第172話 真白ねー
■翌日。
前田千瀬は、朝から少しだけ気合いが入っていた。
いつもより早く起きた。
いつもよりきちんと髪を整えた。
制服のリボンも、いつもより少しだけ真面目に結んだ。それを見た姉の千夜は、朝食の席で少しだけ目を細めた。
「体育祭?」
「違う」
「テスト?」
「違う」
「じゃあ、決戦?」
「そこまでではないけど、近い」
「近いんだ」
千夜は味噌汁を飲みながら、静かに頷いた。千瀬は箸を握ったまま、少しだけ頬を膨らませる。
「お姉ちゃん、もうちょっと心配して」
「してる」
「顔がいつも通り」
「心配してる時も、だいたいいつも通り」
「それはそれで怖い」
「うん」
千瀬は小さく息を吐いた。
真白は、嫌いではないと言った。
逃げないとも言った。
いつか話すとも言った。
それだけで、昨日よりは少しだけ呼吸ができるようになった。
でも、全部が解決したわけではない。
嫌いになってください。
真白姉と呼ぶのもやめてください。
好きでいるのもやめてください。
その言葉は、まだ胸の奥に残っている。
千瀬は、真白を嫌いになれなかった。
真白姉と呼びたい気持ちも、消せなかった。
好きでいるのをやめろと言われても、すぐに消せるものではなかった。
だから、今日は聞く。
本当に、真白姉と呼んではいけないのか。
せめて、その呼び方だけでも戻していいのか。
「お姉ちゃん!」
「何?」
「今日、聞いてくる」
「真白姉って呼んでいいか?」
「うん」
「そっか」
「駄目って言われたら、泣く?」
「泣くと思う」
「怒る?」
「怒ると思う」
「じゃあ、忙しいね」
「他人事みたいに」
「千瀬のことだから」
千夜はそう言って、千瀬の茶碗に焼き鮭を少し分けた。
「でも、聞くならちゃんと聞けばいい」
「うん」
「答えを急かしすぎないこと」
「……それは難しい」
「知ってる」
「知ってるなら言わないで」
「言うよ。千瀬は勢いで煮立つから」
千瀬は箸を止めた。
「それ、料理部っぽい」
「そう?」
「うん。煮立つって」
「じゃあ、弱火で」
「弱火」
千瀬は、自分の胸に手を当てた。
火は、まだ消えていない。
消したくない。
でも、焦がしたくもなかった。
「弱火って難しい」
「強火よりは安全」
「でも、弱すぎると何もできないよ」
「料理部っぽいこと言うね」
「料理部だから」
千夜は少しだけ笑った。
千瀬も、ほんの少しだけ笑った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
千瀬は鞄を持って立ち上がった。玄関へ向かう途中、もう一度だけ振り返る。
「お姉ちゃん」
「何?」
「もし泣いたら、帰ってから慰めて」
「うん」
「怒ったら?」
「聞く」
「笑ったら?」
「よかったねって言う」
千瀬は、少しだけ安心した。
「もう一度行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
■放課後。
料理部の部室には、いつもの匂いがあった。
洗剤の匂い。
小麦粉の匂い。
少しだけ残ったバターの匂い。
それから、放課後の学校特有の、窓から入る乾いた風の匂い。千瀬は部室の扉の前で、一度だけ深呼吸した。
大丈夫、昨日よりは大丈夫。
そう思って扉を開ける。
「失礼します」
部室の中では、数人の部員がすでに準備を始めていた。
その中に、真白がいた。
白いブラウスの上から、淡い色のエプロンをきちんと結んでいる。艶のある黒髪は乱れなく整えられ、背筋はいつも通りすっと伸びていた。
立っているだけで、どこか丁寧だった。
昨日、千瀬を泣かせた人と同じとは思えないくらい、静かに整っている。
けれど、真白は千瀬を見つけると、ほんの少しだけ表情を揺らした。
「千瀬さん」
名前で呼ばれた。
