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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第173話 大丈夫ではないらしいです

夜 北条家、真白私室


 北条真白は、自室の机の前に座っていた。


 机の上には、開いたままのノートがある。

 けれど、そこに文字はほとんど増えていなかった。


 手元にはシャープペンシル。

 視線はノートではなく、自分の指先に落ちている。


 窓の外には、薄い月明かりがあった。

 静かな夜だった。


 けれど、真白の胸の中だけは、少しも静かではなかった。


 今日、千瀬に呼ばれた。


 真白姉。


 一回目は、涙を拭ったあと。

 二回目は、混ぜ方を尋ねられた時。

 三回目は、朝比奈様と言ってしまった真白を、千瀬が少しだけからかった時。


 一日三回まで。


 弱火で。


 その取り決めは、少しおかしくて、少しだけ優しかった。彼女、千瀬らしいと思った。

 そして、そう思ってしまう自分が怖かった。


 真白姉。


 呼ばれるたびに、胸の奥が温かくなる。


 怖いのに。

 危ないかもしれないのに。

 拒まなければならないかもしれないのに。


 それでも、嫌ではなかった。

 むしろ、嬉しかった。


 真白は、シャープペンシルを握ったまま目を伏せる。


「……大丈夫なのでしょうか?」


 小さく呟く。

 答える者はいない。


 机の上に置いた携帯には、母からの短い連絡が残っていた。


『今日は少し調子がいいです。あなたも無理をしないでね』


 母の体調は、少しずつ良くなっている。


 それも嬉しかった。

 嬉しいことが増えている。


 母の体調がよくなること。

 朝比奈恒一の近くにいられること。


 料理部で居場所ができたこと。

 千瀬がまた話しかけてくれたこと。


 嬉しい。けれど、嬉しいことが増えるほど、真白は怖くなる。


 自分の周りで良いことが起きると、いつかその反動のように何かが失われるのではないかと思ってしまう。


 誰かが近づいてくる。

 誰かが自分を好きだと言う。

 誰かが自分を大切に思ってくれる。


 そのたびに、真白は喜びより先に、失う時のことを考えてしまう。


 千瀬は、どうなるのだろう。このまま真白姉と呼び続けて、本当に大丈夫なのだろうか。


 千瀬が真白を嫌いにならなければならないのなら、今日の弱火は間違いだったのかもしれない。


 でも、昨日のように突き放し続けることも、真白にはもうできなかった。


 真白は椅子から立ち上がった。

 窓の外は、静かな夜だった。


 星も月も、どこか遠い。


 真白は胸元に手を当て、目を閉じた。

 そして、強く願った。


 ■白い場所


 目を開けると、そこは白い場所だった。


 上も下も分からない。

 遠くも近くも曖昧で、ただ白だけが広がっている。


 真白は、その中央に立っていた。


 少し離れたところに、神様がいた。

 相変わらず、姿ははっきりしない。


 人の形にも見えるし、ただの影にも見える。ただ、そこにいることだけは分かる。


「来たか」


「はい」


「顔が硬いな」


「そうでしょうか?」


「うむ。煮詰めた砂糖のような顔をしておる」


 真白は少しだけ眉を寄せた。


「それは、どのような顔でしょうか?」


「甘そうで、放っておくと焦げる顔だ」


「……分かりにくいです」


「料理部に入ったのだろう。分かれ」


「料理部でも、そこまでは習っていません」


 神様は、少しだけ楽しそうだった。


 真白はその軽さに、ほんのわずかだけ息を緩めた。それでも、聞きたいことは変わらない。


「神様」


「千瀬のことか?」


 真白は言葉を止めた。


 神様は、最初から分かっていたようだった。


「……はい」


「大丈夫か、と聞きたいのだろう」

「はい」


 真白は、まっすぐ神様を見る。


「千瀬さんは、このままで大丈夫なのでしょうか?」


 神様は、少しだけ黙った。その沈黙だけで、真白の胸が冷える。


