけますか」


「私?」


「はい」


 真白は紙を見せた。

 巴はそこに書かれた文字を見る。


『尊敬している人』


 巴は、一瞬だけ目を丸くした。


「私でいいの?」


「はい」


 真白はまっすぐ言った。


「巴さんがいいです」


 周囲の女子たちがざわつく。


「巴様が尊敬している人で呼ばれた」


「分かる」


「分かるけど、北条さんが呼ぶの、何かいい」


 巴は少しだけ照れたように目を逸らした。


「分かった。行くわ」


「ありがとうございます」


「走れる?」


「速くはありません」


「じゃあ、合わせる」


 巴はそう言って、真白の隣に並んだ。


 二人でゴールへ向かう。

 巴は真白より少し遅めに走った。


 真白が遅れないように、自然に歩幅を合わせる。それでも、姿勢は崩れない。


 真白は、その横顔を少しだけ見上げた。

 やはり、綺麗な人だと思った。


 ゴールに着くと、審判の生徒が紙を確認する。


「尊敬している人。はい、オッケーです」


 小さな拍手が起きた。


 真白は息を整えながら、巴へ頭を下げる。


「ありがとうございました」


「こちらこそ。でも、驚いた。朝比奈を呼ぶと思った」


 真白は少しだけ目を伏せた。


「恒一様も、尊敬しています」


「うん」


「でも、昨日、巴さんの走る姿を見て、とても綺麗だと思いました」


「……そう」


「強いものが、そのまま美しく見えるようでした」


 巴は、少しだけ頬を赤くした。


「そういうことを、真顔で言うのね」


「失礼でしたか?」


「違う。少し、照れただけ」


 真白は瞬きをする。


「巴さんも照れるのですね」


「照れるわよ」


 巴は少しだけむっとした。


 その様子を見て、真白はほんの少しだけ笑った。


 ■一年生待機列。


「真白さん、巴姉を連れていきましたね」


 前田千瀬が興奮したように言った。


 隣にいた白石ひよりは、小さく頷く。


「うん」


「尊敬している人、ですって」


「うん」


「分かります。巴姉、尊敬される側です」


「そうだね」


 ひよりは、少し遠くを見る。


 巴は本当に目立つ。走っても、立っていても、誰かの視線を集める。それは少し怖くて、少し羨ましい。


 でも、ひよりの視線は、やはり別の場所へ向かってしまう。


 スタート付近。


 招集補助をしている朝比奈恒一。


 派手ではない。

 大きく目立つわけでもない。


 けれど、気づくと見てしまう。


「ひよりちゃん?」


 千瀬が顔を覗き込む。


「え」


「今、朝比奈先輩見てました?」


「み、見てない」


「見てました」


「見てないよ」


「見てました」


 千瀬はにやっと笑う。


「もし借り人競走で『最近助けてもらった人』が出たら、ひよりちゃんは朝比奈先輩ですね」


「出ないから」


「分かりませんよ」


「出ないから」


「二回言いましたね」


 ひよりは顔を赤くした。


 その直後、係の生徒が一年生の次の組を呼んだ。


「一年女子、次の組、並んでください」


「あ、私です」


 千瀬が手を上げる。


「千瀬ちゃんも出るの?」


「出ます。借り人競走です」


「えっ」


「何が出るか楽しみです」


 ひよりは嫌な予感がした。


 数分後。


 千瀬は紙を拾った。


 そして、その場で固まった。


『最近助けてもらった人』


 千瀬は、ゆっくり顔を上げた。


 視線の先には、ひよりがいた。


 ひよりは、目が合った瞬間に固まった。


 千瀬は全力で走ってきた。


「ひよりちゃん!」


「え、私?」


「最近助けてもらった人!」


「私、助けた?」


「恋の相談で助けました!」


「それ、助けたの千瀬ちゃんじゃない?」


「細かいことはいいです!」


「細かくないよ!」


 千瀬はひよりの手を取った。


「行きます!」


「待って、私、走るの遅い」


「大丈夫です。弱火で走ります!」


「それ、真白さんのやつ!」


 二人はそのまま走り出した。


 速くはない。

 けれど、なぜか楽しそうだった。


 ゴール付近で審判が紙を見る。


「最近助けてもらった人。はい、オッケーです」


「助けた覚えがあんまりないんだけど」


 ひよりが息を整えながら言う。


 千瀬は胸を張った。


「ひよりちゃんが相談してくれたから、私も誰かを応援したいって思えたんです」


「それ、私が助けたことになるの?」


「なります」


「そうかな」


「なります」


 千瀬は強く言い切った。


 ひよりは少しだけ困った顔をして、それから小さく笑った。


「じゃあ、よかった」


「はい」


 そのやり取りを、少し離れたところで真白が見ていた。


 千瀬が笑っている。

 ひよりも、少し笑っている。


 それを見て、真白の胸の奥が少しだけ温かくなった。


 怖い。

 けれど、嫌ではない。


 弱火。


 その言葉を、真白は心の中でそっと繰り返した。


 ■二年A組テント。


 借り人競走が終わると、真白はA組のテントへ戻ってきた。


 彩音がすぐに声をかける。


「北条さん、巴を連れてくるとは思わなかったわ」


「お題が、尊敬している人でしたので」


「恒一じゃなかったんだ」


 彩音が少しだけ面白そうに言う。


 真白は真面目に頷いた。


「恒一様も尊敬しています」


「うん」


「ですが、巴さんの走りがとても綺麗でした」


「なるほど」


「それに、強い人です」


「うん。強いわね」


 彩音は少しだけ笑った。


「北条さん、巴のこと好き?」


 真白は少しだけ考えた。


「好き、という言葉でよいのか分かりません」


「うん」


「ですが、見てしまいます」


「それはもう、けっこう好き寄りね」


「そうなのですか」


「たぶんね」


 真白は少しだけ困った顔をした。


 その横で基樹が、恒一の方をちらりと見る。


 恒一は真面目に競技進行を見ていた。


「恒一」


「何だ」


「北条さん、真田さんを尊敬してるって」


「そうか」


「反応薄いな」


「真田の走りは綺麗だからな」


「そこは即答なんだな」


「事実だ」


「お前、本当に今日は敵だって分かってる?」


「分かっている」


「怪しい」


 基樹は疑わしそうに見る。


 恒一は少しだけ首を傾げた。


「真田がすごいことと、俺が勝とうとすることは別だろ」


「まあ、そうなんだけど」


「強い相手を尊敬するのは普通だ」


「そこだけ聞くとまともなんだけどな」


 基樹はため息をついた。


 午前の競技は、まだ終わっていない。


 午後には、クラス対抗リレーが待っている。


 部活動対抗リレーもある。

 恒一も走る。

 巴も走る。


 そして、おそらく佐藤はどこかで胃をまた痛めている。


 蒼ヶ崎市立東雲高校の体育祭は、まだ前半だった。それなのに、すでにいくつもの感情が、グラウンドの上を走り始めていた。

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