第176話 借り人競走は危険です
体育祭当日。
蒼ヶ崎市立東雲高校のグラウンドは、朝からいつもと違う空気に包まれていた。
白線の引かれたトラック。
クラスごとに並ぶテント。
団ごとに分かれた旗。
放送席では、体育委員がマイクの確認をしている。
体操服の上からクラスTシャツを着た生徒たちは、競技表を見たり、応援用のタオルを首にかけたり、すでに落ち着かない様子だった。
そして、落ち着かないというより、すでに疲れている者もいた。
佐藤忠一である。
「佐藤、大丈夫か?」
朝比奈恒一が声をかける。
「大丈夫ではある」
「ではある?」
「本番が始まる前から、すでに忙しい」
「体育祭だからな」
「その一言で全てを片づけるな!」
佐藤は競技進行表を見ながら、胃のあたりを押さえた。
陸上部は、体育祭当日も仕事が多い。
招集の手伝い。
リレーのバトン確認。
部活動対抗リレーの走順確認。
競技に出るだけで終わらない。
「朝比奈、お前はこのあと何だ?」
「午前は借り人競走の招集補助。午後はクラス対抗リレーと部活動対抗リレーだ」
「多いな」
「そうか?」
「多いんだよ」
佐藤は深く息を吐いた。
恒一は競技進行表を見て、ふと顔を上げる。
「そういえば、佐藤」
「何だ」
「今日はお前も敵だな」
恒一が真面目な顔で言うと、佐藤は一瞬だけ黙った。
「朝比奈」
「ああ」
「お前はいつも俺の胃腸の敵だ」
「胃腸」
「そうだ。味方だったことはない。いつも俺をやきもきさせて、いつも振り回して、いつも胃を痛くさせる」
「それは悪かった」
「謝るなら、少しは自覚してくれ」
「自覚はしているつもりだ」
「そのつもりが一番怖いんだよ」
佐藤は疲れた顔で言った。
恒一は少し考えたが、よく分からなかった。
そこへ、二年B組の真田巴が通りかかった。体操服の上にB組のクラスTシャツを着ている。
シンプルな服装なのに、彼女が着ると妙に様になる。背筋が伸び、歩き方に無駄がない。
「朝比奈」
「真田」
「今日は敵ね」
「ああ。負けないように走る」
「私も」
巴は短く返した。
その声はいつも通りだったが、どこか楽しそうでもあった。 佐藤は、その二人を見て小さくつぶやく。
「爽やかなはずなのに、胃が痛い」
「佐藤?」
「何でもない」
巴は少しだけ笑って、自分のクラスのテントへ戻っていった。
すぐ横で、基樹がじっと恒一を見る。
「恒一」
「何だ」
「今日は敵だからな」
「分かっている」
「真田さんが走っても、見惚れる前に勝つことを考えろよ」
「見惚れない」
「昨日、見惚れてた」
「観察していた」
「それ、今日は禁止な」
基樹はそう言って、恒一の肩を軽く叩いた。
「今日だけは、真面目にやれ」
「真面目にやる」
「その真面目の方向を間違えるな」
「難しいな」
「難しくない」
基樹は呆れた顔をした。
■午前競技。
開会式と準備体操が終わると、競技は順番に進んでいった。
短距離走。
大縄跳び。
綱引き。
障害物競走。
グラウンドは少しずつ熱を帯びていく。
二年A組では、北条真白も大縄跳びに出た。最初は縄に入るタイミングを迷っていたが、彩音に背中を軽く押され、何とか合わせることができた。
「北条さん、真剣すぎ」
彩音が笑う。
「失敗すると全員で『あー』となると聞きましたので」
「確かになるけど」
「それは避けたいです」
「かわいい理由ね」
真白は少しだけ困った顔をした。体育祭の熱気は、真白にとって少し不思議だった。
騒がしくて、慌ただしくて、何もかもが予定通りには進まない。けれど、嫌ではなかった。
■借り人競走。
午前の終盤。
借り人競走の招集が始まった。
真白は二年A組の女子枠で出ることになっていた。本人はそこまで乗り気ではなかったが、欠員が出たことで名前が入ってしまった。
それでも、断らなかった。