 やがて神様は、あっさりと言った。


「大丈夫ではないな」


 真白の指先が震えた。


「……やはり」


「だが、今すぐ終わるという話でもない」


 神様は続けた。


「そこを間違えるな。お前はすぐに、全部終わりのような顔をする」


「……申し訳ありません」


「謝るな。謝罪で宿罪が薄まるなら、神も楽だった」


「楽をしたいのですか」


「できることならな」


 真白は返事に困った。


 神様は、少しだけ肩をすくめるような気配を見せる。


「千瀬がお前を慕うこと。それだけで、ただちに終わりを呼ぶわけではない」


「そうなのですか」


「言葉で好きと言ったから消えるわけではない。真白姉と呼んだから消えるわけでもない。一日三回だから安全、四回だから危険、という話でもない」


 真白は少しだけ目を伏せた。


「ご存じなのですね」


「三回制のことか?」


「はい」


「神を呼び出すほど悩んでおきながら、呼び名に回数券を導入するとは思わなかった」


「回数券ではありません」


「では何だ」


「弱火です」


 白い場所に、妙な沈黙が落ちた。


 神様はしばらく黙ったあと、ゆっくりと言った。


「……お前たちは、思ったより器用なのか不器用なのか分からんな」


「私にも、まだ分かりません」


「ならば、しばらくは弱火でよい」


 神様は軽く言った。


 真白は、少しだけ驚く。


「よいのですか」


「よい、というより、今のお前にはそれくらいしかできまい」


「……」


「火を消せばよい、というものでもない。消したつもりで、心の奥で炭のように残ることもある」


 その言葉に、真白は黙った。


 昨日、千瀬を突き放した。

 嫌いになってほしいと言った。


 好きでいるのもやめてほしいと言った。

 真白姉と呼ぶのもやめてほしいと言った。


 けれど、心は千瀬から離れていなかった。


 むしろ、泣かせたあともずっと千瀬のことを考えていた。


 遠ざけても、心が向いていれば近い。

 それは、真白にも分かっていた。


「物理的な距離は、あまり意味がないのですね」


「まったく意味がないとは言わぬ。人は会えば揺れるし、触れればさらに揺れる。だが、宿罪が見るのは、距離そのものではない」


「心、ですか」


「そうだ。お前の心がどこへ向いているか。何にすがっているか。何を救いとして握っているか」


 真白は、唇を結んだ。


「では、千瀬さんが私を好きでも、私が千瀬さんを好きにならなければ、大丈夫なのですか」


「おおむね、そうだ」


 神様はあっさり言った。

 真白は少しだけ拍子抜けした。


「おおむね、ですか」


「この世に完全な安全などない。階段でも転ぶ」


「神様が言うと、急に現実的ですね」


「階段は侮れぬ」


「……はい」


 神様は、妙に真面目だった。


 真白は少しだけ困る。けれど、そのおかげで、胸の苦しさが少しだけ薄れた。


「ただし」


 神様の声が、少しだけ静かになる。


「千瀬がお前を好きでいることは、危険の入口ではある」


「入口」


「好かれれば、人の心は揺れる。お前は特にな」


 真白は何も言えなかった。


「千瀬が笑えば、お前は嬉しくなる。千瀬が泣けば、お前は苦しくなる。真白姉と呼ばれれば、胸が温かくなる。お前を好きな千瀬を嫌いになるのは難しいだろう。」


「……はい」


「拒絶しようとしても、拒絶できなくなる。傷つけたくないと思う。守りたいと思う。そばにいてほしいと思う」


 真白の胸が、小さく痛んだ。

 全部、思い当たる。


「危ういのは、千瀬の好意だけではない。その好意を受けて、お前の心が千瀬へ向くことだ」


「私の心が」


「そうだ。千瀬の心がお前へ向き、お前の心も千瀬へ向く。その結びつきが強くなるほど、宿罪は強くなる」


 真白は、ゆっくり目を伏せた。


「では、やはり千瀬さんには、私を嫌ってもらうのが一番安全なのですね」


「そうだな」


 神様は否定しなかった。


「相手が本当にお前を嫌い、お前もその好意にすがらなくなれば、縁は薄くなる。危うさも減る」


