第174話 今回は敵です
蒼ヶ崎市立東雲高校の体育祭は、毎年それなりに盛り上がる。
基本はクラス対抗。
ただし競技によっては、学年対抗や団対抗も混ざる。
短距離走、クラス対抗リレー、部活動対抗リレー、障害物競走、借り人競走、綱引き、大縄跳び、応援合戦。
それに加えて、クラスTシャツ作り、応援グッズ作り、体育委員や生徒会による運営準備、用具係、記録係、招集係。
つまり、走るだけでは終わらない。本番までの準備期間から、すでに体育祭は始まっている。
そして、蒼ヶ崎市立東雲高校の生徒たちは、その準備期間で少しずつ浮かれ始める。
例外もいる。
たとえば、佐藤忠一である。
■二年A組。
「体育祭の競技決めを始めます」
ホームルームの時間。
担任の言葉に、教室が少しだけざわついた。
朝比奈恒一は、配られた競技一覧を見ていた。
百メートル走。
二百メートル走。
クラス対抗リレー。
大縄跳び。
綱引き。
障害物競走。
借り人競走。
部活動対抗リレー。
応援合戦。
高校の体育祭としては、かなり普通だ。ただし、普通だから楽とは限らない。
「朝比奈」
隣から基樹が声をかけてきた。
「何だ」
「お前、リレー出るだろ」
「出ると思う」
「思うじゃなくて、出されるだろ」
「そうか」
「そうかじゃないんだよ」
基樹は呆れた顔をした。
恒一には、自分が体育祭でどう扱われるかという感覚が少し薄い。
陸上部の新部長。
足が速い。
真面目。
頼めば断らない。
体育祭において、これほど便利な生徒もなかなかいない。
「朝比奈君、クラス対抗リレーお願いしていい?」
案の定、体育委員の女子がすぐに声をかけてきた。
「分かった」
「即答!」
基樹が横で言う。
「リレーなら走れる」
「いや、そういう話ではあるけど、そういう話だけじゃない」
「そうなのか?」
「そうなんだよ」
恒一は少し考えた。
「じゃあ、何を確認すればいい?」
「出るのはいいけど、他の競技もあるだろ。全部引き受けるなって話」
「全部は出られない」
「そういう物理の話じゃない」
基樹が頭を抱えた。
前の席で彩音がくすっと笑う。
「恒一らしいわね」
「彩音、笑ってる場合じゃないぞ」
「面白いから」
「面白いで済ませるな」
彩音は競技一覧を眺めながら、さらっと言った。
「でも、恒一がリレーに入るのは自然でしょ」
「それはそうだけど」
「問題は、そこからどれだけ仕事を増やされるかね」
「怖いことを言うな」
基樹が顔をしかめた。
その少し後ろで、北条真白は配られた紙を丁寧に見ていた。
白いブラウスの襟はきちんと整っている。制服のリボンも乱れがなく、座っている姿勢まで静かだった。
そのせいか、同じ競技一覧を持っているだけなのに、真白だけ何かの申込書を正式に確認しているように見えた。
「北条さんは、何か出たい競技ある?」
彩音が振り返って聞く。
真白は少しだけ目を瞬かせた。
「私ですか」
「うん。体育祭、初めてみたいなものなんでしょ」
「そうですね。こういう形の行事は、あまり慣れていません」
「じゃあ、無理しない競技がいいかもね」
「無理しない競技」
真白は紙に視線を落とした。
「借り人競走、というものは何をするのですか?」
その瞬間、基樹と彩音の目が少しだけ鋭くなった。恒一は普通に答えた。
「紙に書かれた条件に合う人を連れて走る競技だったと思う」
「条件」
「眼鏡をかけている人、とか。先生、とか」
「なるほど」
「場合によっては、少し面倒な条件もある」
「面倒な条件ですか」
真白が首を傾げる。
彩音が笑顔で言った。
「最近助けてもらった人、とかね」
「それは、面倒なのですか」
「人によるわ」
「人による」
真白は真面目に頷いた。
基樹は小さくつぶやく。
「この学校、絶対変な紙入れるやついるからな」
「好きな人、とかはさすがにないだろ」
恒一が言うと、彩音が即座に返した。
「先生が止めるわね」
「そうか」
「でも、尊敬している人、頼りになる人、大切な友人、くらいはありそう」
「それは普通だな」
「恒一にとってはね」
彩音は楽しそうに言った。
真白は、そのやり取りを聞きながら、少しだけ競技一覧を見つめた。
体育祭。
クラスで競技を決め、練習し、本番で走る。全員が同じ場所に集まり、誰かを応援する。