それだけで、千瀬の胸が少し跳ねる。
「……はい」
「来てくださったのですね」
「料理部なので」
「はい」
「部員なので」
「はい」
「来ます」
「……はい」
真白は小さく頷いた。その返事が真面目すぎて、千瀬は少しだけむっとした。
「真白さん」
「はい」
「今の、もうちょっと嬉しそうにするところです」
「え」
「私、昨日も泣いたんですよ」
「はい」
「今日ちゃんと来たんですよ」
「はい」
「そこは、もうちょっと、よかったですとか、安心しましたとか、そういうところです」
真白は目を瞬かせた。
それから、ほんの少しだけ困った顔をした。
「……安心しました」
「遅いです」
「申し訳ありません」
「謝るところじゃないです」
「難しいですね」
「難しくしてるのは真白さんです」
「……はい」
「はいじゃないです」
千瀬はそう言ってから、自分で少しだけ笑ってしまった。昨日と同じ言い方だった。
でも、昨日より少しだけ声が軽かった。
真白も、それに気づいたのか、わずかに目元を緩めた。
「今日の作業は、何をすればよろしいですか?」
真白が聞いた。
千瀬は手元の紙を見る。
「今日は体育祭前だから、簡単な差し入れ試作です。クッキーと、あと一口サイズのマフィンです」
「体育祭の差し入れですか」
「はい。運動部の人たちに渡すかもしれないので、食べやすいやつです」
「なるほど」
「朝比奈先輩にも渡すかもしれません」
言ってから、千瀬はちらりと真白を見た。
真白は一瞬だけ動きを止めた。
ほんの一瞬だった。
けれど、千瀬は見逃さなかった。
「今、止まりましたね」
「止まっていません」
「止まりました」
「材料の配分を考えていただけです」
「朝比奈先輩の名前で材料の配分を?」
「……砂糖を少し控えめにした方がよいかと」
「それは朝比奈先輩の好みですか?」
「分かりません」
「じゃあ、今のはごまかしです」
真白は答えなかった。
千瀬はほんの少しだけ楽しくなった。
昨日、泣いた。
まだ胸は痛い。
でも、こうやって話せる。
それだけで、少しだけ戻ってきた気がした。
■料理部。
作業は、思ったより順調に進んだ。
千瀬が材料を量り、真白が粉をふるう。
真白の動きは丁寧だった。
粉をふるうだけでも、指先に無駄がない。
千瀬は横から見ていて、少しだけ感心する。
「真白さんって、こういう作業も綺麗ですよね」
「そうでしょうか?」
「はい。粉まで礼儀正しく見えます」
「粉に礼儀はないと思います」
「真白さんが触るとあります」
「不思議なことを言いますね」
「よく言われます」
千瀬は卵を割った。
少しだけ殻が入った。
「あ」
慌てて取ろうとすると、真白がそっと小さなスプーンを差し出した。
「こちらを」
「ありがとうございます」
「急がなくて大丈夫です」
「はい」
そう言われて、千瀬は少しだけ手を止めた。急がなくていい。
それはたぶん、卵の殻だけの話ではなかった。千瀬は殻を取り出しながら、言う。
「真白さん」
「はい」
「昨日のこと、ひとつだけ聞いてもいいですか」
真白の手が、ほんの少しだけ止まった。
「……はい」
逃げなかった。
千瀬は、それを見て、少しだけ息を吸う。
「あの」
「はい」
「私、真白姉って呼んじゃ駄目ですか?」
真白の黒い瞳が、静かに揺れた。
千瀬は、慌てて言葉を続ける。
「あ、もちろん、無理なら無理でいいです。いや、よくはないですけど。よくはないけど、泣くけど、怒るけど、でも一応聞きます」
「一応なのですか?」
「大事なことなので」
「はい」
「昨日、そう呼ぶのもやめてくださいって言われました」
「……はい」
「でも、嫌じゃないなら、ちゃんとそう言ってほしいです」
「……」
「嫌なら言ってください。泣きますけど、聞きます。怒るかもしれませんけど、聞きます」
