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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第175話 走る人を見る日

 放課後。


 体育祭の準備期間に入ってから、グラウンドには部活動以外の生徒も増えていた。


 大縄の掛け声。


 リレーの走順を相談する声。

 応援合戦の動きを確認する声。


 いつもの放課後より、少しだけ浮ついている。


 今日は、二年A組と二年B組のリレー練習が同じ時間帯に入っていた。


 陸上部員は補助として何人か出ているが、全員を細かく見られるわけではない。


 佐藤忠一は二年D組である。


 だから本来、A組にもB組にも肩入れする理由はなかった。


 ただ、陸上部の補助として競技進行表を持っている以上、何かあれば動かなければならない。


 そして何より。


 A組には朝比奈恒一がいる。


 B組には真田巴がいる。


 その二人が同じ時間帯に練習している。 その事実だけで、佐藤の胃は少し重かった。


「佐藤、大丈夫か?」


 たまたま近くを通った恒一が声をかけた。


「大丈夫ではある」


「ではある?」


「A組とB組が同時に練習している時点で、すでに大丈夫じゃない」


「そうなのか」


「そうなんだよ。陸上部だからって、全部を細かく見られるわけじゃない」


「俺も補助に入る」


「それは分かってる。分かってるが、お前は自分のクラスでも走者なんだから、勝手に仕事を増やすな」


「分かった」


「お前の、その分かったが信用できない」


 佐藤は競技進行表を握り直しながら、胃のあたりを押さえた。


 恒一は不思議そうに首を傾げている。

 その顔に悪気はない。


 だからこそ、余計に胃に悪かった。


 ■二年A組。


 リレー候補の生徒たちが、トラックの端に集まっていた。


 恒一はその前に立つ。


 陸上部の練習なら慣れている。


 けれど、クラスメイト相手に説明するのは少し違った。相手は競技者ではない。


 体育祭のために走る生徒たちだ。

 それでも、頼まれた以上はやる。


 それが恒一だった。


「まず、スタートだけ確認する」


 恒一は静かに言った。


「無理に前へ飛び出そうとしなくていい。最初の一歩で上体が浮くと、逆に遅れる」


「恒一、説明が部活」


 横から基樹が言った。


「リレーだからな」


「体育祭だぞ」


「体育祭でも走ることに変わりはない」


「それはそうだけど」


 基樹は呆れながらも、少しだけ笑っていた。


 恒一は、自分で軽く姿勢を見せる。


 構える。

 前を見る。


 大きく見せるような動きはない。

 けれど、無駄がなかった。

 ほんの数歩、軽く走る。


 それだけで、見ていた生徒たちが少し黙った。


「……朝比奈って、やっぱり走ると違うな」


 誰かが小さく言った。


 恒一には聞こえていない。


 けれど、その空気は分かる。


 少し離れたところで見ていた佐藤は、それだけでまた胃のあたりを押さえた。


「恒一」


 基樹が横から声をかける。


「何だ」


「今日はA組の練習だぞ」


「ああ」


「真田さんが走っても、見惚れるなよ」


「見惚れない」


「昨日、見惚れてた」


「観察していた」


「その観察、今日は禁止」


「なぜだ」


「今回は敵だからだよ」


 基樹は、恒一の肩を軽く叩いた。


「真面目にやれ」


「真面目にやる」


「その真面目の方向を間違えるな」


「難しいな」


「難しくない」


 基樹は深くため息をついた。


 その様子を、同じA組の北条真白が少し離れた場所から見ていた。


 真白も練習に参加していた。

 体操服姿の真白は、小柄で華奢に見える。


 髪は動きやすいようにまとめられ、体操服になってもどこか丁寧で、きちんとしていた。


 昨日は、真田巴の走りを見た。


 強く、美しく、迷いのない走りだった。

 強いものが、そのまま美しく見える。


 そんな走りだった。


 そして今日は、朝比奈恒一が走ろうとしている。真白は、自然と視線を向けていた。


「北条さん」


 隣にいた彩音が、小さく声をかける。


「はい」


「見てるわね」


「……はい」


「昨日は真田さんで、今日は恒一?」


「そういう言い方をされると、少し困ります」


「でも、見てる」


「はい」


「正直ね」


「はい」


 真白は誤魔化さなかった。

 誤魔化せなかった。