真白にとっては、少し不思議な行事だった。
けれど、教室の空気は明るかった。重い話ばかり続いていた胸の奥に、少しだけ別の風が入る。
そういう気がした。
「北条さんは、綱引きとか大縄でもいいかもね」
彩音が言った。
「大縄」
「クラス全員で跳ぶやつ」
「全員で」
「うん。失敗すると全員で『あー』ってなる」
「それは、少し怖いですね」
「でも楽しいわよ」
真白は少しだけ迷ったあと、小さく頷いた。
「では、大縄にしてみます」
「いいと思う」
彩音が頷いた。
恒一も言った。
「大縄はリズムが大事だから、慣れれば大丈夫だと思う」
「はい」
真白は丁寧に返事をした。
基樹は横で、なぜか少し遠い目をしている。
「体育祭って、平和なはずなんだけどな」
「平和だろ」
「お前がいると、たぶん平和じゃなくなる」
「なぜだ」
「それが分からないところだよ」
■放課後 陸上部。
体育祭の話は、陸上部にも当然のように回ってきた。
グラウンドの隅で、佐藤忠一は一枚のプリントを見て固まっていた。
「佐藤、どうした」
恒一が声をかける。
佐藤はゆっくり顔を上げた。
「朝比奈」
「ああ?」
「体育委員から連絡が来た」
「体育祭の?」
「そうだ」
佐藤はプリントを見せた。
体育祭前の放課後、希望クラスには陸上部員がスタートやバトンパスの確認を行う。安全管理のため、陸上部から数名が補助に入る。さらに、部活動対抗リレーの出場調整も陸上部で確認する。
佐藤の顔色は、すでに少し悪かった。
「なるほど」
恒一は頷いた。
「やるか」
「軽いな」
「必要ならやる」
「必要だから困ってるんだよ」
「必要なら、やるしかないだろ」
「そういうところだぞ、朝比奈」
佐藤は胃のあたりを押さえた。
「これ、俺たちの通常練習とは別だぞ」
「ああ」
「クラス練習の補助だぞ」
「ああ」
「部活動対抗リレーの調整もあるぞ」
「ああ」
「つまり、仕事が増える」
「そうだな」
「そこで納得するな」
佐藤は深く息を吐いた。
「先輩たちが引退して、俺たちが中心になる時期に、なんで体育祭が来るんだ」
「毎年この時期だからじゃないか」
「正論が痛い」
恒一はプリントをもう一度見た。
「俺はリレー練習の補助に入る。スタートとバトンなら見られる」
「だろうな」
「佐藤は調整を見てくれるか」
「俺が?」
「ああ。副部長だから」
「そういう言い方で仕事を増やすな」
佐藤はまた胃を押さえた。
そこへ、少し離れたところから真田巴が歩いてきた。
ジャージ姿だった。
袖を軽く上げ、髪をまとめている。
それだけで、周囲の空気が少し締まる。
「何の話?」
巴が聞く。
佐藤はプリントを差し出した。
「体育祭のリレー練習補助です」
「陸上部に?」
「はい」
「まあ、来るわよね」
巴はあっさり言った。
佐藤は少しだけ恨めしそうに見る。
「真田さんは落ち着いてますね」
「来るものは来るから」
「その達観、少し分けてほしいです」
「佐藤なら大丈夫でしょ」
「その信頼が重いんです」
巴は小さく笑った。
その笑みは少しだけ柔らかかった。
恒一はプリントを見ながら言う。
「真田は競技、何に出るんだ?」
「まだ決まってない。でも、リレーは出されると思う」
「そうか」
「朝比奈もでしょ」
「ああ」
「なら、初めてお前と対戦できるのね」
巴は、少しだけ楽しそうに言った。
恒一はその言葉を聞いて、顔を上げる。
「対戦?」
「クラスが違うから。陸上部では一緒に練習しているけど、体育祭だと別のクラスの相手になるでしょ」
「そうだな」
「同じクラスじゃないのは、少し残念」
それは、本音だった。
同じクラスなら、体育祭の練習中も、恒一の走る姿を何度も見られたかもしれない。
クラスの中で、少し戸惑いながらも中心に立とうとしている恒一を、もっと近くで見られたかもしれない。
陸上部の部長として、周囲に説明をする恒一。
頼まれて、困りながらも引き受ける恒一。
真面目な顔でバトンの受け渡しを確認する恒一。
そういう姿を、近くで見られないことは、少し寂しかった。けれど、巴はすぐに口元を少しだけ緩める。
「でも、すごく楽しみでもある」
「俺と走るのがか?」
「そう」
巴はまっすぐ言った。