千瀬は、真白をまっすぐ見た。
「でも、真白姉が本当は嫌じゃないなら、私は呼びたいです」
部室の中の音が、少しだけ遠くなる。
他の部員たちは作業をしている。
水道の音。
オーブンの予熱音。
誰かの笑い声。
その中で、真白だけが少し静かだった。
「千瀬さん」
「はい」
「私は」
真白は言いかけて、言葉を止めた。
千瀬は身構えた。
駄目と言われるかもしれない。
まだ早いと言われるかもしれない。
昨日の言葉は何だったのかと、また泣きたくなるかもしれない。けれど、真白は逃げなかった。
「そう呼ばれることは、嫌ではありません」
「……嬉しいです」
真白は、少しだけ頬を赤くした。
言い直した。
千瀬は、そのことに気づいた。
「今、言い直しましたね」
「はい」
「えらいです」
「えらい、のでしょうか?」
「えらいです。昨日より一歩前進です」
「ありがとうございます」
「でも、ありがとうございますも変です」
「難しいですね」
「難しくしてるのは真白さんです」
千瀬はそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
「でも」
「はい」
「好きでいるのは、まだ駄目なんですよね?」
真白の手が止まった。
千瀬は、慌てて笑おうとした。
「今は聞きません。そこは、まだ聞くと泣くので」
「千瀬さん」
「今日は、呼び方だけ聞きます」
そう言って、千瀬は少しだけ口元を引き結んだ。
真白は何か言いたそうにした。
けれど、結局その言葉は出てこなかった。
出せないのだと、千瀬にも分かった。
「真白さん」
「はい」
「呼び方だけでも、戻していいですか」
真白は、少しだけ目を伏せた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
千瀬は、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
それは、全部を許されたわけではない。
何も解決していない。
それでも、ほんの少しだけ戻れた気がした。
「急に真白姉は火力が強いですか?」
「火力」
「お姉ちゃんに言われました。私は勢いで煮立つって」
「前田さんらしい表現ですね」
「うちの姉です」
「なるほど」
真白は少しだけ考えた。
それから、粉を入れたボウルを見つめながら言った。
「では、弱火でお願いします」
千瀬は目を瞬かせた。
「それ、言うと思いました」
「そうなのですか」
「はい。真白さん、たぶん弱火好きです」
「強火は、少し怖いです」
「でも火は消しませんよ」
千瀬はすぐに言った。
真白の指先が止まる。
千瀬も、言ってから少しだけ後悔した。
火を消さない。
それは、好きでいることをやめない、という意味にも聞こえる。
真白が一番怖がっているものに、触れてしまった気がした。
けれど、真白は黙ったまま、ゆっくり息を吸った。
「……消してほしいと言ったのに」
「はい」
「消えないと言われて、少し安心してしまう自分が怖いです」
千瀬は、何も言えなかった。
真白も、それ以上は言わなかった。
それでも、昨日より少しだけ進んだ気がした。
「じゃあ、弱火です」
「はい」
「焦がさないようにします」
「お願いします」
「でも、火が通らないのも駄目です」
「……はい」
「だから、たまに混ぜます」
「混ぜる」
「話しかけます」
「はい」
「真白姉って呼びます」
真白は、少しだけ目を伏せた。
でも、今度は逃げなかった。
「はい」
千瀬は息を止める。
「いいんですか」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「泣きますよ」
「なぜですか」
「嬉しいので」
真白は困った顔をした。
「泣かせたいわけではありません」