恒一は招集補助として、スタート付近に立っている。
「北条さん」
「はい」
「無理に急がなくていい。紙を見てから、落ち着いて探せばいい」
「分かりました」
「転ばないように」
「はい」
「人を連れて戻る時は、相手の速度も考えて」
「はい」
真白は真面目に頷いた。
それを聞いていた基樹が横から言う。
「恒一」
「何だ」
「借り人競走の説明まで部活っぽい」
「走る競技だからな」
「体育祭だぞ」
「体育祭でも走るだろ」
「そうだけど」
基樹はため息をついた。
真白は、そのやり取りを見て少しだけ表情を緩める。緊張が、少し薄れた。
やがて、笛が鳴った。
真白たちが走り出す。
真白の走りは速いわけではない。
けれど、姿勢は綺麗だった。
小柄な体が、真っ直ぐ前へ進む。
途中で紙を拾い、開く。
真白は、そこに書かれた文字を見て止まった。
『尊敬している人』
恒一様。
その名前が浮かばなかったわけではない。
けれど、真白の目は別の場所へ向かった。
二年B組のテント。
そこにいる、真田巴。
昨日見た走り。
強く、美しく、真っ直ぐな人。
真白は紙を握りしめ、そちらへ向かった。
「巴さん」
呼ばれた巴が、少し驚いた顔をする。
「北条さん?」
「来ていただけますか」
「私?」
「はい」
真白は紙を見せた。
巴はそこに書かれた文字を見る。
『尊敬している人』
巴は、一瞬だけ目を丸くした。
「私でいいの?」
「はい」
真白はまっすぐ言った。
「巴さんがいいです」
周囲の女子たちがざわつく。
「巴様が尊敬している人で呼ばれた」
「分かる」
「分かるけど、北条さんが呼ぶの、何かいい」
巴は少しだけ照れたように目を逸らした。
「分かった。行くわ」
「ありがとうございます」
「走れる?」
「速くはありません」
「じゃあ、合わせる」
巴はそう言って、真白の隣に並んだ。
二人でゴールへ向かう。
巴は真白より少し遅めに走った。
真白が遅れないように、自然に歩幅を合わせる。それでも、姿勢は崩れない。
真白は、その横顔を少しだけ見上げた。
やはり、綺麗な人だと思った。
ゴールに着くと、審判の生徒が紙を確認する。
「尊敬している人。はい、オッケーです」
小さな拍手が起きた。
真白は息を整えながら、巴へ頭を下げる。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。でも、驚いた。朝比奈を呼ぶと思った」
真白は少しだけ目を伏せた。
「恒一様も、尊敬しています」
「うん」
「でも、昨日、巴さんの走る姿を見て、とても綺麗だと思いました」
「……そう」
「強いものが、そのまま美しく見えるようでした」
巴は、少しだけ頬を赤くした。
「そういうことを、真顔で言うのね」
「失礼でしたか?」
「違う。少し、照れただけ」
真白は瞬きをする。
「巴さんも照れるのですね」
「照れるわよ」
巴は少しだけむっとした。
その様子を見て、真白はほんの少しだけ笑った。
■一年生待機列。
「真白さん、巴姉を連れていきましたね」
前田千瀬が興奮したように言った。
隣にいた白石ひよりは、小さく頷く。
「うん」
「尊敬している人、ですって」
「うん」
「分かります。巴姉、尊敬される側です」
「そうだね」
ひよりは、少し遠くを見る。
巴は本当に目立つ。走っても、立っていても、誰かの視線を集める。それは少し怖くて、少し羨ましい。
でも、ひよりの視線は、やはり別の場所へ向かってしまう。
スタート付近。
招集補助をしている朝比奈恒一。
派手ではない。
大きく目立つわけでもない。
けれど、気づくと見てしまう。
「ひよりちゃん?」
千瀬が顔を覗き込む。
「え」
「今、朝比奈先輩見てました?」
「み、見てない」
「見てました」
「見てないよ」
「見てました」
千瀬はにやっと笑う。