「お前と同じ側で走るのも悪くないけど、相手として走るのも楽しそうだから」
恒一は少しだけ考えた。
巴と同じ陸上部として練習することはある。けれど、体育祭ではクラスが違う。同じ部の仲間ではなく、別のクラスの走者として向き合う。
そう考えると、少し胸が熱くなった。
「俺も楽しみだ」
「そう」
「ああ。負けないように走る」
「私も」
二人の間に、まっすぐな空気が流れた。
それは恋愛というより、競技者同士の約束に近かった。ただ、その空気を見ていた佐藤忠一は、なぜか胃のあたりを押さえた。
「……爽やかなはずなのに、なぜか胃が痛い」
「佐藤、大丈夫か?」
「大丈夫ではある」
「ではある?」
「朝比奈、お前は今、自分が体育祭でどういう立ち位置になっているか分かっているか」
「リレーに出る」
「それだけじゃない」
佐藤はプリントを指で叩いた。
「陸上部の部長で、クラス対抗リレーにも出る。しかも、クラスの連中からは練習も見てほしいと言われている」
「言われたな」
「つまり、お前は自分のクラスでも中心に回され始めている」
「中心」
恒一は少しだけ眉を寄せた。
その言葉には、まだ慣れていなかった。
陸上部の部長として動くことは、少しずつ受け入れている。けれど、クラスの体育祭準備まで自分が中心になるという感覚は、まだ薄かった。
「俺でいいのか?」
「そういうところだぞ」
「何がだ」
「そう聞くところだ」
佐藤はため息をついた。
「まあ、周りが頼みたくなるのは分かる。お前は真面目だし、走れるし、断らないし、変に手を抜かない」
「手は抜かない」
「だから仕事が増える」
「なるほど」
「納得するな」
恒一はプリントを見た。
リレー練習補助。
クラスの走順相談。
バトンパス確認。
陸上部の練習。
部活動対抗リレー。
確かに、やることは多い。
多いが、できることならやった方がいいと思った。
「慣れてはいないけど」
恒一は言った。
「頼まれたなら、できるだけやる」
「そう言うと思った」
「無理なら言う」
「それは本当に言え」
「ああ」
巴は、そんな恒一を見ていた。
少しだけ、目元が柔らかくなる。
「朝比奈らしいわね」
「そうか?」
「うん。少し不器用だけど」
「不器用なのか」
「そこも含めて」
巴は短くそう言った。
恒一はよく分かっていない顔をした。
佐藤は、また胃のあたりを押さえた。
「体育祭、始まる前から忙しいな」
「まだ始まってないぞ」
「だから怖いんだよ」
■グラウンド。
その日の練習後、体育祭用に少しだけスタート練習を確認することになった。
本格的な練習ではない。
各自の感覚を見る程度だった。
恒一は一年生にスタートの姿勢を教えていた。
少し離れたところで、ひよりもそれを見ている。
見ているだけ。
それだけのつもりだった。
けれど、朝比奈先輩が走る話になると、どうしても視線がそちらへ向いてしまう。
「白石」
「はいっ」
呼ばれて、ひよりは少し変な声を出した。
恒一は気にしていない。
「体育祭の補欠、まだ変わってないか?」
「はい。たぶん、リレーの補欠です」
「なら、また入りの確認をしておこう」
「はい」
ひよりは頷いた。
心の靴紐。
前に自分で言ってしまった変な言葉を思い出し、少しだけ顔が熱くなる。
その向こうで、巴が軽く走り出した。
全力ではない。
ただの流しだった。
けれど、グラウンドの空気が一瞬、変わったように見えた。
無駄のない腕の振り。
ぶれない軸。
地面を強く叩くのではなく、軽く押して前へ進む足。
速さより先に、美しさが目に入る。
「……すごいな」
恒一は思わず呟いた。
真田の走りは、綺麗だった。
強くて、速くて、それでいて乱れない。陸上部として見ても、見惚れるものがあった。
恒一はしばらく、巴の背中を見ていた。
次の瞬間、後頭部を軽く叩かれた。
「痛い」
「痛くしてない」
振り返ると、基樹が呆れた顔で立っていた。
「何するんだ」
「こっちの台詞だ」
「俺は何もしていない」
「何もしてないから叩いたんだよ」
「どういうことだ」
基樹はグラウンドの向こうを指さした。
「今回は敵だからな」
「敵?」
「クラス対抗だろ。真田さんは別クラス。お前とは相手側」
「ああ」
「そこで敵の走りに見惚れてどうする」
「見惚れていたわけじゃない」