「昨日も泣きましたし、今日も泣いたら二日連続です」
「申し訳ありません」
「だから謝るところじゃないです」
千瀬は袖で目元を押さえた。
泣かない。
泣かないと決めていた。
でも、少しだけ滲んだ。
真白は、迷ったように手を伸ばしかけた。
けれど、触れる直前で止める。
千瀬はそれを見て、少しだけ笑った。
「そこ、止めるんですね」
「触れてよいのか、分かりませんでした」
「聞いてください」
「触れてもよろしいですか」
「はい」
真白は、そっと千瀬の目元にハンカチを当てた。
柔らかい布が、涙を吸う。
その手つきは、とても丁寧だった。
千瀬は目を閉じる。
「ありがとうございます」
「いえ」
「真白姉」
初めて、そう呼んだ。
昨日よりも、ずっと穏やかな声で。
真白の手が、ほんの少しだけ震えた。
けれど、ハンカチは離れなかった。
「はい、千瀬さん」
返事があった。
千瀬は、泣きそうな顔のまま笑った。
「返事しましたね」
「呼ばれましたから」
「じゃあ、もう一回」
「今日は一回だけです」
「えっ」
「弱火ですから」
真白が真面目な顔で言った。
千瀬は一瞬固まったあと、むっとした。
「弱火って便利に使いすぎじゃないですか」
「すみません」
「謝らない」
「……はい」
「でも、一回だけは少ないです」
「では、二回まで」
「十回」
「多いです」
「五回」
「多いです」
「三回」
真白は少し考えた。
「……三回まで」
「交渉成立です」
「料理部は交渉部ではありません」
「でもレシピも調整します」
「それはそうですが」
千瀬はにこっと笑った。
少しだけ、いつもの顔に戻っていた。
真白はそれを見て、ほっとしたように目元を緩める。
その表情が嬉しくて、千瀬は少しだけ胸を張った。
「じゃあ、一回使ったので、あと二回です」
「数えるのですね」
「大事なので」
「はい」
「でも、今日は大切に使います」
千瀬はボウルを持ち直した。
「真白姉」
「はい」
「混ぜ方、これで合ってますか」
真白は、ボウルの中を覗き込んだ。
近い。
近いけれど、昨日のように怖くない。
千瀬は、ちゃんと聞いている。
真白も、ちゃんと返事をしている。
それが嬉しかった。
「少しだけ、力が入りすぎています」
「はい」
「もっと、下から返すように」
「こうですか」
「はい。上手です」
「今、上手って言いましたね」
「言いました」
「真白姉に褒められました」
「二回目です」
「あっ」
千瀬は口を押さえた。
真白は少しだけ困った顔をした。
「あと一回です」
「厳しい」
「弱火ですから」
「明日は増えますか」
「明日の火加減によります」
「料理っぽい」
「料理部ですから」
千瀬は笑った。
真白も、ほんの少しだけ笑った。
笑った。
そのことが、部室の空気を少しだけ柔らかくした。
■料理部 試食時間。
焼き上がった小さなマフィンが、皿の上に並んでいた。
ほんのり甘い香りが部室に広がる。
体育祭の差し入れ試作という名目だったが、実際には部員たちの試食会になっていた。
「これ、朝比奈先輩に渡したら喜びますかね」
千瀬が言うと、真白は少しだけ真面目な顔になった。
「恒一様は、甘いものも普通に召し上がると思います」
「恒一様」
「あ」
「真白姉、今、恒一様って言いました?」
真白は黙った。
千瀬はにやっとする。
「婚約者っぽい呼び方です」
「それは」
「それは?」
「……癖です」
「癖なんですね」
「はい」
「怪しいです」
「怪しくありません」
「怪しい人はだいたいそう言います」
真白は困ったようにマフィンを見つめた。
千瀬はそれを見て、少しだけ楽しくなった。
昨日までの痛みが消えたわけではない。
真白の抱えているものが分かったわけでもない。
好きでいることを許されたわけでもない。