「……」


「だが、お前には無理だろう」


 真白は何も言えなかった。


 無理だ。


 昨日、一度やろうとした。

 嫌いになってくださいと言った。


 好きでいないでくださいと言った。

 真白姉と呼ばないでくださいと言った。


 千瀬は泣いた。

 真白も苦しかった。


 その道を続けることは、きっとできない。


「千瀬さんを、傷つけ続けることはできません」


「ならば、その道は使えぬ」


「ですが、近づけても危ない」


「だから、お前が付き合い方を考えるしかない」


 神様の声は、軽くも重くもなかった。

 ただ、当然のことを言うようだった。


「千瀬を拒絶しない。だが、千瀬にすがらない。好意を受け取る。だが、それを救いとして抱え込まない。言葉で切るのではなく、心の重さを調整する」


「火加減のように、ですか」


「そうだ」


 神様はそこで、少しだけ得意そうな気配を出した。


「ほら見ろ。料理部が役に立った」


「神様が言うと、少しだけ不安です」


「なぜだ」


「真面目な話のはずなのに、急に調理実習のようになります」


「分かりやすいだろう」


「否定はしません」


 真白は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 自分でも驚くくらい、小さな笑みだった。


 神様はそれを見ていたのか、少しだけ声を柔らかくした。


「千瀬は、今のところ大丈夫だろう」


 真白は顔を上げた。


「本当ですか」


「お前が今のように悩んでいるうちはな」


「悩んでいるうちは、大丈夫なのですか」


「少なくとも、何も考えずにすがるよりはずっとよい」


「……」


「だが、大丈夫ではない」


「どちらですか」


「どちらもだ」


 神様は、あっさりと言った。


「今すぐ終わるほど危うくはない。だが、放っておいてよいほど安全でもない。千瀬に好かれること自体が終わりではない。だが、好かれ続ければ、お前の心も動き続ける」


「……はい」


「だから、大丈夫ではない、というところだな」


 真白は、少しだけ眉をひそめた。


「では、私は千瀬さんとどう接すればよいのでしょう?」


「節度を持て」


「節度」


「お前たちが言うところの弱火だ。急に火を強くするな。消すな。焦がすな。生焼けにもするな」


「難しいです」


「料理は難しい」


「料理の話ではありません」


「似たようなものだ」


 神様は言い切った。


 真白は少し困ったが、否定しきれなかった。


「一日三回は、節度としては悪くない」

「本当ですか」


「少なくとも、百回よりはよい」

「百回は多すぎます」


「千瀬なら言いかねん」

「……否定できません」


 真白は千瀬の顔を思い出した。


 明日は五回に増やすと言いそうだった。

 いや、実際に言っていた。


 真白は少しだけ頭が痛くなった。


「もし、千瀬さんが五回と言ったら」


「交渉しろ」


「神様は、案外俗っぽいことをおっしゃいますね」


「神も交渉ぐらいする」


「誰とですか」


「いろいろだ」


「いろいろ」


「深く聞くな。神にも事情がある」


 真白は返答に困った。


 神様は、どこか楽しそうだった。


 それから、声を少しだけ低くする。


「ただし、真白」


「はい」


「節度は、千瀬との間だけではない」


 真白は息を止めた。

 神様は、明確な名を出さなかった。


 けれど、真白には分かってしまった。


「今のお前の周りには、少しだけ宿罪を薄め、軽くする流れがある」


「……」


「それを追いすぎるな」


 真白の指先が冷える。


「追いすぎると、どうなるのですか」


「風は握れぬ。握ろうとすれば、乱れる」


「……はい」


「相手の心を、自分の救いのために使おうとすれば、いつか痛い目を見る」


 それだけだった。

 神様は、それ以上言わなかった。


 嫌われる。


 その言葉までは、出さなかった。

 けれど、真白は十分に分かった。


 今はまだ、触りだけ。深く考えるには、真白の心はまだ整っていなかった。