 彩音は面白そうに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。


 ■二年B組側。


 少し離れた場所では、二年B組もリレーの確認をしていた。


 巴も、気づけば恒一を見ていた。


 自分のクラスの練習を見なければならない。それは分かっている。


 分かっているのに、A組側の動きが気になってしまう。


 昨日、恒一は自分の走りを見ていた。

 基樹に叩かれていた。


 今回は敵だからな、と言われていた。そのことを思い出すと、少しだけ胸が温かくなる。


 けれど今日は、逆だった。

 自分が、恒一を見る側になっている。


「巴様、A組見てる?」


「朝比奈君?」


「やっぱり気になるんだ」


 近くの女子が小声で言う。


 巴は聞こえないふりをした。


 ただ、少しだけ耳が熱かった。


 恒一は、特別大柄なわけではない。

 それでも、走り出すと目を引く。


 真面目に何かを教えている時も、周囲が自然と耳を傾ける。秋、陸上部の部長になったことで、これからもっとそうなるのかもしれない。


 真白はともかく。


 それ以外の女子が、恒一の走る姿を見て、何かを思ってしまったら。そこまで考えて、巴は少しだけ眉を寄せた。


 体育祭は、思っていたより厄介かもしれない。


 ■リレー練習。


「恒一、次はお前も一本走れよ」


 基樹が言った。


「俺もか?」


「見本があった方が早いだろ」


「分かった」


「分かったが早い」


「必要なんだろ」


「必要だけど、少しは自分の負担を疑え」


 基樹は呆れた顔をした。


 少し離れた場所で、佐藤がそれを聞いていた。


「……あいつ、どこでも仕事増やすな」


 小さく呟いて、また胃のあたりを押さえる。


 恒一はスタート位置に立った。

 構えると、空気が変わる。


 何かを飾るわけではない。

 ただ、走るために必要なものだけが残る。


「行くぞ」


 基樹の声。


 恒一が走り出した。


 速い。


 だが、それだけではなかった。


 無理に目立つ走りではない。

 大きく見せようともしない。


 ただ、真っ直ぐだった。


 前へ進むことだけに余計なものがない。

 巴は、ほんの少しだけ唇を引き結んだ。


 やっぱり、見てしまう。


 自分だけではない。

 周りも、見ている。


 今はまだ練習だ。

 それでも、見てしまう。


 本番になれば、もっと多くの人が見る。

 それが少し誇らしくて、少し嫌だった。


 真白は、静かに息を呑んだ。


 巴の走りは、強いものが美しく見える走りだった。


 恒一の走りは、少し違う。不器用で、真面目で、ただ前だけを見ている。


 それなのに、目を離せない。


「北条さん」


 彩音が横から小さく言った。


「また見てる」


「……はい」


「正直ね」


「はい」


 真白は、やはり誤魔化さなかった。


 恒一が走り終える。

 ほんの短い距離だった。


 それでも、グラウンドの空気が少しだけ残っていた。


 基樹が小さくつぶやく。


「昨日は敵の真田さんに見惚れて、今日は自分が普通に見られてるし」


「何か問題があるのか?」


「問題しかない」


「そうか」


「そうかじゃない」


 基樹は呆れたように言ったが、恒一はやはり分かっていなかった。自分が見ている時と、自分が見られている時で、何が違うのか。


 たぶん、本人だけが分かっていない。


 少し離れた場所で、真白はまだ恒一の走ったレーンを見ていた。


 さらに向こうで、巴も同じように視線を戻せずにいた。


 同じ走りを見ているのに、胸に残ったものは少しずつ違う。


 真白には、まっすぐすぎる光のように見えた。


 巴には、誰かに見つかってしまいそうな危うさに見えた。


 そして恒一本人だけが、いつも通り首を傾げている。


「体育祭って、難しいな」


「難しくしてるのは恒一だよ」


 基樹が即座に返した。


 その少し向こうで、佐藤は競技進行表を握り直していた。


 A組にも、B組にも肩入れする気はない。ただ、陸上部の補助として見ているだけだ。見ているだけのはずだった。


 それなのに、朝比奈恒一が走るだけで、真田巴がそれを見るだけで、周囲の空気が少しずつ動いていく。


 佐藤は、深く息を吐いた。

 本番になったらどうなるのか。


 その答えを、今は考えないことにした。

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