でも、こうして困らせることはできる。
話しかけることはできる。
返事をもらうこともできる。
それだけで、胸の奥の重さが少しだけ軽くなった。
「千瀬さん」
「はい」
「三回目です」
「え?」
「先ほど、真白姉と呼びました」
「あ」
千瀬は固まった。
真白は、なぜか少しだけ勝ったような顔をした。
「本日は終了です」
「そんな」
「約束です」
「今のは不可抗力です」
「不可抗力でも、数は数です」
「真白姉が恒一様って言うから」
「それとこれは別です」
「ずるいです」
「……はい」
「そこで認めるんですね」
「少しだけ」
千瀬はむっとした。
けれど、すぐに笑ってしまった。
「じゃあ、今日はもう北条さんに戻します」
そう言った瞬間、真白の顔が少しだけ寂しそうになった。
本当に一瞬だった。
でも、千瀬は見た。
胸が、きゅっとなる。
千瀬は少し考えてから、声を柔らかくした。
「真白さん、にします」
真白が目を上げる。
「それは」
「真白姉は三回まで。真白さんは弱火です」
「弱火」
「はい。北条さんは、ちょっと冷めすぎです」
真白は、言葉を失ったように千瀬を見た。
千瀬は、マフィンを一つ手に取る。
「駄目ですか?」
「……いいえ」
真白は小さく首を振った。
「それで、お願いします」
「はい」
千瀬は満足して頷いた。
火は消さない。
でも、焦がさない。
弱火で。
時々、ちゃんと混ぜる。
それが正しいのかは、千瀬にもまだ分からない。
でも、全部消してしまうよりは、今はずっとましな気がした。
■部活後。
片づけが終わる頃には、空は少し橙色になっていた。
千瀬は鞄を肩にかけ、部室の入口で振り返った。
真白は、調理台の上を最後にもう一度確認している。
布巾を整え、器具の位置を直し、窓の鍵を確認する。
そういうところまで丁寧だった。
「真白さん」
千瀬が呼ぶと、真白は顔を上げた。
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「三回制は厳しいです」
「明日、再交渉しましょう」
「本当ですか」
「はい」
「じゃあ、明日は五回です」
「増え方が急です」
「体育祭前なので」
「関係ありますか」
「あります。気合いです」
真白は少しだけ笑った。
「では、考えておきます」
「はい」
千瀬は扉を開けた。
廊下に出る前に、もう一度だけ振り返る。
「真白さん」
「はい」
「約束、忘れないでくださいね」
真白の表情が、静かに引き締まった。
けれど、昨日のように逃げる顔ではなかった。
「忘れません」
「必ずです」
「はい。必ず」
千瀬は頷いた。
それから、少しだけ笑った。
「じゃあ、また明日です」
「はい。また明日、千瀬さん」
千瀬は廊下へ出た。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
真白は、しばらくその場に立っていた。
胸の奥は、まだ怖い。
千瀬に真白姉と呼ばれたことは、嬉しかった。
嬉しいと思う自分が怖かった。
千瀬に嫌われなければならない。
そう思ったはずだった。
それなのに、嫌われたいと言った相手に、明日も呼ばれたいと思ってしまっている。
「……弱火」
真白は小さく呟いた。
それが正しいのかは、まだ分からない。
けれど、昨日のように突き放すことだけが正しいとも、もう思えなかった。
明日も、話す。
少なくとも、逃げない。
その約束だけを、真白は胸の奥にしまった。
■前田家。
「お姉ちゃん」
「どうだった?」
千夜は、千瀬の顔を見ただけで、少しだけ肩の力を抜いた。
昨日より、顔が明るい。
目元は少し赤いが、泣き腫らした感じではない。
「真白姉って呼んでもいいって」
「よかったね」
「でも一日三回まで」
「回数制なんだ」
「弱火だから」
「弱火なんだ」