「それは、また別の日に考えます」


「そうしろ。お前は一晩で考えすぎる」


「そうでしょうか」


「顔がまた焦げそうだ」


「……焦げません」


「ならよい」


 神様の言い方が少しおかしくて、真白はほんの少しだけ息を吐いた。


 笑ったというには、あまりにも小さい。

 それでも、少しだけ苦しさが和らいだ。


「神様」


「何だ」


「つまり、千瀬さんは、今のところは大丈夫なのですね」


「お前次第ではな」


「私が、千瀬さんの好意にすがりすぎなければ」


「そうだ」


「千瀬さんを好きになりすぎなければ」


「そうだ。だが、大切にするなとは言っていない。好意を受け取るなとも言っていない。ただ、それを救いとして抱え込むな」


「節度ある付き合い方を、考えます」


「うむ」


「たぶん、難しいです」


「難しいだろうな」


「神様は、そこは否定してくださらないのですね」


「嘘を言っても仕方ない」


「少しは励ましてください」


「今のところは大丈夫だろう」


「それは励ましですか」


「かなり励ました」


「そうなのですか」


 真白は少しだけ首を傾げた。


 神様の言葉を、信用していいのか分からない、けれど、今はそれでよかった。


「戻ります」

「そうか」


「明日も、千瀬さんと話します」

「そうしろ」


「三回は、守ります」

「増えるかもしれぬぞ」


「……五回までは、考えます」


「十回と言われたら?」

「断ります」


「成長したな」


「そこなのですか」


 神様は、少しだけ笑ったような気配を見せた。


「大丈夫ではない。だが、終わったわけでもない」


 その言葉に、真白は静かに頷いた。


「はい」


「怖ければ、また来い」


「よろしいのですか」


「どうせ来るだろう」


「……はい」


「素直でよろしい」


 真白は、少しだけ目を伏せた。


「ありがとうございました」


「焦がすなよ」


「……はい」


 最後の言葉が料理の話なのか、千瀬の話なのか、自分の心の話なのか。


 真白には、もうよく分からなかった。


 ■夜 北条家


 真白は、自室で目を開けた。


 机の上のノートは、まだほとんど白いままだった。


 携帯には、母からの連絡が表示されたままになっている。


『今日は少し調子がいいです。あなたも無理をしないでね』


 真白は、その文章をもう一度読んだ。


 嬉しい。

 怖い。


 どちらも本当だった。


 次に、千瀬の顔を思い出す。


 真白姉。

 あの声も、胸に残っている。


 温かい。

 怖い。


 それも、どちらも本当だった。


 真白は、ノートの端に小さく文字を書いた。


『大丈夫ではない』


 しばらく見つめる。


 その下に、もう一行書く。


『でも、今のところは大丈夫らしい』


 さらに少し考えて、その下に書き足した。


『焦がさない』


 真白は、その三行を見て、少しだけ困った。


 最後だけ、料理の反省のようだった。

 けれど、消さなかった。


 たぶん、それでいい。


 千瀬を遠ざけるだけでは意味がない。

 嫌わせることも、真白にはきっとできない。


 なら、付き合いながら考えるしかない。

 怖くても、逃げずに。


 好意を受け取りながら、すがらずに。

 言葉で切らず、心で抱え込みすぎずに。


「……弱火で」


 真白は小さく呟いた。


 一日三回。


 明日は、もしかしたら五回になるかもしれない。


 そう思うと、少しだけ困った。

 少しだけ、嬉しかった。

 そして、やはり怖かった。


 真白はノートを閉じる。

 明日も、千瀬と話す。


 今は、それだけでいい。

 すべての答えを出すには、まだ早い。


 真白は明かりを消した。

 部屋が暗くなる。


 暗闇の中で、真白は胸元に手を当てる。


 大丈夫ではない。

 けれど、終わってはいない。


 その言葉だけを抱えて、真白は静かに目を閉じた。

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