「じゃあ何してた」
「観察していた」
「言い方変えただけだろ」
基樹はさらに呆れた。
恒一はもう一度、巴の方を見る。
「真田の走りは美しい」
「ほら見惚れてる」
「競技者としてだ」
「それは分かるけど、今回は対戦相手なんだよ」
「対戦相手の動きを見るのは大事だ」
「その目が尊敬に寄りすぎなんだよ」
「尊敬しているからな」
「開き直るな」
基樹はため息をついた。
「朝比奈」
「何だ」
「体育祭はクラス対抗」
「ああ」
「お前は二年A組」
「ああ」
「真田さんは二年B組」
「ああ」
「つまり今回は、真田さんが格好よく走ったら、拍手する前に勝つ方法を考えろ」
「拍手はしていない」
「心の中でしてただろ」
「少しだけ」
「するな」
恒一は少し考えた。
「でも、いい走りだった」
「真面目にやれ」
「真面目に見ていた」
「真面目の方向が違う」
基樹は、もう一度恒一の肩を軽く叩いた。
「お前が真田さんを尊敬してるのは分かった。分かったから、今は自分のクラスのことも考えろ」
「分かっている」
「本当か?」
「ああ。負けないように走る」
「そこだけは信用できるんだけどな」
基樹は小さく息を吐いた。その顔は呆れていたが、少しだけ安心しているようにも見えた。
恒一は巴の走ったレーンを見た。
綺麗な走りだった。
けれど、今回は同じ陸上部の仲間として並ぶだけではない。別のクラスの相手として、競うことになる。
そう考えると、胸の奥が少し熱くなった。
「楽しみだな」
「だから、そういう顔をするな」
「どういう顔だ」
「敵を見て嬉しそうな顔」
「強い相手と走るのは楽しいだろ」
「体育祭でそこまでの競技者になるな」
基樹は頭を抱えた。
恒一は少しだけ首を傾げる。
体育祭は、自分が思っていたより色々難しいらしい。
その様子を、グラウンドの端で真白が見ていた。
自分のクラス練習の確認で外に出ていた真白は、偶然巴の走りを目にしただけだった。
けれど、目が離れなかった。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。
隣にいた千瀬がすぐに反応する。
「真白さん、巴姉見てました?」
「はい」
「正直ですね」
「とても綺麗でしたので」
真白は静かに言った。
「ただ速いだけではないのですね」
「巴姉ですから」
「あの長身で、軸がほとんどぶれません。踏み込みにも迷いがない。力が無駄なく前へ流れているように見えます」
「真白さん、感想が武道っぽいです」
「そうでしょうか」
「はい。でも分かります。巴姉は走っても巴姉です」
千瀬は得意そうに言った。
真白はもう一度、巴の方を見る。
強いものが、そのまま美しく見える。
そんな人なのだと思った。
真白にとって、巴はただの恋敵ではなかった。
恒一の近くにいる人。
強く、美しく、真っ直ぐな人。
そして、自分とは違う形で、誰かを惹きつける人。
真白は、少しだけ胸の奥が苦しくなった。
羨ましいのか。
憧れているのか。
それとも、別の感情なのか。
まだ、よく分からなかった。
「真白さん」
「はい」
「今、一回も真白姉って呼んでません」
「そうですね」
「体育祭前なので、今日は五回に増やす交渉をしようと思っていたんですけど」
「今ですか」
「今ではないです」
「安心しました」
「でも忘れてません」
「……そうですか」
真白は少し困った顔をした。
千瀬はそれを見て、少しだけ笑う。
少し離れたところで、そのやり取りを見ていた佐藤がまた胃のあたりを押さえた。
「佐藤?」
恒一が気づいて声をかける。
「いや」
「大丈夫か?」
「大丈夫ではある」
「ではある?」
「体育祭が始まる前から、いろいろ始まりすぎている気がする」
「リレー練習のことか?」
「半分正解だ」
「さっきもそれを言っていたな」
「言いたくもなる」
佐藤は深く息を吐いた。
グラウンドでは、体育祭の準備が少しずつ始まっていた。
クラスごとの練習。
リレーの選抜。
応援合戦の相談。
大縄の掛け声。
誰かの笑い声。
誰かの視線。
蒼ヶ崎市立東雲高校の体育祭は、まだ始まっていない。けれど、その熱はもう、少しずつ校内に広がり始めていた。
そして佐藤忠一は、まだ本番前だというのに、すでに胃が痛かった。