「もし借り人競走で『最近助けてもらった人』が出たら、ひよりちゃんは朝比奈先輩ですね」
「出ないから」
「分かりませんよ」
「出ないから」
「二回言いましたね」
ひよりは顔を赤くした。
その直後、係の生徒が一年生の次の組を呼んだ。
「一年女子、次の組、並んでください」
「あ、私です」
千瀬が手を上げる。
「千瀬ちゃんも出るの?」
「出ます。借り人競走です」
「えっ」
「何が出るか楽しみです」
ひよりは嫌な予感がした。
数分後。
千瀬は紙を拾った。
そして、その場で固まった。
『最近助けてもらった人』
千瀬は、ゆっくり顔を上げた。
視線の先には、ひよりがいた。
ひよりは、目が合った瞬間に固まった。
千瀬は全力で走ってきた。
「ひよりちゃん!」
「え、私?」
「最近助けてもらった人!」
「私、助けた?」
「恋の相談で助けました!」
「それ、助けたの千瀬ちゃんじゃない?」
「細かいことはいいです!」
「細かくないよ!」
千瀬はひよりの手を取った。
「行きます!」
「待って、私、走るの遅い」
「大丈夫です。弱火で走ります!」
「それ、真白さんのやつ!」
二人はそのまま走り出した。
速くはない。
けれど、なぜか楽しそうだった。
ゴール付近で審判が紙を見る。
「最近助けてもらった人。はい、オッケーです」
「助けた覚えがあんまりないんだけど」
ひよりが息を整えながら言う。
千瀬は胸を張った。
「ひよりちゃんが相談してくれたから、私も誰かを応援したいって思えたんです」
「それ、私が助けたことになるの?」
「なります」
「そうかな」
「なります」
千瀬は強く言い切った。
ひよりは少しだけ困った顔をして、それから小さく笑った。
「じゃあ、よかった」
「はい」
そのやり取りを、少し離れたところで真白が見ていた。
千瀬が笑っている。
ひよりも、少し笑っている。
それを見て、真白の胸の奥が少しだけ温かくなった。
怖い。
けれど、嫌ではない。
弱火。
その言葉を、真白は心の中でそっと繰り返した。
■二年A組テント。
借り人競走が終わると、真白はA組のテントへ戻ってきた。
彩音がすぐに声をかける。
「北条さん、巴を連れてくるとは思わなかったわ」
「お題が、尊敬している人でしたので」
「恒一じゃなかったんだ」
彩音が少しだけ面白そうに言う。
真白は真面目に頷いた。
「恒一様も尊敬しています」
「うん」
「ですが、巴さんの走りがとても綺麗でした」
「なるほど」
「それに、強い人です」
「うん。強いわね」
彩音は少しだけ笑った。
「北条さん、巴のこと好き?」
真白は少しだけ考えた。
「好き、という言葉でよいのか分かりません」
「うん」
「ですが、見てしまいます」
「それはもう、けっこう好き寄りね」
「そうなのですか」
「たぶんね」
真白は少しだけ困った顔をした。
その横で基樹が、恒一の方をちらりと見る。
恒一は真面目に競技進行を見ていた。
「恒一」
「何だ」
「北条さん、真田さんを尊敬してるって」
「そうか」
「反応薄いな」
「真田の走りは綺麗だからな」
「そこは即答なんだな」
「事実だ」
「お前、本当に今日は敵だって分かってる?」
「分かっている」
「怪しい」
基樹は疑わしそうに見る。
恒一は少しだけ首を傾げた。
「真田がすごいことと、俺が勝とうとすることは別だろ」
「まあ、そうなんだけど」
「強い相手を尊敬するのは普通だ」
「そこだけ聞くとまともなんだけどな」
基樹はため息をついた。
午前の競技は、まだ終わっていない。
午後には、クラス対抗リレーが待っている。
部活動対抗リレーもある。
恒一も走る。
巴も走る。
そして、おそらく佐藤はどこかで胃をまた痛めている。
蒼ヶ崎市立東雲高校の体育祭は、まだ前半だった。それなのに、すでにいくつもの感情が、グラウンドの上を走り始めていた。