「あと、真白さんは無制限」
「そこは無制限なんだ」
「北条さんは冷めすぎ」
「温度管理が細かい」
千瀬は鞄を置いて、床に座った。
「でもね」
「うん」
「返事してくれた」
「うん」
「真白姉って呼んだら、はい、千瀬さんって」
「うん」
「ちょっと震えてた」
「うん」
「でも、逃げなかった」
千夜は静かに頷いた。
「そっか」
「うん」
「千瀬は?」
「私も泣かなかった」
「偉い」
「ちょっとだけ泣いた」
「じゃあ、だいたい偉い」
「だいたい」
千瀬は笑った。
その笑い方が、昨日よりずっと千瀬らしかった。
「お姉ちゃん」
「何?」
「火、消さなくてよかった」
「うん」
「でも、焦がさないようにする」
「うん」
「難しい」
「料理部だから」
「料理部、恋愛相談まで範囲広いね」
「恋愛なの?」
千夜が聞くと、千瀬は少しだけ考えた。
「違うと思う」
「うん」
「でも、好きは好き」
「うん」
「姉みたいな、先輩みたいな、綺麗な人みたいな、放っておけない人みたいな」
「うん」
「よく分かんない」
「それでいいんじゃない」
「いいのかな」
「今は」
千瀬は膝を抱えた。
「今は、か」
「うん」
「じゃあ、今はそれでいい」
千夜は妹の頭に軽く手を置いた。
千瀬は、少しだけ照れたように笑った。
「明日は五回に増やす」
「急だね」
「交渉する」
「頑張って」
「うん」
千瀬は元気よく頷いた。
その顔を見て、千夜は少しだけ安心した。
全部が解決したわけではない。
北条真白の怖がっているものは、まだ何も分からない。
それでも、千瀬は戻ってきた。
泣きながらではなく、少し笑って。
それだけで、今日は十分だった。
■夜。
朝比奈恒一は、千夜から届いた短い連絡を読んだ。
『千瀬、今日は少し元気。北条さんを真白姉って呼んでいいことになったらしい。一日三回まで』
「……三回?」
思わず声が出た。
一日三回まで。
どういう取り決めなのか、まったく分からない。
だが、昨日よりは明らかに軽い報告だった。
俺は少しだけ安心した。
北条さんと千瀬ちゃんの間に何があるのか、まだ分からない。
北条さんが何を怖がっているのかも分からない。
けれど、完全に壊れたわけではないらしい。
三回。
回数制。
よく分からないが、千瀬ちゃんらしい気もした。
俺は返信を打った。
『よく分からないけど、少し元気ならよかった』
少し迷って、もう一文加える。
『一日三回は少ない気もする』
送信したあと、すぐに千夜から返事が来た。
『そこ?』
俺は画面を見つめた。
たしかに、そこではなかったかもしれない。
でも、三回は少ない気がした。
そんなことを考えられるくらいには、昨日より少しだけ空気が軽くなっていた。
俺は携帯を伏せる。
北条さんは、まだ何かを抱えている。
それは変わらない。
神様に聞けば、何か分かるのかもしれない。
そう思わなかったわけではない。
北条さんのこと。
千瀬ちゃんのこと。
嫌いになってくださいという言葉。
好きでいるのもやめてくださいという言葉。
ただの人間関係だと言い切るには、どこか妙だった。
けれど、北条さんが言えないと言ったことを、本人ではない誰かから聞き出すのは違う気がした。
それが神様であっても、同じだった。
北条さんには、北条さんの言葉で話すべきことがある。
俺が勝手に先回りして知ってしまったら、きっと何かを間違える。
だから、今は聞きに行かない。
分からないことは、分からないままにしておくしかない。
少なくとも、北条さんが自分で話すと言うまでは。
「……三回」
小さく呟く。
やはり少ない気がした。
そのことをもう一度送るべきか迷って、やめた。
さすがに、それは俺が口を出すことではない。
その夜、俺は少しだけ早く眠れた。
夢には、なぜか回数券が出てきた。




